「The Society of Mind」を読む その五
第五章は「Identity」といふ題名。辞書を引くと「自己同一性」などとなつてゐるが、どちらかといふと、「自分が自分であることの証明」といふやうな意味で使はれることばなのではないかと思ふ。
昨日第四章のところで思ひきり無視してしまつたが、第四章にはライヴァルの教授が出てくる話がある。
今自分は「働」いてゐるが、どうも疲れてきて「眠」たくなつてきた。ところがそこに、ライヴァルの教授が同じやうな研究をしてゐてどうやら成果があがつてゐるのらしいといふ噂がやつてくる。ライヴァルの教授に出し抜かれてはならじ、といふ「怒」りが、「眠」りたいといふ気持ちを押しのけて、「働く」気持ちをもりたてる。
そんなやうな話である。
これについての詳しい話は昨日のエントリに追加するとして、第五章では「働く」と「眠る」と、どちらかが先に存在するのか、といふところからはじまる。
「疲れた気がするから家に帰りたい」のか「家に帰りたいから疲れた気がする」のか。
鶏が先か玉子が先か。
この場合、どちらが先でもかまはないし、どちらが先でもたいした違ひはない。
かういふときは「ものごとを整理する」などと称してどちらが先かを決めたりする。
同じやうなことはむづかしい問題に対する答へを求めるときにも起こる。
たとへば「宇宙のはじまりはなにか」とか「生きる目的はなにか」、「なにをもつてどの信条が正しいかを見極めるのか」や「なにが正しいかどうやつて見分けるのか」といつたやうな問題に対しては、人は思考停止しがちである。
こどもがそんな質問をしてきたら「Just because」と答へる、といふやうなやり方のこと。
むづかしい質問への答へがわからない場合でも、なにかしら答へを見つけ出してはくる。
こちらもたとへば「脳を制御してゐるのはなに?→心(mind)」「ぢやあ心(mind)を制御してゐるのは?→自我(Self)」「その自我(Self)を制御してゐるのはなに?→自我自身」といふ具合に。
脳や心、自我を擬人化すると、たとへば心は巨大な画面を前にして脳のすることを監視してゐる、同様に自我は心のすることを監視してゐる。ぢやあ自我自体は? また別の自我が同様に監視してゐるのか。でもそれつて、無限に自我があることになるんぢやないか。
さうなるのは、心(mind)の大部分が言語化可能な意識の外にあるからだ、と、本にはある。
よく「ただ好きなんだよ」とか「(あるものを)好きなことに理由なんかないよ」といふやうなことを云ふことがある。
実際、どちらも同じやうに好きなもの同士からひとつだけ選ぶのは大変むづかしいことだけれども、さういふときほどどちらを選んでもさしてかはりはないのしらい。
そらさうだな、どちらも同じやうに好きなんだものな。
人にはそれぞれ個性・特性があるけれども、それは単に表面にでてきたものに過ぎない。
行動としてあらはれないはたらきややり方がたくさんあつて、それがわからないと自分自身のことだつてわかつたことにはならない。
最後は、生まれたときからあなたはずつとあなたか、といふ質問で終はる。字を読めるやうになつてからのあなたもそれ以前と変はらない存在か、といふこと。
これは精神面だけでなくてもさうだな。細胞は定期的に新たに作られてゐて古い細胞は死んでいく。だつたら生まれたときの自分と今の自分が同じだといふなら、それはどこが同じなのだらうか。
といふ問ひに次の章から答へていくのかなあ。一日一章だとそこらへんが謎である。
今回は、できるだけ各節の要約を書いてみた。これまでは章単位に「ここらへんを書いていけばいいだらう」と思つたところだけ書いてきたが、それだと次の章に入つてからの抜けが多いからだ。
……ま、できるところまで、といふことにしたいけど。
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