文楽の本と歌舞伎の本
「あやつられ文楽鑑賞」は、読みはじめると、首をかしげることばかりだつた。
「さうかなあ」
「えー、それはちよつとちがふんぢやないかなあ」
なぜだかさう思つてしまふ。
もしかすると、やつがれが著者ほど文楽に愛がないせゐだらうか。
さうも思つた。
それもまあ、あるかとは思ふのだが、ほぼ半ばまで読んだところで合点がいつた。
著者とやつがれとでは、趣味がちがふのである。
著者である三浦しをんは、「仮名手本忠臣蔵」といへばお軽と勘平だ、といふ。
いや、ちよつと待て。
それはちがふだらう。
お軽と勘平なんて、自業自得のふたりぢやあないか。
「色にふけつたばつかりに」つてそのとほりだよ!
と、いつも見ながらさう思ふ。
「仮名手本忠臣蔵」といへば、やつがれにとつては九段目だ。
もう、「雪こかし」から引き込まれてしまふ。
雪の中、燃えるやうな緋色の母親と、雪に同化しさうな花嫁姿の娘。
そこにあらはれるあやしげな虚無僧。
人のためによかれと思つてしたことが、なにもかも裏目にでてしまつた、そのやるせなさ。
九段目、最高ぢやん!
さういふ人間と、「仮名手本忠臣蔵」といへばお軽と勘平よねえ、といふ人間と、相容れるわけがないのだつた。
橋本治の「大江戸歌舞伎はこんなもの」を読むのは三回目だと思ふ。
四六判で出たときに一度、文庫になつたときに一度、これで三度目なんぢやないかな。
はじめて読んだときに、「さういふことだつたのかー」と腑に落ちることの連続で、その後しばらくはこれが芝居を見るうへでの規範だつたやうに思ふ。
今回読みなほして、「その後しばらく」はまだつづいてゐるんだな、といふことに気がついた。
道理で芝居は好きなのに、なんとなく妙な気分で帰ることが多いはずだ。
この本は、江戸の歌舞伎といふものをとてもわかりやすく説明してゐる。
わかりやすく説明してはゐて、では、それのどこが好きなのか、と訊かれると「うーん」とうなつてしまふ。
わかることと好きであることはちがふ。
わかるから好きなのではない。
むしろ、わからないから好き。
ここんところが世の人にはいまひとつ理解してもらへなかつたりするのだが。
理解できなくても、この本は十分わかりやすいから大丈夫。
とりあへず、歌舞伎を見に行つて、「なんだか妙ちきりんなんだけど」と思つたら読んでみるといい。
いろいろ謎が解けることと思ふ。
どちらも、「わかりやすい」本であると思ふ。
そして、どちらも文楽や歌舞伎をまつたく知らない見たことない人には向かない本だと思ふ。
「あやつられ文楽鑑賞」は、一度くらゐは文楽を見たことのある人向けな気がする。
一度見て、なんとなく気になる。さういふときに読むといい。
「大江戸歌舞伎はこんなもの」は、もう少し何度か芝居に通つてみて、「なんでかうなのかなあ」と思ふやうになつたころに読むとよい本。
とはいへ、最近の歌舞伎の公演は、またいろいろ変はつてきてゐるので、「なんでかうなのかなあ」と思ふこともないかもしれないと思はないでもないけれど。
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