「The Society of Mind」を読む その四
第四章はヴォネガットのことばからはじまる。
「We are what we pretned to be, so we must be careful about what we pretend to be.」
pretend には「〜のふりをする」とか「装ふ」といふ意味があるが、えうは、「自分は、自分でかうだと信じてゐる自分である」といふことではなからうかと思ふ。
ほんとのところはよくわかんないけど、自分で自分自身はかういふ存在だと考へてゐる、みたやうな。
といふわけで、「self」の話である。
本の中では「self」と「Self」をわけてゐて、「self」は一般的な意味、「Self」はまちつとちがふ意味で用ゐたい。とある。多分、「Self」は「mind」と同列といふか似たやうなものとして論じたいときに使ふんだらうな、と思ふ。
といふのは、「自分つて、いろいろあるよね」といふ話が出てくるからだ。
「自分はかう考へる」「自分はこれがほしい」「自分はかう感じる」といふ単体の自分と、「自分の中の天使はかういふんだけど、悪魔はちがふことをいふんだ」といふやうないろいろある自分。
このいろいろある「Self(自分)」つて、いろいろあるagentsからなるagent(あるいはagency)といつしよだよね、といふ風に話は進むんぢやないのかなあ、と、これは予想。さう書いてあるのかもしれないが、そこまで読み取れてゐない。
ほかには、ひとつひとつの作業は完了できても、長期目標やいくつもの作業をこなさないと完了しないやうな仕事つてなかなか達成できないよね、といふ話もでてくる。自分の中にいろいろある利害や欲望が対立するからだ、といふ。
これはちよつと個人的に考へてみたいところ。
日々の作業はできても、もつと全体的なことといふか大きなことはなかなか達成できないからだ。
日々の作業をこなすうち、「やりたいこと」が埋もれていつてゐるからだ。
追記(2011/01/09):
昨日は端折つてしまつたが、第四章にはこんな話も出てくる。
今自分は「働」いてゐるが、どうも疲れてきて「眠」たくなつてきた。ところがそこに、ライヴァルの教授が同じやうな研究をしてゐてどうやら成果があがつてゐるのらしいといふ噂がやつてくる。ライヴァルの教授に出し抜かれてはならじ、といふ「怒」りが、「眠」りたいといふ気持ちを押しのけて、「働く」気持ちをもりたてる。
なんでこんなに回りくどいのか。もつと単純に直接的にやりたいことをやればいいぢやあないか、と、本にはある。
でも、直接的になると、たとへば「怒」る気持ちと「働く」が直結したら即戦ひになつてしまふし、「働」きたいといふ思ひが「眠」りたいといふ気持ちを押しのけてばかりゐたら即過労状態に陥つてしまふ、のだとか。
自制のはたらきはほとんど無意識のうちに行はれる。このライヴァルの教授の話も自己の制御をする例のひとつ。ほかにも自制の方法がいくつかあげられて、それから昨日書いた長期目標の話にうつつていく。
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