「人生はうしろ向きに」を読む
人間がうしろ向きにできてゐる。
自分はそれでいいのだが、世間と折り合ひをつけにくいのが難点だ。
世間、といふよりは、「職場」だらうか。
就職してなににおどろいたか、といふと、「会社といふものは永遠に存続していくものである」といふ話に、だ。
新人研修のときにさう云はれた。
永遠に存続するものなんて、この世にあるだらうか。
すでに、このとき、やつがれは会社に見切りをつけてゐたのかもしれない。
しかし、働かなければ口に糊していけぬ。
かくして、うしろ向きに生きつつ常に未来はよいものと考へる職場に通ふ日々である。
そんなとき、「人生はうしろ向きに」といふ本があることを知つた。
こんなやつがれだから、当然この本に求めたのは「うしろ向きに生きつつ、どうやつて世の中と折り合つていくか」といふことだつた。
この点につきた、と云つてもいい。
以前も書いたが、世の中と折り合ふ方法なんぞ、この本には出てこない。
むしろ、「世間なんてどーでもいい」といふやうな雰囲気である。
さうか。うしろ向きに生きていくといふことは、如何に世間と折り合つていくかなんぞといふことに汲々としてゐてはいけないのだ。
そんなことを考へてゐるうちは、うしろ向きに生きてゐるなんぞとは云へない。
きびしいなあ。
著者は最後にこんなことを書いてゐる。
ああ、やっぱり、ぼくの、わたしの、吾輩のうしろ向きな人生は正しかったと安心してもらいたい。
でも、勤めの身であるうちは、さうは云へない気がするなあ。
とか云ひながら、「うしろ向きでいいぢやあないか」と思つてゐることもまた確かなのだが。
ところで、この本で一番好きなのは、2300年に生まれたとして、タイムマシンが発明されたらどうするか、といふくだりである。
たとへば、2000年ごろの歌舞伎に興味をもつたとしやう。
もしタイムマシンがあつたらなあ。二千年に戻って、吉右衛門の舞台を観ることができたらナア
著者はさう書いてゐる。
この「吉右衛門」とかぎつてあるところがね、いいぢやあありませんか。
そんなわけで、今日もこれから職場に向かふ。
うしろ向きに生きつつ、そんなことの許されぬ窮屈なところで一日の大半をすごす。
これがときにひどくつらい。
つらいが、まあ、つらくなつたら過去のことでも思ひだすことにするさ。
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