DVDで「ギャラクシークエスト」
ミーハーはイヤだ。
ファナティックなファンにはなりたくない。
こどものころから、一貫してさう思つて生きてきた。
どんなに好きなものでも、ダメなものはダメ。
むしろ、好きなものこそ、その欠点を知り、欠点は欠点と認めたい。
さういふ意識がずつとある。
まあ、「ヤな奴」だよな、さういふのつて。
普通、人はなにかを好きになると、無批判にその対象を受け入れる。欠点は見ない。欠点を指摘して、「そこがいいんぢやなーい」といふのならいいが、ないふりをする。
他人がさうするのは、まあ、いい。
でも自分自身がさうするのは許せない。
映画「ギャラクシークエスト」を見てゐて、そんなことを思ひ出した。
「ギャラクシークエスト」は、見るからに「スタートレック」、それも「宇宙大作戦」と呼ばれてゐたころのいはゆるTOS(The Original Series)を題材にした映画だ。
あらすじはこんな感じ。
かつて、「ギャラクシークエスト」といふTVドラマがあつた。宇宙船に乗つて活躍する乗組員たちのSFドラマだ。すでに放映は終了してゐるが、熱心なファンがコンヴェンションに押しかける。
コンヴェンションつてーのは、さうだなあ、巨大なファン活動、だらうか。東京ビッグサイトのやうなところを借り切つて、数多のファンたちが集まり、原作者とかTV俳優とかを呼んでサイン会とかやつたりどんちやん騒ぎを繰り広げるもの、と認識してゐる。ファンの多くはいはゆる「コスプレ」をしてゐるのも特徴かも。
この映画でも、ドラマ「ギャラクシークエスト」の主だつた俳優たちが集められるが、どうもその関係はぎくしやくしてゐる。特に、主役であるタガート艦長役のジェイソン・ネズミスへの嫉妬や嫌悪が渦まいてゐる。ジェイソンは、調子のいい男なんだよね。平気で遅刻してきたり、単独で仕事を請け負つたり。
ところが、宇宙のどこかにこの「ギャラクシークエスト」を歴史的資料だと思ひ、ドキュメンタリー番組だと信じる宇宙人がゐたからさあ大変。
その宇宙人たちに連れられて、ジェイソンたち「ギャラクシークエスト」の出演者たちはその宇宙人と敵対する宇宙人との交渉の席といふのは名ばかりの戦ひの場へと向かふことになるのだつた。
映画自体はとてもおもしろかつたし、よくできてゐる。
伏線もそれとなく張られてゐていい。
気になつたのは、上で説明したコンヴェンションに集まる人々のことだ。
彼らは、「ギャラクシークエスト」を愛してゐる。
俳優たちも、自分と同じやうに「ギャラクシークエスト」のことを愛してゐると信じてゐる。
だから自分のお気に入りの回のエピソードなんかを滔々と俳優相手に喋つてしまつたりする。
中には、「あれはほんとのことだ」と信じてゐる人もゐる。俳優とその演じた役との区別がつかないほどに。
さう、俳優たちを宇宙へと誘つた宇宙人のやうに、だ。
俳優たちは、当然そんなものにはうんざりしてゐる。
あれはフィクションだ。
作りごとだ。
うそつぱちなのだ。
なぜわからん。
その一方で、ほとんどの俳優は、コンヴェンションに参加することで生計を立ててゐる。
ひとつのドラマであたつてしまふと、そこでの役のイメージがしみついてしまつて、その後の仕事に恵まれないことがある。
それはある意味幸せなことなのかもしれないが、しかし、俳優としてはどうなんだらう、とも思ふ。
せつかく役者になつたのだから、いろんな役に挑戦してみたい。あらゆる役を演じてみたい。
さう思ふこともあるのではないか。
「ギャラクシークエスト」に出てくる俳優たちには、おそらくさうした屈託もあるものと思はれる。
いづれにしても、コンヴェンションに押しかけるファンには、といふか、この映画で描かれてゐるファンには、俳優に対する配慮なんてない。
いかに自分は「ギャラクシークエスト」を愛してゐるか、どれほど「ギャラクシークエスト」に詳しくて、ある登場人物に入れ込んでゐるか。
そんな話ばかりしてゐる。
コンヴェンションは、さういふファンのためにあるのかもしれない。
そして、やつがれもまた、一度はSFコンヴェンションに参加してみたいなあと思はないでもない。
でも、ミーハーになるのは御免だ。
fanaticにもなりたくない。
強くさう思つた。
とはいへ、この映画はさういふ「現実と空想の区別のつかない人々」、「TVドラマを信じる人々」の活躍する話だつたりはするわけだが。
そして、そんな映画を、かなり気に入つてゐたりするわけだが。
まあ、人間、これこれかうとかんたんに割り切れるものぢやないつてことか。
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