「みずいろメガネ」を読む
新年早々、中野翠の「みずいろメガネ」を読んだ。
先月のうちに買つておいて、年が明けたら読まうと思つてゐた。
中野翠は二十八年前からサンデー毎日にコラムを連載してゐて、一年分を毎年年末に一冊の本にまとめて出版してゐる。
それを読んで、一年をふりかへるのが年中行事のやうになつてゐるのは、多分、発売直後の「ウテナさん祝電です」を読んだからだ、といふ話は以前も何度か書いてゐる。
なんといつても、カバー見返しの作者紹介がすごい。
日本のローザ・ルクセンブルクである。
といふ話も何度か書いてゐるのだが、どうやら、中野翠がさう呼ばれてゐた、といふのをweb上で書いてゐるのはやつがれだけらしい。うーん、「ウテナさん……」が手元にあれば、なあ。あれは高校生のときに学校の図書室から借りた本だつた。
何度もおなじ話をくりかへしてゐて恐縮だが、「ウテナさん……」に先立つこと二三年前に林真理子の「ルンルンを買っておうちに帰ろう」が世に出て、高校の図書室に二冊並んでゐた。多分、同時期に購入したのだと思ふ。
両方とも読んでみて、「ルンルンを買って……」のよさは、わからなかつた。
原宿とか青山とか表参道に対するあこがれ、とか、よくわかんなかつたし。
「ウテナさん……」の、「ブスがきらい」といふ方が強烈で印象に残つた。
よく「ウテナさん……」のこの一文をとつて、「著者はどんなご面相かと思つたら」といふ人がゐるが、この本で云ふところの「ブス」は、顔の雑作ももちろんだが、心も「ブス」になつてしまつた人を指してゐる。なんていふのかな、「ブス」が身にしみてしまつた人、といふのかな。
なんか、わかる。
そして、自分自身も身にしみてしまつてゐることに気づいて、がつかりしたものだつた。
その後も、中野翠は読みつづけてゐる。
いはゆるホームレスに対するシンパシィとか、「いつ自分がさういふ身の上になるともしれぬ」といふ感覚とかが、好ましかつた。
また、「森茉莉は「ドッキリチャンネル」がすばらしい」といふ意見も、当時はまだまだ「枯葉の寝床」とか「恋人たちの森」のやうな作品の評価の方が高かつた森茉莉に納得できずにゐたやつがれにはたまらなかつた。
まあ、いまはどちらかといふと「ドッキリチャンネル」の方が有名だつたりするのかなあ、森茉莉は。
ところで、そんな中野翠ではあるが、ここ数年、特に一昨年あたりから、「うーん、それはさうなのかなあ」と首を傾げるやうなことを書くことが増えてきた。
有り体に云ふと、「それつてあんまり表層的な見方に過ぎるのでは?」と思ふやうなことが増えてきたのだ。
たとへば今回で云ふと、次長課長の河本準一の母親の生活保護に関する話。
あれは、国や自治体が、今後ますます増えるだらう生活保護支給希望者を牽制するためのさはぎだつたんぢやないかといふ気がしてならないのだが、中野翠はさうは取らない。さういふことはちらとも出てこない。「芸人といふ不安定な職にあるとはいへ、一月三十五万もする家に住みながら、母親に生活保護を受けさせてゐるとはなんていふこと」といふやうな論調なのだ。
うーん、さうなのかなあ。
週刊誌のコラムといふかぎられたスペースでは、書けることにもかぎりがある。
それはわかる。
また、読者に受け入れられるやうなものを書かねばならないといふこともあるだらう。
でもなあ。
だつてそんなこと、誰にでも書けるぢやん。
それと、これは以前からさうなのだが、落語に抱く思ひに彼我の差がある。
中野翠は、つらい世間を忘れたくて、落語を聞く、といふ。
やつがれにとつて、落語を聞くのは、つらいことだ。
自分に似た人があまりにもたくさん出てくる。
噺だから、笑へる結果になつてゐたりはするけれども、「ああ、自分もおなじやうにしてしまふんだらうなあ」と思ふことばかりだ。
それが、ときにつらくて仕方のないことがある。
でも、聞く。
「みずいろメガネ」には、いつになく落語の話がおほくて、とくに違和感を覚えたのかもしれない。
その一方で、
私は昔から悲劇を直視することが下手な、心弱い人間なのだった。(p97)なんてなところには、「うんうん、わかるー」とか思つてしまふんだよなあ。
ひとつだけ、気がかりなのは、今回古今亭志ん朝に関する記述が多いこと。
うしろ向きに過ぎるんぢやないか、過去を美化し過ぎなんぢやないか、と不安になる。
まだまだ元気なところを見せてもらひたい。
読み手のわがままと、わかつてはゐるけれど。
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