「日本語が亡びるとき」読了
「日本語が亡びるとき」を読みはじめて最初に思つたことは、「こどものころ彼我の差に圧倒されて劣等感を抱いた人つてかう考へたりするな」だつた。
同い年でも相手は体格もいい。
体力もあるだらう。
一般に、アメリカ人と日本人の中高生を比べると、アメリカ人の方が大人だと云はれたりする。
しかも、相手は英語を解するのだ。
圧倒されるな、劣等感を抱くなといふ方がムリである。
だが、よくよくつきあつてみれば、同年代のアメリカ人だつて日本人とさう変はらない。
確かに、自分の意見を主張するのは得意かもしれない。
でも、「人生如何に生くべきか」なんて考へてないし、憧れの土地は地元の州の大都市かロサンジェルス、好きな異性にどう見えるか、そんなことが興味の対象だ。
英語だつて、こちらは日本人なんだからできなくて当然。
云ひたいことを云へなくて悔しい思ひをすることはあるかもしれないが、「云ひたいことがある」といふことの方が重要なのだ。
それに気がつけば、劣等感は払拭されるはずなんだけどね。
この本は2008年に出版された。当時、ネットでは大々的にとりあげられてゐたといふ。
やつがれは、北烏山だよりで知つた。
こちらのブログで紹介された本で気になつたものは手に取るやうにしてゐるのだが、この本は対象にならなかつた。
本屋で見かけなかつたからかもしれないし、「日本語が亡びるとき」といふ題名が当時のやつがれには大げさに感じられたからかもしれない。
最後まで読んで、日本語に関しては、そのとほりかもしれない、と思つた。
すなはち、このままだと日本語は亡びる、近い将来日本語で情報発信する人間は皆無になるかもしれない、日本語で文学作品を書く人間がゐなくなるかもしれない、といふことだ。
そして、それは困る、といふことも。
主に、個人的に、だけど。
ただ、文学に関しては、多少意を異にする。
著者は、文学とは「人生如何に生くべきか」を表現するもの、といふ。
さうかなあ。
といふか、やつがれにとつて、文学とはさういふものではない。
「人生如何に生くべきか」は哲学にまかせておけばいい。
文学つてまちつと違つたものなんぢやないかなあ。
それとも「人生如何に生くべきか」を描いてゐない文学作品といふのは、著者云ふところの頭のあまりよろしくない人の書いた作品といふことなんだらうか。
それは……まあ、個人の考へだから、おいておかう。
著者の主張は、英語は一部のエリートに任せておいて、その他の人間は充実した日本語教育を受けるべきである、といふことだ。
もちろん、エリートも、充実した日本語教育を受けた上で英語を学ぶんだらう。
著者の云ふ充実した日本語教育とは、近現代の日本文学を読ませること、だ。
うーん。
いや、それは、一理ある、とは思ふ。
たとへば、アメリカ合衆国の高校では、英語の授業で、「白鯨」や「アラバマ物語」、「二都物語」などを一年間に何冊かまるごと読ませる。
あの「白鯨」を全篇読ませるのである。
大抵は各生徒に一冊ずつ本を渡して読ませるのだが、中にはそれでは自分で読まない生徒がゐるといふので、授業中に朗読する教師もゐるほどだ。
翻つて、日本では何を読ませるだらう。
高校生のとき、「こゝろ」を全篇読まされた。
国語の教科書には「こゝろ」の一部分だけ掲載されてゐて、残りは自分で買ふなり図書館で借りるなりして読め、と云はれた。
自宅に漱石全集があつたので、やつがれはそれを読んだ。
読まずに虎の巻に頼つた生徒もゐただらう。
どこの公立高校もそんな感じなのかな、と思つてゐたが、どうやらさうでもないのらしい。
あるていどの長さの小説を読ませることがない場合もあるといふ。
そりやあ全篇読ませる方がいいよな。
強制的に読ませることの是非はあるかもしれない。
でも、小説は、作家の書いたとほりをまるごと読む方がいい。
国語の教科書に見られる長編小説の一部抜粋は、教育としてどうかと思ふ。
問題は、「近現代の」といふところだ。
「日本語が亡びるとき」で著者の提示する夏目漱石、森鷗外から谷崎潤一郎に至る近現代日本文学の小説家が共通して持つてゐたものはなにか。
それは、漢籍の教養ではあるまいか。
文学が、著者の云ふとおり、「人生如何に生くべきか」を描くものなのだとしたら、漢籍の教養は不可欠なはずだ。
なぜなら「人生如何に生くべきか」なんてなことは、四書五経や数多の史書にすでにすべて描かれてゐるからである。
漱石や鷗外は、さうしたことを踏まへた上で作品を作り上げてゐたのではあるまいか。
そして、著者のいふあまり頭のよろしくない現代の日本文学の小説家たちに欠落してゐるのも、かうした知識なのではあるまいか。
もしかすると、著者は、さうした知識も一部のエリートがそなへてゐればいいものと思つてゐるのかもしれない。
あるいは、焦眉の急といふときに、今更漢籍の教養なんて、といふことなのかもしれない。
本書の224ページには「専門家しか読めなくなることによって、漢文という言葉は日本で死んだのである。」とある。
そんな死んだものを今更、と云ひたいのだらうか。
漢籍に頼らないのであれば、本書で著者も何度か言及してゐるアリストテレスなどの古代ギリシャ・ローマの古典や聖書などにそれを求めるやうになるのだらうが……
それは何語で読むの?
ギリシャ語? ラテン語?
それとも英語?
やつぱり、かうした知識も一部のエリートだけが有してゐればいいつてことなのかなあ。
鑑賞する側にもないと、と思ふのはまちがつてゐるだらうか。
漱石や鷗外の作品は、漢籍の知識などなにもなくても楽しめる。それは確かだ。
でも知つてた方がよりおもしろいんぢやないかなあ。
文化つて、さういふ「共通知識」の上に成り立つものなんぢやあるまいか。
それとも、それは、まづ漱石や鷗外といつた小説家の作品を享受した上であらためて余裕のある人だけ学べばいい知識、と、著者はさう云ひたいのか。
さうかなさうかも。
ただ、なあ。
本書の304ページに「そして、あの懐かしい「文語体」の数々の詩歌。」といふ文章がある。
それは、いい。
ではなぜその一ページ前に「カンボジアのクメール・ルージュにいたっては読書人をすべからく虐殺した。」と書いて平気でゐられるのだらう。
漢文は死んでるから、いいの?
筑摩書房では、校正とかしないの?
それとも著者がこれでいいと云つたのだらうか。
いづれにしても、ひどくがつかりするし、すべての主張が台無しだ。
あるいは、この一文をもつてして「ほら、日本語教育を見なほす必要があるでせう? ね?」と云ひたいのだらうか。
やつがれが読んだのは初版第一刷なので、その後訂正されてゐる可能性もある。
といふか、訂正されてゐることを願つてやまない。
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