老子読みの論語知らず
ここのところ、「勉強」といふことで、「論語」を読んでゐる。
以前、岩波文庫版を読んだので、今回はいろいろ調べて中公文庫の「論語」を読んでゐる。
「勉強」と書いたことでご理解いただけるかもしれないが、読んでゐて、ときどきつらい。
考へてみたら、中高生のころは、「論語」は好きになれなかつた。
長幼の序、とか、そんなこと云ふてるから、家では近所のをぢさんをばさんと親しく話せないし、学校では教師や先輩に気を遣つてしまふんだらう?
さう思つてゐた。
今でも思つてゐる。
でもまあ、昔より、虚心で読めてゐるかな。
結局、「論語」にしても聖書にしても、「かうすれば世の中との軋轢を最小限にできますよ」といふことを教へてゐるのだと思ふ。
まあ、長いのでそればかりでもないけれどもね。
世のうつりかはりによつて適用できない部分もあるかとは思ふが、この教へにしたがへば、イヤな思ひをすることも減りますよ、といふてゐる。
さすれば、自分のしたいことに集中することができる。
さういふことなのだと思つてゐる。
そんなわけで、圭角の多い性格であることでもあるし、ちよつとは今後も生きていくうへで参考になることはないかと思ひながら読んでゐる。しかして「勉強」なのである。
次は「孫子」にしやうつと、と思ひ、積んであつたのだが、思ふところあつて、つい手にとつてしまつた。
これがとまらないんだね。
「論語」とはちがふ。
読んでゐて、おもしろい。
考へてみたら、中学生のころから好きだつたのだ、孫子の兵法が。
ノートの表紙に書けるだけ孫子を書き写してゐたこともあつたくらゐである。
どうにもイヤな中学生だが、それを「いいね!」と云つてくれる同級生がゐたんだよなあ。
「韓非子」とかも好きだつたものなあ。
それに、なにを云ふても、自分は老荘の徒のはしくれなのだらう。
やはり儒家の思想はあはないのかもしれない。
でも、最後まで読むけどね、「論語」。
これからは、古典だけ読んで過ごす。
それでいいやうな気もしてゐる。
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