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Thursday, 28 February 2013

「美文字」つてなに?

二月三日、二十三日と東京国立博物館平成館に「書聖 王羲之」を見に行つてきた。
さう、二回も。
二月三日だけで済ませるつもりだつたのだが、この日、二時半ごろ博物館の中に入つて、まつたく時間が足りなかつた。
展示品の後半、王羲之とどう関係のあるのかよくわからないが著名な後世の書家の作品を駆け足で見る羽目になつてしまつた。
蘇軾の李白仙詩巻なんかもあつて、ちやんと見たかつたので、もう一度行つた、と、かういふ寸法である。
肝心の蘇軾は、もうなかつた。なんでも会期中前半しか展示してなかつたとのことである。
なんてこと!
大阪市立美術館蔵とのことだが、普段は展示してゐないのだらうか。ゐないのかもしれないなあ。

ところで、博物館や美術館の類にはあまり行かない。
え、川本喜八郎人形ギャラリー? これは別。

なぜ行かないのかといふと、残念ながら美術品を見る目がないからだ。
さらに、人ごみが苦手だ。
美術品を見る目がないと、どうしても名前を知つてゐるやうな画家や藝術家の作品展を見に行くことになる。
すると、やつがれとおなじやうな有象無象がうようよゐるやうな展覧会に行くことになる。
仕方がない。
見る目がないんだから。

そんなわけで、書の展覧会に行くのははじめてだつた。
楽しいのかなあ、と、ずいぶん心配したが、二回も行つた、といふことで、どれくらゐ楽しかつたか、ご理解いただけるのではないかと思ふ。

といふ話は、別の機会にゆづるとして。

かうした展覧会に行つたあとで本屋に立ち寄ると、目につく書籍がある。
「美文字」と題した本の数々だ。

「美文字」、ねえ……
すでに「美文字」といふことば自体がうつくしくない。
字面はいいかもしれない。
でも、聲に出して読んでみればわかる。
なんだかうつくしくないだらう?
このうつくしさの欠如は「美肌」に似てゐる。

ほとんどTVを見なくなつて久しいのでまつたく知らなかつたが、世の中には「美文字王子」だとか、「美文字講師」だとか呼ばれてゐる人々がゐるといふことも知つた。

「書聖 王羲之」でも、王羲之より後世の書家・文徴明は、字がへただつたため科挙の試験に落ちつづけたので、千字の臨書を毎日十回づつおこなつてゐたといふし、地方試験で首席だつたのに字がへただつたせゐで次席になてしまつた書家なんてのもゐたりして、そんなエピソードを見るたびに、「ああよかつた、そんな時代に生まれなくて」と思つたものだ。

でも、今はさういふ時代ではない。
職場で字を書く機会もほとんどない。文書はWordやExcel、場合によつてはPowerPointで作成してそれをそのまま印刷する。他人に用件を伝へるのはメール。
自宅でもそれはあまり変はらない。
年賀状でさへ、表も裏もすべて印刷といふ人が多からう。やつがれは、宛名書きだけはすべて手書きにしてゐるが、これはどうやら筆圧の極めて低いゆゑに可能なことなのらしいといふことに去年の暮れ気がついた。

それなのに、なぜいまどき「美文字」。
よくよく見れば、通信教育でもペン字は幅をきかせてゐるやうだ。
さういへば、昔「日ペンの美子ちやん」とか、ゐたよねえ。なつかしい……

履歴書も今はPCで作るだらうしなあ。
「美文字」の出番がよくわからない。

たしかに、字はきれいなことに越したことはないが。
「美文字」とやらに血道をあげる、その心がよくわからない。

かく云ふやつがれは悪筆で、こどものころからさんざんに云はれてきた。
十年ほど前職場から補助金がもらへるといふので通信教育でペン習字を受講してみたこともある。
このときは、自分でもはつきりとわかるほど字が変はつた。お手本を見なくてもお手本に近いやうな字を書くやうになつてゐた。このころ書いた字は今見てもわかる。
しかし、それもものの半年くらゐでもとに戻つてしまつた。

せめて読みやすい字、といふのならいいのだが。
残念ながらそんなことはまつたくない。

さういへば、こどものころは筒井康隆の字にあこがれてゐたなあ。
新潮社のハードカヴァ本フェアがあつて、本を紹介した冊子に筒井康隆の生原稿が掲載されてゐた。
こんな字が書ければなあ。
さう思つて、真似して書いてゐた時期もある。
結局、真似できずに終はつたけれど。妙なくせだけは残つてしまつた。縦書きにするときに、左側に寄せて書く、とかね。左右の払ひが異様に長い、とか。
筒井康隆の字は、「大いなる助走」で見ることができる。これは新装版で、実は以前の版の方が見やすいんだけどね、字自体は。

今は、人形劇三国志の題字とか、劇中に出てくる字とかに惹かれてゐる。題字は、十一話目くらゐから突然変はるのだが、変はつたあとの方が好きだ。

でも、きれいな字つて、まづ美醜を見極める審美眼を持つてゐることが肝心で、つぎにそれを実現できる器用な手が必要なんだよね。
とりあへず好きな字といふのはあるけれど、それを実現する手をもたないやつがれは如何せん。

とりあへず、「美文字」とやらを冠した本の一冊でも買つてみるか?
あるいは。

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Wednesday, 27 February 2013

あみものの洋書を読む: EZの_Knitter's Almanac_

はじめて買つたあみもの洋書。
それがKnitter's Almanacである。

著者はElizabeth Zimmermann。
米国あみもの界(といふものがあるとして)では、「EZ」でとほる。
あみもの、といふか、棒針編みをしてゐて「EZ」がなにをさしてゐるのかわからないなんて、あり得ない。
それくらゐの人物である。

とにかくね、字ばつかり。
これが最初はおどろきだつたねえ。
あみものの本といつたら、モデルさんがセーターを着たり帽子をかぶつたりマフラーを巻いたりしたカラー写真が一ページ、ときに見開きでデカデカと載つてゐて、白黒の編み方のページがつづく、といつたものだと思つてゐた。
それが、この本は白黒で作品の写真が掲載されてはゐるものの、あとはとにかく文章 after 文章。
本邦でこんなに文字ばかりのあみものの本つて、ちよつとない。
さうだなあ、橋本治の「男の編み物 手トリ足トリ」は、ちよつとこんな趣だつたかなあ。

群ようこの「群ようこ〈編物〉術・毛糸に恋した」といふ本もあつたが、これは編み方が載つてゐるわけではないからなあ。でも、あみものに関する文章といふことでは貴重な本ではあるけれど。

Knitter's Almanacは、もちろん、ここに書いてあるとほりにしたがつて編めば作品はできあがるのだが。
しかし、それよりもなによりも、とにかく饒舌なことにおどろく。
本邦のあみものの本で、自作についてこんなに語るデザイナつてゐないよね。
つてーか、むしろ、なんでゐないんだらう。

やつがれには、あるものを好きになると、それに関する本をやたらと読みたくなるといふところがある。
芝居にはまつたばかりのころは芝居の本ばかり読んでゐたし、萬年筆にはまつたばかりのころも文房具の本ばかり読んでゐた。
あみものばかりは、好きになつてもなかなか読むものがなかつたが。

あるぢやあないか。米国に。

とはいへ、当初はこの本は好きにはなれなかつた。
むしろ、EZのことを好かなかつたのかもしれない。
たとへば、EZはかぎ針編みに対して、非常に辛辣なことを云ふ。
かぎ針編みだつておなじあみものなのに、なんでそんなに差別するやうなことを書くんだらう。

当時、やつがれは知らなかつた。
米国では、棒針編み(knitting)とかぎ針編み(crochet)のあひだには、深くて暗い河の流れてゐるといふことを。
傍から見たら、たいした違ひはない、下手したら同じことをしてゐるかのやうに見える棒針編みとかぎ針編みが、英語では「knitting」と「crochet」といふ、まつたく別物であるといふことを。

EZは、「あたしはね、棒針編みでできることは棒針編みでするんだよ」といつて、かぎ針編みをなかなかとりあげやうとはしない。ショールなど輪に編むときの編みはじめにかぎ針を使ひはするが、端の処理とかなんとかでかぎ針編みを使つたりするところを、「それは棒針編みでもできるから」とやらない。
なぜなら、「棒針編みの方が、かぎ針編みよりすぐれてゐるから」。

………………それつて、どうなんだらうか。
かぎ針編みより棒針編みの方がすぐれてゐる?
どこのだれがそんなことを決めたのか。

その後、米国のあみものblogを読むやうになつて、さう主張する人間が少なからず存在することを知る。

そんなことで優劣を決めてどうする。

knittingとcrochetと、ことばとしてはつきりと明確に区別されてゐるといふことは、かうした差別を生み出すものなのだなあ。
嘆かはしい。
アメリカ合衆国といふのは、「a (new) nation, conceived in Liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal.」といふ国ではなかつたのかね。
それとも、すべての人は生まれながらに平等でも、すべての手工藝はさうではない、とでもいふのかね。
EZは移民?
ほとんどのアメリカ人はさうだらうよ。

このEZをはじめとするcrochetを差別するknittersへの感想は、今でも基本的には変はらない。
好き嫌ひはあるとは思ふ。
たとへば、やつがれは縫ひもの系全般が苦手だ。好きではない。だからといつて、あみものと比べて劣つてゐるとは考へない。
個人の好き嫌ひを優劣と結びつけるのつてどうなんだらう。
#といふことばは自分にも返つてくる。気をつけねば気をつけねば。

しかし、それぢやあこの本はダメな本なのか、といふと、そんなことはない。
確かに、はじめて読んだころは、上記のやうな理由で、ちよつと距離をおいたりした時期もあつたけれど、でも読んでゐると、「さうくるか!」といふ発想が次から次へと出てくる。
やはり、好き嫌ひとものの優劣とは、関係ない。
さう思ふ。

最近、「おしゃれな世界のニットレシピ -英語パターンでたのしく編もう」といふ本が発売された。
まだ見てないのだが、これを見ながら「Knitter's Almanac」からなにか編むとかできるのかも?

とりあへず、Pi Shawlなんかは英語ができなくても編めるんぢやないかなあ。編み方の記述は英語といふよりは記号なので、暗号解読できれば編めるんぢやないかと思ふ。
といふか、やつがれはさうして編んでゐるので、なんとかなるんぢやないかといふ気がする。

先代の中村又五郎は、「役者には世界共通のことばがある」といふやうなことを云つてゐた。
ことばは通じなくても、役者同士理解し合ふことができるのだといふ。
あみものにもさういふところがあるんぢやないかな。
甘いか?

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Tuesday, 26 February 2013

なにかが違ふ

前回、「毛糸だま 2013年 春号 No.157」に、高嶋タティングが出てゐるといふ話を書いた。

この時点では、「毛糸だま」は本屋で見かけただけで、まだ購入してゐなかつた。
その後、買つてみたのだが。

うーん、この高嶋タティングの作品、高嶋タティングの必要があるのだらうか。

前回もちよこつと書いたが、高嶋タティングの特徴は、タティングレースとかぎ針編みを組み合はせたところにあると思つてゐる。
高嶋タティング針のよさもそこにある。
タティングレースの技法でリングを作り、普通はブリッジでつなぐところをかぎ針編みの鎖編みでつなぐ、とか。
モチーフ同士は鎖編みやこま編みでつなぐ、とか。
さういふ、技法のコンビネーションの妙が高嶋タティングの特徴であり、楽しさでもある、と思つてゐるのだが。

どうも「毛糸だま」に掲載されてゐる作品は、さうではない。
これ、高嶋タティング針でなくてもできるぢやん。
これだつたら、高嶋タティング針を使ふよりも、ニードルタティング用の針を使つた方がかんたんにできるんぢやないかなあ。
いや、針を使ふ必要さへない。シャトルで十分。
そんなことないかなあ。
もしかしたら、なにか見落としてゐるのか知らん。

もちろん、高嶋タティングだからつて必ずタティングレースとかぎ針編み双方の技法が取り入れられてゐなければならないといふことはない。
「毛糸だま」に掲載されてゐる作品は、これで十分かはいらしいものだと思ふ。

でもなあ、期待してゐたものとちがふんだよなあ。
期待したやつがれが悪いのか。うむ、さうかもしれんな。

特許を取つてゐるだけに、あまり外部にあれこれ知られたくないといふ思惑もあるのだらうか、とか、邪推してしまふ己が悲しいよ。

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Monday, 25 February 2013

編み終はらない

この週末に編むだけでも終はらせるつもりだつたのだが。
あと二段くらゐなんだがなあ、Vortex Shawl。

Vortex Shawl in Progress

でもきつと、伏せ止めに普通に編むのの三倍くらゐ時間がかかるから、仕上がるのはもつと先だな。

寒いうちに仕上げたかつたのだが……しばらくは寒いかなあ。
夕べなんかも、湯舟につかつてあたたまつた心地のしなかつたのはこの冬はじめてつて感じだつたし。

しかし、外を歩けば梅はほころんでるしねえ。
今日は梅祭りか。菅原道真の命日、といふことになつてゐるが、旧暦だから実際はもつと後だらう。

その昔、二月二十五日に北野天満宮へ行つたことがあつた。
前の日に南座で芝居見物して、翌日はあちこち歩きまはるといふ日程。ここ何年も、芝居抜きで京都へ行くことがない。

言ひつくされてはゐるけれど、冬の京都は寒いよね。足元から冷えの這ひのぼる感じ。お腹にくる寒さだ。
足元からくるつてのは、地面も冷え切つてゐるのだらう。

その京都、夏は暑い。
といふことは、地面はかなり短い期間に冷えたりあたたまつたりするのだらう。

なんだかまるで我が家のやうだなあ。
現在の我が家は、床も壁も冷えびえと冷たい。
これが夏になると、もわりと暑くなる。
いつのまに、とも思ふが、人間には如何ともしがたい気がしてゐる。

いつまでショールを使ふことができるのか。
これもまた読めないが、とりあへずこの週末にでも仕上げればまだ間に合ふだらうか。

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Friday, 22 February 2013

条件にあてはまらぬペン

LAMMYのSAFARIも何本か持つてゐるが、結局手にとるのは一等最初に買ふたこのペンである。

LAMMY SAFARI

透明軸の極細ペン先。インキはヤンセンのシェークスピア。
扱ひの荒いせゐだらう。軸はくもつてゐる。

先日、ペン先はやはらかいタッチのものが好きで、さうでなければスタブつぽいのが好き、と書いた。
このSAFARIはこの条件のいづれにもあたらない。
書いたときにかたい印象があるし、スタブといふわけでもない。
もつといふと、極細とは名ばかりで、かなり太い線になつてしまふ気がする。まあ、舶来ものの極細はこんなものかなとは思ふ。

ではなぜ愛用してゐるのか。

かたくて、さりさりした感じの書き味が気に入つてゐるからだ。
なんとなく、鉛筆またはシャープペンシルで書いてゐるときの感覚に近い。

実際に、鉛筆を手にして書いてみると、このペンで書いたときとはまつたくちがつた感じがする。
でも、このペンは、鉛筆感覚で使つてゐるペンなのだつた。

はじめてMoleskineを買ふたときは、よくこのSAFARIで書き込んだものだつた。
当時のMoleskineはそんなににぢまなかつた。
クリーム色の紙に、シェークスピアの茶色いインキがよく映えた。
いまはにぢみまくつてしまふので、残念ながら使へない。

Rhodiaの紫めいた罫線にもよく似合ふ。

さつと取りだしてぱつと書きとめる。
そんなときによく使ふペンである。

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Thursday, 21 February 2013

吹替大好き

吹替が好きになつたのはいつからだらうか。

先日も書いたとほり、吹替が好きなのだが。
TVで映画を見るのが普通だつたので、吹替もまた普通のものだと思つて見てゐた。

多分、実際の聲を聞いて一番最初におどろいたのはクリント・イーストウッドだつたと思ふ。

「山田康雄ぢやない!」

いや、あたりまへなんだが。
当然のことなのだが、あれには相当おどろいた。
まつたくちがふ聲だつたからかもしれない。

違和感はさう長くはつづかなかつた。
本来の聲なんだから、当然のことだ。
その一方で、吹替にも違和感を感じなかつた。
これは、幼いころからこの声で慣れてゐるから、かなあ。

映画館では本来の聲、TVでは吹替。
さういふもの。
さう思ふてゐたのかもしれない。
いや、今でもさう思ふてゐる。

たとへば、モンティ・パイソンは、吹替でも字幕でも楽しめる。
出会ひは吹替だつた。
その後、長いこと字幕で見てゐて、数年前、見つかつた部分だけ吹替のDVD BOXが出て即買つた。
ついついどちらも見て(聞いて)しまふ。

以前インタヴューに答へて山田康雄が疑問を呈してゐたことがある。
モンティ・パイソンの吹替つて、ほんたうにおもしろいのか、と。
ブリティッシュ・ジョークなんて、わからない。それをそのまま翻訳できてもゐないだらう。
それがおもしろいものなのか。

多分、日本でモンティ・パイソンを見てゐた人は、ブリティッシュ・ジョークなんてなことは、考へてゐなかつたんだと思ふ。

ただ、試行錯誤の末訳しただらう脚本や、それをもとに名優の演じたものを「おもしろい」と思つてゐたんぢやあるまいか。

すくなくとも、やつがれはさうだ。

「ブリティッシュ・ジョーク」とかいふものを知るやうになつたのは、ずつとのちのことである。
そしてそれは、吹替のモンティ・パイソンに出会はなかつたら、知ることはなかつたかもしれない。
あるいは知つたとしても、もつとあとのことになつたんぢやあるまいか。

吹替でモンティ・パイソンを知つた人の中には、やつがれとおなじやうにブリティッシュ・ジョークと出会つた人もゐるだらう。

最近、とみに字幕や吹替に否定的な意見を見かけるやうになつた。
それだけ英語その他の外国語を理解する人が増えてきたといふことだらう。
しかし、その指摘には的はづれなものが多い。
字幕や吹替といふものを、理解してゐないんぢやないか。そんな気がする。

挙げ句の果てには、実際の俳優の聲を聞け、などと仰る向きもある。

やれやれ。

さうすることで、楽しめない人が多いから、字幕なり吹替なりが存在する、といふことを、認識してゐないのらしい。

字幕や吹替を通して、新たな世界に踏み出す人もゐる、といふことも、わからないのだらうな、きつと。

さういふ人は聲も大きいから、字幕や吹替の未来を不安に思ふこともないわけぢやない。

でも、世の中の大半の人は、良識あるものと、信じてやまない。

つてーか、まあ、早い話が、吹替、好きなんだよ。
悪かつたね。

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Wednesday, 20 February 2013

「柳亭市馬の懐メロ人生50年」を読む

好きとはどういふことか。

とかいふてるからダメなんだよなぁ、とは思ひつつ、いつも疑問に思ふてゐる。

たとへば、やつがれには好きなものなんてないんぢやないか、と、いつも思ふ。

あみもの好きなんぢやないの、とか、お芝居好きなんでせう、とか、まあ多分さうなんだけれども、ほかのあみもの好き、お芝居好きな人を見ると、「自分ていどで好きとか云つてちやいかんなあ」といふ気がする。

好きなんて、比較の問題ぢやないだらう?
さうも思ふが、うーん、まあ、やつがれは、「好きの体温」が低いんだらう。

柳亭市馬をはじめて聞いたのは「お菊の皿」。
勝手に正統派の噺家だらうと思つてゐて、まあそれはそのとほりなんだけれども、このお菊さんが歌ふの歌はないのつて。
「憧れのハワイ航路」を岡晴夫調に歌ひあげるさまに、「なんか、すごいものを聞いてゐる」としみじみ感じ入つたものだつた。

柳亭市馬の懐メロ人生50年」は、そんな懐メロ好きが高じて歌手にまでなつてしまつた市馬師匠の著書である。

帯の「あたしは昭和30年代までの歌謡曲しか、聴かないんです」といふひとことに惹かれて買つてしまつた。
なんてやうすがいいんだらう。
イカす。
心底さう思ふ。

好きつて、いいことなんだよな。
だつて、この本読んでて楽しいもの。

懐かしのメロディについては、やつがれも、そこそこ知識はあるつもりだ。
この本に出てくる歌手はほぼ全員わかる。でも、代表的な歌くらゐしか知らなくて、市馬師匠のあげてるやうな「あまり歌われないけどいい曲」はほとんど知らない。

でも、いい。
読んでて楽しい。
「この歌、知らないや。聞いてみたいな」
さう思ふ。

おそらく、市馬師匠の懐かしのメロディへの愛が、そこにあるからだらう。

なにかを好きである、といふのは、なんとはなしにはづかしさを覚えるものだ。
いや、あるものを「好きです」といふときに、そこにいくばくかのはづかしさがある。
そんな気がする。

そんなはづかしさを楽しむのもいいんぢやないかな。

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Tuesday, 19 February 2013

CroTat あるいは高嶋タティング

毛糸だま 2013年 春号 No.157」に、高嶋タティングが出てゐる。

実は、やつがれも高嶋タティング針を持つてゐたりする。
え、全然「実は」ぢやない? おまへなら絶対持つてゐるはずだ?
理解されてゐる、と思つていいのだらうか。

閑話休題。
以前、はじめて神戸のドヰ手芸に行つたとき、記念にと思つて高嶋タティング針を買つた。
一緒に本も買つた。

しかし、なかなかうまくできなくてね。
いろいろ試行錯誤した結果、こんなものを作つた記憶はある。

Crotat Crochet

高嶋タティングは基本的にはニードル・タティングの要領でタティングしつつ、ところどころにかぎ針編みの要素をもりこんだもの、と、理解してゐる。

普通のかぎ針ではできないのか。
できないことはない。
ただ、クロバーのペン-Eだと、柄の部分が長過ぎて、タティングには向かない。タティングでリングを作るにはあるていどダブルスティッチをためておけるだけの長さが針の部分に必要になる。ペン-Eやアミュレ、エティモなんかだと、針の部分が短過ぎると思ふんだよね。
アフガン針の方が、向いてゐるんぢやないかな。さういへばアフガン針で高嶋タティングはやつたことないや。なんか、できさうな気がする。今度やつてみやう。

さて、高嶋タティング針の使ひ心地だが、ほんとにちよこつとやつてみただけなので参考にはならないかもしれない。
有り体に云ふと、使ひづらかつた。
多分、針に糸をひつかけて、さうしてできた輪の中に糸を引き込む、といふのがうまくできなかつたんだと思ふ。あと、くさり編みにも結構苦労した。

多分、慣れの問題だと思ふんだがなあ。
慣れるまで、我慢できなかつた。

針を持ちかへるのが苦にならなければ、タティング部分はタティングニードルで、かぎ針編み部分はかぎ針でやつた方が、楽なんぢやないかなあ。
やつてみたことはないけれど。

それにしても、この写真はひどいね。
よれよれだし。
「毛糸だま」の写真に出てゐた作品は、かつちりしててきれいだつたもんなあ。

ちなみに、上の栞はLisbeth #20で作つた。
一番最初のLisbethである。
「そんなに使ひやすいわけぢやないなあ」と思つてゐたら、ある日突然手芸屋(Handy Handsだ)から以前頼んだのと同じ糸が送られてきた。
なんでも、初回の製品はできがよくなかつたので、新たに作りなほした(作りなほさせた?)ものを送ります、といふ。
なんて良心的。

とはいふものの、そのできのよくない糸も捨てられず、かうしてCroTatに使つてみたわけだが。
やはり、糸もいいものを使はないとダメだねえ。

「毛糸だま」を買つてきて、高嶋タティング針を発掘するかな。

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Monday, 18 February 2013

Endless Shawl Knitting

あひかはらずVortex Shawl (Rav)を編んでゐる。

今月の二日に編みはじめて、やうやく終はりが見えてきたやうな、さうでもないやうな、そんな状態だ。
SchaeferのAnneといふ毛糸を二玉使ひきるつもりではじめて、やつと二玉目の終はりが見えてきた、そんな状態である。一玉だいたい113gとのことなので、二玉だと225g前後といつたところか。

寒いうちに仕上げたいといふ気持ちはあつて、日々せつせと編んではゐるのだが、如何せん、一周編むのに10分以上かかるやうになつてきて、なかなか進まなくなつてゐる。

編みかけのショールほど見たときにたのしくないものはさうさうないのだが、まあ、こんな感じ、といふことで。

Vortex in Progress

色は、編みはじめたころ掲載した写真の方が実際に近い。Rosewoodといふ色合ひで、橙色と茶色の中間色がまだらになつてゐる、といつた感じかと思ふ。
いい色なんだがなあ。春先にはもう向かない色だらう。

こんな調子で、円形ショールはもうしばらくはいいかな、と思つたりもする。
その一方で、次も円形ショールを編まうかなあと思つてゐたりもする。
去年、ヘルシンキに行つたときに買つてきた糸で、PI Shawlを編みたいんだよね。
PI Shawlはこれまで二回編んだことがあつて、最初はメリヤス編み、二回目は何段かに一度かけ目減らし目で穴を開けたもの。
さらにもつとレース模様つぽいものとか、Elizabeth Zimmermann生誕百周年記念といふことで、PI Shawlをもとにデザインされたショールとかもあつたりする。

次に編むつもりのデザインは、二回目と同じ、穴の開いたショールにするつもりだ。
もしかすると編んでゐるあひだは退屈するかもしれないが、できあがつたときのレースつぽいけどレース過ぎない感じが好きだからだ。

レース編み、楽しいんだけどね。普段使ふにはちよつとね。

今編んでゐるVortex Shawlも、レーシー過ぎないところがいいなと思つて編みはじめた。
しかし、ここまで大きくなつてくると、ただひたすらメリヤス編みだけをしてゐる部分が長過ぎる。
TVなんかを見ながら編む分にはいいんだけどね。最近TV見ないしね。
去年の八月くらゐから、電気代のあまりの高騰におどろいて、いろいろ考へた結果、TVを見るのをやめるしかない、といふところに行き着いて、以来、ほとんど見なくなつてしまつた。

今日、午後六時四十五分からNHKの地方局ニュースを見て、七時からのニュースを見て、「ダーウィンが来た」を見てゐる途中で、TVからの音がうるさすぎてそれ以上見てゐられなくなたつた。
NHKの番組がうるさかつたら、民放の番組はもつと見られないだらう。
そんな気がする。
一番長時間TV番組を見るのは、日曜の朝で、朝からお昼くらゐまで見る。
でも、中心は将棋番組だからね。うるさいわけがないのだつた。
……まあ、解説が加藤一二三九段だつたりするとさうでもないかもしれないが、加藤先生は気にならないからなあ。

そんなわけで、この先このショールがどれくらゐすすむのか、チト不安ではある。

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Friday, 15 February 2013

物欲のかげり

ここのところ萬年筆に対する物欲がめつきりなくなつてゐる。
去年も、大きな買物は大橋堂のペンくらゐで、小さいものをふくめても、そんなに買はなかつた。

それがあたりまへなんだが。
といふか、それでも買ひ過ぎなんだが。

物欲のおさまつた理由として、新作情報を見なくなつた、といふのがあると思ふ。
新作情報を見ると、購買意欲をかきたてられがちだからだ。
知らなければほしくもならない。
さういふ道理だと思ふ。

もうひとつ、考へられる理由は、自分好みのペンといふのがわかつてきた、といふことかな。
わかるまでに何本ペンを買ふたんだい、と、自分で自分を問ひつめたくもなるが、まあ、それくらゐ必要だつたんだらう。

好きなのは、タッチのふんはりとやはらかいペン。
手持ちの萬年筆でいふと、中屋の細軟や、さきほど書いた大橋堂のペン、パイロットのフォルカンといつたところ。以前ちらと書いたELABOもだんだんいい感じになつてきてゐる。あと、CUSTOM823も。

細字の方が好きだが、アイディア出しのときなんかはインキフローのよい太字のペンを使ふ。スーベレーン800の太字を愛用してゐる。これも以前書いたが、ちよつとスタブな感じで気に入つてゐる。

さうさう、スタブつぽい方が好きかも。日本語には向かんといはれたが、そんなことはないと思ふ。まあ、使ひこなせてないけど。

そんな感じで、手持ちのペンでも使ふものと使いはないものがはつきりしてきた。

上記の好みに合致しないのに愛用してゐるLAMMYのSAFARIといふのもあるのだが。
これについては、また機会をあらためたいと思ふ。

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Thursday, 14 February 2013

字幕か吹替か

映画を吹替で見るか字幕で見るか。

こどものころはもつぱら映画はTVで見てゐた。
淀川長治の日曜洋画劇場や、荻昌弘の月曜ロードショー、水野晴郎の水曜ロードショー……なぜか高島忠夫のゴールデン洋画劇場はあまり見てゐない。

TVで洋画を見ると、必然的に吹替になる。
やつがれのこどものころには「二カ国語放送」なんぞといふ洒落たものはなかつた。

映画館では字幕。昔は吹替といふ選択肢はなかつたやうに思ふ。

これまで、あまり映画館に行くことはなかつた。一度だけ、かなり頻繁に通つてゐたことがたことがあるくらゐ。

さうすると、今度はヴィデオやDVDで映画を見るやうになる。
こちらはたいてい字幕か吹替か選べるやうになつてゐる。

そんなわけで、吹替大好きなんだが、なぜか映画館では字幕で見ることが多い。ほんとは両方見てみたいけど、それにはチケット代が、ちよつと、ね。
3D映画は字幕が見づらいと聞いて、「タンタンの冒険」だけは吹替で見た。悪かなかつたが、結局その後は3Dも字幕で見てゐる。

「だつて昔はさういふものだつたぢやない?」つてことかー、と、我ながらがつかりする。
いつそ、映画館でも吹替を選べたら吹替を見るやうにしてみるといいのかもしれない。
そして、TVで見るときは字幕で。

と、思つたら、最近はTVを見ないんだよなぁ。
むー。

最近は、「グローバル化」とやらで、英語を解する日本人も増えてきた。
そのせゐか、目につくのは字幕や吹替への非難ばかり。
誤訳は仕方がないとして、日本で定着してゐるギリシャやローマの神話などに出てくる名称を、英語読みにしてゐない、とか怒つてゐる人はどうかしてるんぢやないかなあ。
この国で通じる読みにしなければ、訳す意味はないといふのに。

といふやうなことを書くつもりだつたが、旧弊なことどもにしばられてゐる自分に嫌気がさしてきたので、今宵はこれまでにいたしたうございます。

でも字幕か吹替かについては、今後もちよつと考へてみたい。

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Wednesday, 13 February 2013

「歌舞伎にみる日本史」を読む

芝居は見に行くが、予習して行くことはほとんどない。ましてや復習。

考へてみたら、「歌舞伎を見たい」と思つてから実際に見に行くまでにながいことかかつたので、いはゆる「頭でつかち」な状態になつてはゐたのだ。「梅幸の藤娘は見なくちや」とかね。「しがない戀の情けが仇」以下のせりふを言へる、とかね。

芝居なんてなあ娯楽だから、予習だの復習だの無用の長物。
さう思ふてゐたけれど、最近たまたま「知つてゐるから楽しめる」といふ事態が二度ほどあつた。

それはさうだよなあ、といふので、芝居に関する本を読んでみることにした。

歌舞伎にみる日本史は、題名に惹かれて手にとつた。

本書は、「妹背山婦女庭訓」にはじまつて、「将軍江戸を去る」まで、芝居とそのもとになつた史実とをならべて紹介した本である。

ならべて、と書いたのは、見開きが一対になつてゐて、右側のページに芝居の紹介、左側のページに史実の説明が書かれてゐるからだ。

つまり、どちらも中途半端な感じになつてゐる。

題名から見るに、芝居を知つてゐる層に向けて書いてゐるのだらうから、思ひきつて芝居の紹介は短くして、史実の説明を増やした方がよかつたのに、と思つてしまふ。

でも、さうはできない事情があつたのだらう。
愚考するに、著者の書きたかつたのは、史実どうかうよりも、芝居のことの方だつたのではあるまいか。

その昔、勘三郎が、長男が生まれたといふので、役者の子だから曽我兄弟の本を買つてやらうと、勇んで本屋に行き、そんな本は一冊もないことにがつかりした、といふ話をしてゐたことがある。

やつがれはといふと、曽我兄弟については、歌舞伎の本を見て知つてはゐたが、それ以外ではじめて目にしたのは、眠狂四郎シリーズだつた。

曽我兄弟の史実の話だけでも、かなり重宝すると思ふがなあ。

大河ドラマの視聴率を見るに、最近はとくに信長・秀吉・家康の出てこない時代・話は人気がないのらしい。
その、人気のないあたりの話も、芝居を見るうへで知つてると楽しいと思ふがなあ。

まあ、この本に出てくるていどの説明で十分といふことなのかもしれないなぁ。

それに、芝居好きだから歴史も好きとはかぎらない。逆はもつと少なからう。

まづは興味を引いておかう。
これはさういふ本かと思ふ。

1998年出版といふわりには、中に使はれてゐる写真が古い。
十一世團十郎・先代の幸四郎・先々代の松緑のものが目立つやうに思ふ。寿海、先代の猿翁もある。ちよつといい感じだ。

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Tuesday, 12 February 2013

完成させなきや

栞でも作るか、と突然思ひたつてはじめてはみたのだが。

Bookmark in Progress

すでに何度か書いてゐるやうに、栞はあまり必要としない。「あまり」といふか、ほとんど必要としない。
したがつて、「作つてもなあ……」といふ気持ちがなんとなくでてしまつてゐる。

一応、「Tatted Bookmarks」に掲載されてゐる栞を作るつもり。
なので、本来は、十字架のかたちになるはずなのだが。
なんとなくボビンに巻いた糸も足りなくなりさうだし、四本全部おなじ長さのモチーフにしてもいいかな、などと、逃げてしまひさうな予感がする。

なんとなくうまくいかないんだよねえ。なにもかも。
何年か前に作つたモチーフとか見ると、そちらの方がよほどましな出来のやうに思ふ。
目は多少つぶれ気味な気もするが、すくなくとも大きさはそろつてゐるやうに見える。

なんでかなあ、と考へて、愚問であることに気がついた。
当時は、もつと頻繁にタティングシャトルを手にしてゐたからだ。
毎日のやうにシャトルと糸とたはむれてゐたからだ。
やうは、手が慣れてゐたのだ。
だから、まがりなりにも目の大きさなどはそろつてゐたのだらう。

ここのところ、平日はほぼ必ずタティングシャトルを手にしてゐるけれど、ほんの10分ていどのことである。
しかも、使つてゐる糸が毛糸なので、かつちりとはしない。あるていど遊びといふかゆとりがある。
綿の糸のやうにきつちりとはいかない。

そりや下手にもなるはずだよなあ。
そもそももとが不器用なんだし。

お正月に作りはじめたドイリーは、途中間違へてほどいてゐる最中ににつちもさつちもいかなくなつて、そのままになつてゐる。ほどけなくなつてしまつた部分を切るか、最初から作りなほすか、悩んでゐるあひだに二月も中旬に入らうとしてゐる。

まつたく近頃面目次第もない話だ。

Aerlitのシャトルに慣れてゐないといふのも敗因のひとつかな。
かぎ針が先についてゐるといふのは実に便利であるし、Aeroの現行品にくらべたらはるかに使ひやすい。
だが、糸を繰り出すときにボビンを回すのにちよつと力がゐるので、つい芯糸をひつぱりすぎてしまつたりするんだなあ、これが。

いづれにしても、これはなんらかの形で仕上げやう。
最後まで作るのが慣れへの近道な気がするしな。

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Monday, 11 February 2013

まきもの大好き

去年の九月末に編みはじめて十月末には編みあがつてゐたショールをいまさら水通しとかしてみた。

Crochet Shawl

編みやすくて心地いいニットのふだん着」に掲載されてゐるかぎ針編みのショールである。

本ではハマナカの純毛中細を三玉使つてゐるが、手持のニッケビクター毛糸 中細を使つた。二玉でおさまるといいなあと思つたが、三玉目にもちよつとだけ手をつけてしまつた。色番は842。かぎりなく黒に近い灰色である。
かういふ色は、一枚持つてゐると、冠婚葬祭、特に葬のときに使へるのでよい。

また、ニッケ中細のこの色は、けもけも具合が絶妙で、妙にあたたかい気がする。ほかの色もこんな感じなら、フェアアイル模様もいける感じ。これだけもけもけなら、スティーク切つてもぱらぱらとほどけたりしないんぢやあるまいか。

使用した針は6/0号。だいぶむかしに買つた柄の部分が白木のクロバーのかぎ針である。これがかなり気に入つてゐて、ほかのサイズも買つておくんだつたなあ、といふ話は以前もしたかと思ふ。

編みはじめたのは、パイナップル編みが好きだからだ。
これを延々編んでいけばいいだなんて、なんてステキなことだらう。
さう思つて着手したのだが、思ひのほかつらかつた。
なにがつらかつたのだらう。
よくわからないのだが、おそらく、すくない段数で一模様になるのがつらかつたやうに思ふ。一模様できても、なかなか進んだ感じがしない。これが堪へたんぢやないかな。

途中、同じ本からヴェストを編んだり、Mojo (Rav)を編んだりしたため、完成に時間がかかつてしまつた。
また、編みあがつてからもはふつてあつたしね。

はふつておいたわりにはできあがつたなあ、と、我ながらちよつとふしぎな気がしてゐる。
なんだかんだいつて、編んでゐるうちに楽しくなつてしまつたのだらうか。

ところで、日曜の朝、「仮面ライダー ウィザード」を見てゐる。
スーツアクターの人のいやになるほどキザなアクションがよくてね。
ほかにも、登場人物の身につけてゐる巻物がちよつといい感じだつたりするので見てゐて楽しい。
たとへば、主人公はちよつと端のよれたやうな深いピンク色の長いマフラーを結ばずに両端をたらしてゐる。
その手下といふか見習ひのやうな子は、にぎやかなチェックのマフラーをぐるぐる巻いてゐる。
敵の女の子はうすくて長いマフラーをぐるぐる二回首に巻いて両端はやはりたらしてゐる。
敵のいまのところお調子ものつぽく得体のしれない子は、ふつうのマフラーと三角ショールの二枚使ひ。一緒に結んでゐる。

やはり巻物はいいなあ。

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Friday, 08 February 2013

川本喜八郎人形ギャラリー 人形劇三国志篇 地の利

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーの「地の利」のコーナーには、人形劇三国志の龐統、孔明、孫権、周瑜、魯粛がゐる。
これはむかつて左からの並び順で、入り口に一番近いところにゐるのは魯粛だ。
が、これまでも左側から紹介してきたので、ここでもさうすることにしたい。

「地の利」といふことは、呉といふことで、なぜそこに龐統と孔明とがゐるのかと訝しく思ふ向きもあらう。だいたい龐統と孔明とがここにゐるから、「人の和」の面々のなかに文官・軍師の類がゐないといふ、なんだか妙なことになつてゐる。
多分、「赤壁の戦ひ」で活躍する面々、といひたいのかなあ。
一応、龐統と孔明とは、「人の和」の人々に近い位置にゐる。比較的。

龐統を正面から見ると、実に怖い思ひをすることになる。
目がかつと見開かれてゐて、瞳孔がひらいてゐるからだ。
「この人、正気か?」と不安になる。
人形劇のときは、まちつと丸つこくてかはいい感じだつたのになー、と、これは前回書いた張飛とおなじ。
よく云へば、おとなつぽくなつた、といつたところか。
衣装は、質素な感じ。くすんだ色合ひで、唐草模様の刺繍もかなり太い糸で刺されてゐる。
口にくはへた猫じやらしが、どこか飄然とした印象をあたへる。
「風狂」。
全体的にはそんな印象だ。
ところが、むかつて右側から見ると、この印象が一変する。
右側から見ると、龐統の目は遠くを見据ゑてゐる。
どこか少年のやうな瞳で、かくあるべき未来を見つめてゐる。
その頭の中には未来への地図が描かれてゐるのにちがひない。
そんな感じさへする。
軍師・龐統を見たい向きには、是非右側から見ることをお勧めする。

川本喜八郎人形ギャラリーにゐる人形の中で一番生き生きしてゐるのが呂布で、その次が董卓なら、一番そこんとこがあやしいのが孔明である。
生きてゐない、といふのではない。
存在感がない、といふのともちがふ。
存在感はある。
存在感はあつて、しかし、むかつて右側から見たときの、此岸と彼岸のはざまにぼうつと佇んでゐるかのやうな、触れやうとしても触れることのできぬだらうやうな、さうしたやうすが、そこにあつてそこにない、そんな奇妙な感覚を呼び覚ますのである。
右側から見ると、照明の関係で目が右側を見てゐるかのやうに見えることもある。
また、おなじ位置から見たときに、遠くを見つめてゐるやうに見えることもあつて、最初のうちは、「龐統とおなじ方向を見てゐるのだなあ」などと思つてゐたが、残念ながらちがつた。龐統と孔明と、どちらも遠くを見つめてゐる。どちらも遠くを見つめてゐて、だがその見てゐる方向はことなる。
衣装は人形劇のときとそれほど変はらない。人形劇のときは、紫がかつた水色だつた衣装の色が、ほとんど色のないやうな、瓶覗とでも呼びたいやうな色になつてゐる。黒い上着は夏に着るやうな薄地で、それでゐてちやんと紅葉に流水の模様がはいつてゐる。
顔は人形劇のときよりすこしすつきりした感じだらうか。真正面から見ると照明の関係からか、右側の口の端がもちあがつてゐるやうに見えて、嘲笑はれたやうな気分になる。
もちろん白羽扇を携へてゐて、その指がひどく細くて長い。長いのは白羽扇を持つからだらう。

その孔明の後頭部を焦げよとばかりに睨みつけてゐるのが孫権である。
これも、むかつて左側や正面から見たときはそんなことはないのだが、ちよつと右側から見ると、左を睨んだその緑の目が孔明を睨んでゐるやうに見える。
邪魔なんだらうなあ。わかるわかる。
孫権も、人形劇のときよりは大人びた感じの顔立ちになつてゐるやうに思ふ。衣装はこの中では唯一武装してゐないときの君主の身につけるもので、全体的に橙色。前垂の蝶の模様が目を引く。
唇の色が呂布と似たやうな色になつてゐるが、呂布のやうなつやはない。
つやがあれば、もうすこし、生き生きとして見えるだらうに。

その孫権よりも豪華なんぢやないかといふ衣装を身に纏つてゐるのが周瑜である。兜をかぶつた武将の出で立ち。
うーん、人形劇のときの方がいい男だつたかなあ、と、最初は思つてゐた。
人形劇のときは、切れさうなほど目がつりあがつてゐたが、ギャラリーにゐる周瑜はつり目ではあるものの、人形劇のときほどではない。
人形劇の周瑜は、いつもキリキリしてゐて、ときに見てゐてつらいくらゐだつたが、それはあのつりあがつた目も一役かつてゐたやうに思ふ。また、そのつりあがつた目で流し目とかされると、実に美男といつた感じだつた。
でも、実際は(といつて、なにを「実際」ととらへるのか、三国志についてはむづかしいのだが)、このていどにおだやかな表情だつたのではないかな、と、ギャラリーにゐる周瑜を見ると思ふ。
目の動く人形のなかでは唯一、真正面を見てゐる。
もしかすると、川本喜八郎は作りなほすときに周瑜のカシラを目の動かないものにしたのではあるまいか。なぜといつて、善い男のカシラの目は動かない。閉ざすことはできても、目の玉は動かないやうにできてゐる。文楽ではさうである。
なので、やつがれのなかでは勝手に「渋谷の周瑜の目は動かない」ことになつてゐたのだが、最近、張飛の目も正面を見るやうになつてゐるやうな気がして、ちよつとがつかりしてゐるところである。

キリキリ具合の失せた周瑜にくらべて、魯粛はあひかはらずオロオロした感じで立つてゐる。
周瑜か、いや、この場合は孔明かな、に、無理無体なことを云はれて、「ええっ」と驚いてゐる、そんな格好で立つてゐるのだ。
そのさまがなんだかかはいらしくて、ついつい魯粛のまへで足をとめてしまふ。
この格好は、むかつて左端にゐる郭嘉とよく似てゐる。
おなじやうな格好で立つてゐるのだが、郭嘉の方は、なにか云はれて反論しやうとしてゐるかのやうな、あるいは「私に策がございます」と献策しやうといふかのやうな、どこかいさましいやうすに見受けられる。
似たやうな格好なのに、このちがひはなんなのだらうか。
魯粛と郭嘉とのちがひ、といへばそれまでなのだが。
魯粛は、人形劇のときより薄味の顔になつてゐるやうな気がする。
彫りが浅めなので、これでちやんと目を閉じることができるのだらうか、と、いつもしげしげと見つめてしまふのだが、よくわからない。
似たやうな出で立ちで立つてゐるので、魯粛と郭嘉とは、三十三間堂でいふところの風神雷神のやうなものだと思つてゐる。魯粛が風神で郭嘉が雷神かなあ。逆の方がおもしろいかも。

といふわけで、ひとまづ川本喜八郎人形ギャラリーにゐる面々についてひととほり感想を書いてみた。
しよつ中見に行つてゐるのだが、それでも時折あらたな発見があつたりするので、それはまあ、また折にふれ、書きたい、といふか、書いてしまふだらうと思ふ。

川本喜八郎人形ギャラリーの平家物語の人形についてはこちら
同所の人形劇三国志のうち「天の時」の郭嘉・曹操・夏侯淵についてはこちら
人形劇三国志のうち「密かなる謀 -連環の計-」の李儒・王允・董卓・貂蝉・陳宮・呂布と赤兎についてはこちら
人形劇三国志のうち「人の和」の関羽・張飛・玄徳・趙雲についてはこちら

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Thursday, 07 February 2013

文楽の本と歌舞伎の本

あやつられ文楽鑑賞」は、読みはじめると、首をかしげることばかりだつた。

「さうかなあ」
「えー、それはちよつとちがふんぢやないかなあ」

なぜだかさう思つてしまふ。
もしかすると、やつがれが著者ほど文楽に愛がないせゐだらうか。
さうも思つた。

それもまあ、あるかとは思ふのだが、ほぼ半ばまで読んだところで合点がいつた。

著者とやつがれとでは、趣味がちがふのである。

著者である三浦しをんは、「仮名手本忠臣蔵」といへばお軽と勘平だ、といふ。
いや、ちよつと待て。
それはちがふだらう。
お軽と勘平なんて、自業自得のふたりぢやあないか。
「色にふけつたばつかりに」つてそのとほりだよ!

と、いつも見ながらさう思ふ。

「仮名手本忠臣蔵」といへば、やつがれにとつては九段目だ。
もう、「雪こかし」から引き込まれてしまふ。
雪の中、燃えるやうな緋色の母親と、雪に同化しさうな花嫁姿の娘。
そこにあらはれるあやしげな虚無僧。
人のためによかれと思つてしたことが、なにもかも裏目にでてしまつた、そのやるせなさ。
九段目、最高ぢやん!

さういふ人間と、「仮名手本忠臣蔵」といへばお軽と勘平よねえ、といふ人間と、相容れるわけがないのだつた。

橋本治の「大江戸歌舞伎はこんなもの」を読むのは三回目だと思ふ。
四六判で出たときに一度、文庫になつたときに一度、これで三度目なんぢやないかな。

はじめて読んだときに、「さういふことだつたのかー」と腑に落ちることの連続で、その後しばらくはこれが芝居を見るうへでの規範だつたやうに思ふ。
今回読みなほして、「その後しばらく」はまだつづいてゐるんだな、といふことに気がついた。
道理で芝居は好きなのに、なんとなく妙な気分で帰ることが多いはずだ。

この本は、江戸の歌舞伎といふものをとてもわかりやすく説明してゐる。
わかりやすく説明してはゐて、では、それのどこが好きなのか、と訊かれると「うーん」とうなつてしまふ。
わかることと好きであることはちがふ。
わかるから好きなのではない。
むしろ、わからないから好き。

ここんところが世の人にはいまひとつ理解してもらへなかつたりするのだが。
理解できなくても、この本は十分わかりやすいから大丈夫。
とりあへず、歌舞伎を見に行つて、「なんだか妙ちきりんなんだけど」と思つたら読んでみるといい。
いろいろ謎が解けることと思ふ。

どちらも、「わかりやすい」本であると思ふ。
そして、どちらも文楽や歌舞伎をまつたく知らない見たことない人には向かない本だと思ふ。
「あやつられ文楽鑑賞」は、一度くらゐは文楽を見たことのある人向けな気がする。
一度見て、なんとなく気になる。さういふときに読むといい。
「大江戸歌舞伎はこんなもの」は、もう少し何度か芝居に通つてみて、「なんでかうなのかなあ」と思ふやうになつたころに読むとよい本。
とはいへ、最近の歌舞伎の公演は、またいろいろ変はつてきてゐるので、「なんでかうなのかなあ」と思ふこともないかもしれないと思はないでもないけれど。

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Wednesday, 06 February 2013

カンダミサコのdumi

九月末に注文したかばんが届いた。

カンダミサコdumiである。

カンダミサコ dumi

こんな感じでつつまれてやつてきた。

カンダミサコ

封蝋めいたシーリングがいい。

カンダミサコ

去年の九月、大阪松竹座に勘九郎襲名公演を見に行くことにしたところ、神戸大丸でカンダミサコの作品を見られるといふ話を聞いた。そこで、日程を合はせて芝居を見に行くことにした。
大丸では自分の行つたときはdumiはなく、dumi_miniといふ、すこし小さめのかばんが展示されていた。
この小さいかばんがとても気に入つたのだが、このときはこれといつた色がなく、あとで注文することにした。

帰宅して、webサイトを見てみると、すこし大きめのdumiがあるといふ。
悩んだ。
dumi_miniの方がリュックサックなどと合はせるときはいいだらうか。
でも、単体で使ふことを考へたら、dumiの方がいいかも。

かばんに入れる予定のものをならべては長さをはかつたりして、dumiに決めた。

色はスカイ。これは、夏に実物を見たときに「今度はこの色にしやう」と決めてゐた色だ。
写真だと灰色つぽいし、実際に見るともつと鈍い感じの色に見えることもあるが、光の加減によつては夢見るやうな色に見える色である。
イタリア語でPrince CharmingのことをPrincipe Azzurroといふと書いてゐたのは川原泉かと思ふが(そして、といふことは、サッカーのイタリア代表はみなPrincipi Azzurriなのか、といふ気もするが)、ちよつとそんなやうな色である。

早速このかばんを持つて、東京国立博物館に「書聖 王羲之」展を見に行つてきた。

いい。

展覧会のときは、前後に人が密着するので、なるべく手ぶらに近い状態が望ましい。
dumiは、うすいし、躯に沿ふので、周囲の邪魔になりづらいんだなあ、これが。
映画のときや芝居のときもいいかもしれないなあ。

このときの中身はこんな感じ。

dumi の中身

これがすつきりおさまつて、なほ余裕がある。

いい。

かばんの裏側はこんな感じ。

カンダミサコ dumi

ファスナーが裏にあるので、電車の中でも安心だし、大きく開くので中身も見やすい。

内側は紫にしてもらつた。

カンダミサコ dumi

内側にしては色が暗いかなあと思つたが、なにしろ中身がすつきりおさまつてゐるので、ものも取り出しやすい。

いいなあ。

ブロガーズトートとの使ひわけに悩むところだが。
贅沢な悩みではある。

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Tuesday, 05 February 2013

ショール?

Tatting Shuttles

ショールなんて作るもんぢやないな。
ときどきさう思ふ。

さう思ふ所以は、はかがいかないからだ。
要するに、時間がかかる。
毛糸の量が必要、といふのもあるが、自宅に毛糸のうなつてゐるやつがれにはとつては願つたりだ。
むしろ、毛糸を消費するためにショールを作るといふのはありだと思ふほどだ。

さらに、時間がかかるといふことは、はまり始めたら大変といふことだ。
いつまでもいつまでも延々編んでいくことになる。
邪魔が入れば不機嫌になる。
いいことない。

土曜日にVortex Shawl (Rav)を編みはじめたことは書いた。
タティングレースではあひかはらずショールもどきを作つてゐる。
ふたつ同時に着手したのは我ながら失策であつた。
両方一緒にとりかかれればいいのだが、一度にできるのはどちらか片方。
せめて阿修羅ほども腕があれば、と思ふが、詮なきことである。

いづれにせよ、ちまちまちまちま進めていくしかないんだがね。

ちなみに、作つてゐる最中は楽しいので、それはそれでいいのだらう。

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Monday, 04 February 2013

Mindless Knitting の愉しみ

この土曜日は一日家にこもつて、「SHERLOCK」のシーズン1を見てゐた。

我が家ではBSは見られない。
地上波で放映すると聞いて楽しみにしてゐたが、深夜に90分といふので、眠たさに負けてあきらめた。
今の時期、睡眠不足は即風邪に直結するので、できれば避けたい。
縁がないのだな、と思ふことにした。

さうかうするうちに、不調だつた録画機がうまいことTVとつながるやうになり、録画したものやディスクに焼いたものを見られるやうになつた。
そんなわけで、縁ができたのだつた。

「SHERLOCK」を見るにあたつて、現在編んでゐるCthulhu Mittensはちよつと編めない。編み込み模様で、不規則な模様なので、編み図とにらめつこしながらでないと編めないからだ。
なにか、mindlessなものを編まなければ。

そんなわけで、急遽、Vortex Shawl (Rav)を編みはじめることになつた。
使用糸はSchaefer Anne。以前、くつ下に使つてそのやはらかさにうつとりした糸である。モヘア混なのでさう感じるのかも。
数年前に、このショールを編むつもりで買つたものだつた。
この糸はかせでやつてくる。編むつもりで、まきまきで玉にもしてあつた。
つまり、もうあとは編むだけの状態であつた。

土曜日は、まづ、このショールをmindlessに編める状態になるまで持つていくところからはじまつた。
五本針であるていどの大きさになるまで編んで、40cm輪針に取る。
それが、この写真のむかつて左側の状態である。

Vortex Shawl in Progress

ここから「SHERLOCK」シーズン1の第一話を見ながら編んで、右側の状態になつた。
ほぼ、もとの直径が半径になるくらゐ、だらうか。
なんか、とつても相性がいい。
そんな感じだつた。

「SHERLOCK」は、最初吹替で見たのだが、「是非字幕で」と勧められ、字幕も見た。
その後、第二話も吹替と字幕と両方見た。

別に両方見る必要もない気もしたのだが、第一話を見返したときに「あらこんなところに手がかりが」とちよつと思つたので、第二話にもあるかな、と思つた、と、それだけのことである。
第二話には「手がかり」といふほどでもないかもしれないけれど、やはり「あらこんなところに」といふセリフが冒頭にあつて、やはり見返してよかつたと思つた。

あ、あと、吹替でなんて云つてるかわかんなかつたところが、「Daily Mailよ」つて云つてるのがわかつたりとか、さういふこともあつた。

それで、ショールが大きくなつたか、といふと、それほどでもない。
途中で糸が絡んだままでてきて、それをほどくのに時間がかかつてしまつたからだ。

最近、なにか編むときには「人形劇三国志」を見てゐることが多い。
さうすると、このくつ下もあのマフラーも、「ああ、これは官渡の戦ひを見てゐたときの」だとか「赤壁の戦ひ前後を見てゐたときの」とか思ふことばかりである。

このショールのできあがつたあかつきには、「ああ、これは「SHERLOCK」を見ながら編んだんだったなあ」と思ひだすことだらう。

mindless knittingには、かういふ楽しみもある。

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Friday, 01 February 2013

2013年1月の読書メーター

2013年1月の読書メーター
読んだ本の数:6冊
読んだページ数:2258ページ
ナイス数:4ナイス

みずいろメガネみずいろメガネ感想
「ウテナさん祝電です」から読み続けてゐるが、年々「意見が合はないなぁ」と思ふことが増える。年のせゐかと思ふ。でも、クリスマスのイルミネーションについての意見にはうなづいてしまふし、「私は昔から悲劇を直視することが下手」なんてなところにも共感してしまつたりする。今回、四月に「羽生」と出てきたから」「名人戦か?」と思つたら、フィギュアスケートだつたのはチトがつかり。あと、志ん朝ネタが多いのが気がかり。
読了日:1月1日 著者:中野 翠
白馬の騎士 ――愛と戦いのイギリス革命 上白馬の騎士 ――愛と戦いのイギリス革命 上感想
感想は下巻を読んでから。それにしても、なんでこんなハーレクインロマンスと見紛ふやうな副題をつけるのだらうか。題名だつていい加減恥づかしいのに。「騎士」なんて一言も云つてないのにな、原題では。
読了日:1月7日 著者:ローズマリ・サトクリフ
三国志演義 (2) (徳間文庫 (ら1-10))三国志演義 (2) (徳間文庫 (ら1-10))感想
気がつくと曹操のいい人エピソードと玄徳のダメダメエピソードに付箋をはりまくつてゐる。案外曹操のいい人エピソードの多いことに大いに驚く。張松が余分なことさへ云はなければ、今頃我々も「孟徳新書」を読めたかもしれないのに、と惜しまれてならない。
読了日:1月9日 著者:羅 貫中
泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部感想
夭逝フラグ立ちまくりの周瑜に引きずられて話が真面目な方向に。こればかりはさしもの孔明もとどめることかなはなかつたか。序文でつまらぬ上司のたとへに用ゐられた賈華がちやんとあとで出てくる親切設計に感じ入ることしきり。
読了日:1月15日 著者:酒見 賢一
白馬の騎士――愛と戦いのイギリス革命 下白馬の騎士――愛と戦いのイギリス革命 下感想
副題は不要。むしろ邪魔をしてゐる。
読了日:1月16日 著者:ローズマリ・サトクリフ
Quiet: The power of introverts in a world that can't stop talkingQuiet: The power of introverts in a world that can't stop talking感想
TEDで著者のプレゼンテーションを聞いた時、「ああ、さういふことだつたんだ」と腑に落ちることが多く、手にしてみた。いろいろ思ふこともあるけれど、それでも世の中はextroverts向きにできてゐる。この日本でさへも。個人的には、「自分のかくかくしかじかな性格はintrovertだからではなくて、単に性格なのかも」と思ふところもあつた。
読了日:1月28日 著者:Susan Cain

読書メーター

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川本喜八郎人形ギャラリー 人形劇三国志篇 人の和

川本喜八郎人形ギャラリーの「人の和」のコーナーには、向かつて左から、関羽、張飛、玄徳、趙雲がゐる。
ギャラリーの中では一番地味な色合ひのコーナーだ。
主人公なのになー。

くどいやうだが、川本喜八郎人形ギャラリーにゐる人形劇三国志の人形は、人形劇に出てゐたものではない。川本喜八郎が新たに作りなほしてゐたものだといふ。

関羽は、人形劇のときの方がいい男であつた。
人形劇三国志で一番やうすがいいのは誰かといつたら、やはり関羽だらう。
好き嫌ひを超えたよさが、関羽にはある。
ギャラリーにゐる関羽と人形劇のときの関羽とを比べた場合、おそらく、人形劇のときの方が目がすつきりと切れ長なんだと思ふ。
とはいへ、渋谷の関羽も、そのやうすの立派なことにはかはりない。
ギャラリーの関羽の方が、野性味が増してゐる、だらうか。
目を引くのはその長髯。つやつやとみごとである。実は最近まで一本だけその髯がはねてゐたのだが、なほしてもらへたのらしい。よかつたよかつた。
玄徳・関羽・張飛の三人はおそろひの鎧を身につけてゐて、とくに関羽と張飛とは人形劇のときと概ねおなじ出で立ちだと思ふ。
人形劇のときとちがふ点は、肘側に飾りがついてゐること。関羽の鎧についた飾りは、碧つぽい色になつてゐる。
関羽は、京劇では衣装に緑色を用ゐてゐる。また、関羽の人形自体緑以外の色が似合はなかつたのださうで、ここでもやはりしごきなど緑色の衣装を身に着けてゐる。服の松の模様といふのもなんだかいい感じだ。
もちろん青龍円月刀を携へてゐる。
願はくは、赤兎にまたがつた関羽を見られんことを。

張飛は、人形劇のときよりおとなびて見える。
人形劇のときの張飛は、もつと顔が丸くて、髭などももつともしやもしやとした感じだつた。役回りも、玄徳・関羽といふふたりの立派な兄に対し、やんちやでこまつたちやんな弟といつたところ。
ギャラリーにゐる張飛は、顔の丸みが若干とれて、髭の色は人形劇のときより茶色つぽくなつてゐる。最初のころは、まるい目の中の目の玉が上を向いてゐて、それがユーモラスな印象を与へてゐたのだが、最近やや正面を見るやうな位置にかはつたやうで、ますますおとなしい感じがつよくなつたやうに思ふ。
衣装は、人形劇のときとほぼおなじ。三兄弟おそろひの鎧に、黒い戦袍に、桃色のしごき。
これまた蛇矛をかまへてゐる。
張飛のやうなキャラクタは、動いてなんぼ、喋つてなんぼ、なのかもしれないなあ、と、思はないでもない。
要するに、動いてゐるところを見てみたいんだよね。

玄徳は、髭のあるカシラ。
髭のない初期のカシラの方がよかつたのにー、と思はないでもないが、思ふに、川本喜八郎が当初思ひ描いてゐた玄徳は、髭のある、おとなの男だつたのだらう。
髭があるからだらうか、衣装も、益州攻略のころには身につけてゐたやうなちよつと立派なものだ。立派なものなんだけれども、曹操とか董卓とかに比べるとちよつと見劣りする気がするのはなぜだらう。玄徳だからか。龍の柄だつたりして、豪華は豪華なんだけどなあ。
衣装の色は青。曹操が赤で、董卓が黒で、関羽が緑で、張飛が桃色(黒、といふ意見もあるかもしれないが、なんとなく桃色のイメージがあるんだなあ。しごきのせゐだらうけど)で、玄徳は青、といふ感じで、戦隊物ができさうな気がするぞ。この場合、黒の董卓は悪役だらうか。すると黄色を誰か入れないといけないな。黄色……孫権はどちらかといふと橙色な気がするし、周瑜かなあ。
などと、くだらないことを考へてしまふ。
剣を佩いてはゐるが、手にしてゐるのは采配。これは曹操もおなじだな。

趙雲は、人形劇のときとあまりかはらないやうに見受けられる。
すこし皮膚の色が赤みを帯びてゐる、かな。
顔立ちは、人形劇のときの方がちよつとおとなしい感じだつたかもしれない。
槍をかまへて立つ姿は、玄徳軍の切り込み隊長といつた趣がある。実際はどちらかといふと負け戦の殿隊長だつたりするんだがね。
武将のいでたちの人形の中で唯一半身になつて立つてゐるので、背中も比較的よく見えるやうになつてゐる。趙雲を見ながら、「ああ、胸当てと背当てとは、こんな風につながつてゐるのかー」などと観察してしまふ。
ここにゐる武将の中では一番質素な衣装を身につけてゐるんだよね、趙雲は。よくもまあこんな粗末な格好で戦場をかけめぐつてゐたものだ、としみじみ思ふ。
人形劇のときから、立つてゐるだけだとなんとなく地味な趙雲だが、動くとこれが別人のやうなさはやかさなんだよなあ。
といふわけで、やはり動いてゐるところを見てみたいのだつた。

次回、最後の「地の利」について書くつもり。

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