「The Society of Mind」を読む その六
第六章の題は「Insight and Introspection」。普通に訳すと「洞察力と内省」だらうか。しかしここでは接頭辞の「in」に注目したいところだ。「ものごとの本質を見ること」と「それを如何にして見るのか」といふことかと思ふ。
今回もよく理解できてゐない。
最初に、「車の仕組みはわかつてゐないけれど運転はできる」といふ話からはじまる。さらには、「身体の仕組みはよくわからないけれど歩くことはできる」とつづく。「考へるとはどういふことなのか知らなくても考へられる」し、「アイディアとはどういふものか知らなくてもアイディアを思ひつく」。
そこには「意識」が関与してゐる。意識といふものは表層に過ぎず、実際には意識に上がらない無数の処理が動いてゐる。
思考といふものをテストしやう、といふ話になつて、コンピュータプログラムのデバッギングの話が出てくる。デバッギングによつて、新たなプログラムが他に悪影響を及ぼさないことを確認する。しかし、テスト対象のプログラムがデバッギング用プログラムに影響を与へることがある。ゆゑに、大抵のデバッギング用プログラムには、割込を監視する機能がついてゐて、他のプログラムによるデバッギング用プログラムの変更を阻止するやうになつてゐる。
だが、脳に対して同じやうな機能をもたせることはむづかしい。
たとへば、脳をAとBのふたつにわけて考へてみやう。Aは外の世界を見聞きすることができる。BはAしか認識できない。Aが体験したことをBも知ることはできる。Aに問題が起こつたらBが制御する。
……うーん、ダメだな。ここから先はうまく説明できない。
思ひつくままに書いてあつたことを並べるとこんな感じだらうか。
人は新たなものに出会つたとき、既に知つてゐるものと比較する、と、筆者は考へてゐる。「自分の知つてゐる車と似てゐるからこれもまたある種の車だらう」とか「自分の知つてゐる家に似たものだからこれは住居の一種だらう」とか。仮に宇宙人が家を建てたとして、それが地球上の家とは似ても似つかぬものであつた場合、人はそれを見て「家である」とは認識できないだらう。
「現在」とはいつの時点のことをさすか。「今、何を考へてゐますか」ときかれて、正確な答へを出すことができるか。たとへば「針の落ちる音を聞いた」とは云ふが、「針の落ちる音を聞いてゐる」とは云はない。同様に「たつた今戀してゐた」とは云はないが「今戀してゐるんだ」とは云ふ。
人が完全に感情などを制御できるやうになつたら危険である。なにごとも達成することなしに達成感を得られるやうになつたらおしまひだ。
なんてなところかなあ。
この章はこれまでより節が多くてもつと内容もあるはずなんだけど。
明日以降、不足分があつたら足すやうだらうな。
« 「The Society of Mind」を読む その五 | Main | 「The Society of Mind」を読む その七 »
« 「The Society of Mind」を読む その五 | Main | 「The Society of Mind」を読む その七 »
Comments