使はぬ栞を作る
先日のリハビリテーションで作つた栞はかうなつた。
水通ししてピン打ちはせずに伸ばして乾かした状態である。
茎を二カ所、いつもとはちがふつなぎかたにしてみた。
いつもは、茎に入るときに、いはゆる Shoelace Trickを使ふのだが、今回、二カ所で花びらのピコにつないだあとで Shoelace Trickを使つてゐる。
そんなところで使つたら、なめらかな曲線にはなるまいな、と思つてはゐたものの、やはり一度は試してみたかつたんだな。リハビリだし、いい機会だと思つたわけだ。
ところで、以前何度か書いてゐるが、栞は使はないたちである。
以前は、出勤時に読み終はつた位置を覚えておいて帰りの電車の中でそこから再開、なんてなことを普通にやつてゐた。
最近では本に栞がついてゐれば使ふ。
寄る年波には勝てないといふか、ページ数が覚えられなくなりつつある。朝、覚えたはずなのに、帰るころには忘れてゐる。さういふことが増えた。
あるいはこれは寄る年波とは関係なく、単に読んでゐる本への愛情がむかしほど強くないからなのかもしれない。
それもまた、年をとつたせゐなのかな。
それでは、自分で作つたタティングレースの栞を使ふか、といふと……うーん、ほとんど使つたことがない。
使はうと思つたときに手元にないことが多いし、本のサイズに比して大き過ぎることが多いといふこともある。
80番手の糸とかで作ればいいのかもしれないけど、そんな繊細なものを通勤電車の中で使ふといふことになんとなく抵抗がある。
また、電車の中つて結構栞とか落としたりするんだよな。
といふわけで、ムダに栞ばかりあるのだが、ぢやあまつたく使はないかといふとさうでもない。
これも以前も書いたが、あみものの本にはさんだりすることがある。
あみものの本つて、できあがり作品の写真の掲載されてゐるページと編み方の載つてゐるページがはなれてゐることが多いんだよね。
さういふとき、写真のページと編み方のページとにそれぞれ栞をはさむことがある。
「ことがある」と書いてゐるのでおわかりのとほり、まつたくはさまないこともある。
といふか、その方が多い。
たまにはさんでみて、「お、便利ぢやないか」と思ふ。それでしばらくは使つてみるのだが、そのうちまたその便利さを忘れるんだな。
といふか、やはり編みはじめるほど編みたかつた作品のページつて、覚えてるものなのである。
ぱつとは開けないけど、そんなに不自由を感じないんだな。とくに編んでゐる最中は。
今回作つたこの栞は、使つてみるかなあ。
栞の栞以外の使用方法つてなにかないのか知らん。
« How I Wish That I Could be a Hell's Granny | Main | 未だに将棋は指せないが »
« How I Wish That I Could be a Hell's Granny | Main | 未だに将棋は指せないが »
Comments