捨てられない
ものを捨てられない。
世に「断捨離」といふ。
ものを捨てると家の中がすつきりして、気持ちがいいですよ、などと云はれる。
なるほど、確かにものを捨てるともともとものがあつた場所があく。
すつきりするといつていい。
作業もしやすくなるし、動線にも融通がきくやうになる。
だが、なんだらう。
この空虚な感覚は。
とりかへしのつかないことをしてしまつた。
この後悔にも似た念は。
最近、行動経済学の本を読むやうになつて、「保有効果」といふことばを知つた。
人は、一度手に入れたものを手放すのを惜しむ、といふ。
たとへば、ためしに新製品を一週間レンタルで、などといつて客に渡すと、客は手放すのが惜しくなつて最終的には購入する、とか、我ながら強引なたとへだが、まあ、そんなことらしい。
どうやらこの「保有効果」といふのに弱い。
それはもう、ものごころつくころ、幼稚園にあがるころから弱い。
幼稚園にあがるまでに二度引越しを経験してゐる。
一番最初に住んでゐた家で撮つた写真を見ると、そこにおさない自分がうつつてゐる。
部屋のやうすは記憶にある。
だが、自分の姿と、自分の隣にゐるぬひぐるみの記憶がない。
まだ一才くらゐだらうか、そんな自分より大きなぬひぐるみが一緒にゐて、おそらくは気に入つてもゐたらう。
でも、そんなぬひぐるみとともに過ごした記憶がない。
この「かつて一緒にゐたものが今はゐない」と感じるときの悲しさを、どう表現したものだらうか。
狭い家のことである。もらひものだつたのを、おそらく母が捨ててしまつたのだらう。
それはわかるし、もし今あつたとしても、かはいがつてゐたかどうかはアヤシい。
でも、この写真を見てゐられない。
あまりにもさみしすぎる。
と、幼稚園のころのやつがれは思つてゐた。
ゆゑに、過去の自分の写真をあまり見ることはなかつた。
今でもさうである。
こどものころからかうなのに、今どうして「断捨離」などできやうか。
などと云ひつつ、背に腹は代へられない。
仕方なく、日々断腸の思ひで愛着のあるものとの別れに接してゐる。
つらい。
このつらさを軽減する方法のないものか。
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