っていってたの(BlogPet)
ほんとうは、雅亮は
weblogに失礼する前はweb日記みたやうなものを書いてゐたのだれども、その方.
っていってたの。
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。
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ほんとうは、雅亮は
weblogに失礼する前はweb日記みたやうなものを書いてゐたのだれども、その方.
っていってたの。
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。
なんとはなしにWebで検索などしてゐたところ、大変失礼な質問に出くはした。
「「独眼竜政宗」で伊達政宗の子供時代を演じてゐた子は今どうしてゐるのでせう」
といふやうな、「あの人は今」風の質問である。
この政宗の幼少時代には当時有名になつたセリフがある。
「梵天丸もかくありたい」だ。
ゆゑにとくに印象に残つてゐたのかもしれない。
この質問がなぜ失礼なのかといふと、お尋ねの相手は現在非常に活躍してゐる人物だからである。また非常に有名な人物でもある。
この質問が失礼なのは、「「おゆき」といふ歌を大ヒットさせた内藤國雄は今どうしてゐるのでせう」と同じである。
内藤九段はいやな顔ひとつせずTV番組に出演してゐたけれど、失礼であることにかはりはない。
知らないんだから仕方ないのかもしれないけれども。
だがかういふ質問は身内の間にとどめておいた方がいい。
公にした途端、気分を害する人が多く出てくるだらうからだ。
なんでせう?
http://www.emobile.jp/cgi-bin/press.cgi?id=451
自分のことを棚に上げて云ふと、W-ZERO3をうまく使ひこなせてゐない(結局京ぽんと同じやうな使ひ方しかしてゐない)のも、W-ZERO3がMacと連携できないからである。
予定表などはもつと使へたら便利だなと思ふのだが、なんだかんだいつて(Palmの方が使ひやすいといふこともあるけれど)Tungsten|Cで管理することになつてしまふ。
myloは楽しく使つてゐるけれど、iTunesと連携できたらどんなにか便利だらうとつくづく思ふ。
企業はユーザのことなんてちつとも考へてゐない。
だから「Break」しないんぢやないの?
iPodの成功にもつと学んでほしいよ。
とか云ひながらサービスエリアが拡張されたら購入してゐる可能性は大きい。
とほほ。
いつも、雅亮は
ものすごく大きいハーバード大の出る楽器が抑へたハーバード大で演奏してゐるのを聞くのが好きで.
とか書いてた?
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。
かうだつたらしい。
本邦の厚生労働大臣はどうするのかの。
このままなしくずしかな。
個人的には、心の底から悪かつたと反省してゐるのなら別段辞任する必要はないと思つてゐる。
問題は、「全然身に染みてない」やうに見受けられることだらう。
実際はどうだか知らないけどね。
weblogに移行する前はweb日記みたやうなものを書いてゐたのだれども、その方が自由度が高かつた気がしてゐる。
ぢやあ今からまたみづからすべて手打ち(つてそばやうどんぢやないんだから)に戻るかつてーと……うーん、戻れないかも。
あとは使ひやすいシステムを探すか作るかするだけなんだらうど、後者はなかなかむづかしい。
せめて題名とかカテゴリとかなければまちつと書きやすいのかもな。
と思つて今回は「無題」なわけだが。
漢字で書けばよくわかるが、「なさぬなか」と耳で聞くとわからない場合が増えてゐるやうだ。
たとへば「國性爺合戦」では、渚の方と錦祥女が生さぬ仲の義理をかけて意地を張り合ふ。「玉藻前㬢袂」では、萩の方が実の子と生さぬ仲の子とを抱いて「どちらも死んでくれるな」と嘆く。「仮名手本忠臣蔵」では戸無瀬が生さぬ仲の子・小浪のたつたひとつの願ひである大星主税との婚礼をなんとかしやうと奮闘する。
人間が犬畜生とちがふのは、かうした「義理」を大事にする心があるからだ。
お浄瑠璃やお芝居のかうした話の根底にはさういふ考へ方があるのらしい。
でも実際のところ人間だつて動物だから、実の子ぢやなければかはいくないし、大事にしやうとも思はないらしい。その証拠に昔から継子いぢめの話は数かぎりなくあるし、昨今は伴侶の連れ子をいぢめ殺す事件が後を絶たない。
「双蝶々曲輪日記」は「引窓」を見てゐて抵抗が少ないのは、義理を大事にしつつも最終的には母と実の子とをたてる内容になつてゐるからなんぢやなからうか。
去年九月の秀山祭の中継を見てゐてさう思つた。
芝居の内容はこんな感じだ。書くまでもない気もするけど。
南輿兵衛の母・お幸は、輿兵衛の父・南方十次兵衛の後妻。輿兵衛は先妻の子なので、お幸にとつて輿兵衛は「生さぬ仲の子」といふことになる。お幸には十次兵衛に嫁ぐ前に長五郎といふ息子があつた。長五郎は幼少の折、大阪に養子に出された。
長五郎はその後相撲取りになつて、濡髪長五郎と名乗つてゐる。恩ある大名との関係でひよんなことから人殺しの罪を負ひ、追つ手から逃れる身の上。追はれ追はれて実母のゐる南輿兵衛の家にたどりつく。
時しも留守だつた南輿兵衛は、亡夫の跡を継ぎ庄屋代官に取り立てられた、ついては今逃亡中の殺人犯を探し出して召し捕れと、お上に云はれて帰宅した。その懐には罪人の絵姿。
さう、輿兵衛はなにも知らず長五郎を召し捕らうとしてゐるのである。
かくして、お幸は長五郎を逃がさうとする、輿兵衛はなにかあると悟り(ここのセリフがいいんだ。「母者人、なぜものをお隠しなさいます」つて。)、平素から実子以上にかはいがつてくれた母の願ひをかなへやうとする。長五郎は輿兵衛の手にかかつてお縄につきたいと云ひ……結局、輿兵衛は長五郎を逃がすんだな。
ところでこの輿兵衛といふ役はおもしろい。
郷代官の息子でありながら、父亡き後は放埒三昧(つてほどでもないかな)、女房お早は大阪新町で都と名乗つてゐた遊女。
さういふ「ちよつと前まで遊び人」みたやうな雰囲気があるのがなんともいい。
オペラで云ふならテノールの役どころか。播磨屋・中村吉右衛門はかういふ聲もまたいい。
もうひとつ秀山祭からの中継録画は「菅原伝授手習鑑」から「寺子屋」。こちらはお主の嫡男の命を救ふため、己が子の命を犠牲にする話。
さういへば武部源蔵もいはゆる「職場戀愛」をしちやふやうな人なんだよな。こちらはバリトンか。当然播磨屋が悪いわけがない。
話がそれるが、御法度の「職場戀愛」でお役御免になつた源蔵に筆法伝授する菅丞相といふのがまたいい。それ(禁じられた職場戀愛)とこれ(藝の伝承)とはちがふつちふわけやね。
昔は舞台中継とか録画とか、「実際に見に行かなきやダメだよ」といふのであまり見なかつたが、最近はつい見てしまふ。自分が見に行つた芝居でも見てしまふ。
それだけほかに見るものがないといふことでもあるかな。
きのう、動画は挑戦された。
ここで動画っぽい挑戦するはずだったみたい。
雅亮が挑戦するつもりだった?
雅亮で動画みたいな挑戦された。
ここで挑戦された!
雅亮と挑戦したかった。
雅亮の、動画が挑戦されたみたい…
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。
昨日のことである。
アート・バックウォルドについて書かうと思つてゐた。文章はかんたんに読みやすく書けといふ御時世にweb上でsatireは生き残れるのか、生き残るとしてどのやうな形式で生き残るのか、やはりprofessionalでないとsatireは書けないかとか、愚にもつかぬことを書くつもりだつた。
そんなとき、ふと「さういへば、カート・ヴォネガットでも読みなほすかなぁ」といふ気になつて、なんの気なしにwebで検索をかけたら。
Wikipediaのヴォネガットの項目に、没日が入つてゐるではないか。
「あれ、もう故人だつたか」とよくよくみれば、なんと日付は2007/2/7になつてゐる。
めりけんで一昨日なら本邦では昨日だらうと、朝日讀賣毎日で検索したがなにも引つかかつてはこない。Yahoo!、Googleでも同じこと。本邦のWikipediaには最期の日の日付はない。
Findoryもダメ、Washington Post、USA Today、CNN、New York Times、いづれも検索不能である。
Wikipediaの該当ページを再読み込みしたら、生年だけになつた。
あー驚いた。
#牧伸二した。
そんなわけで今日の誓ひ。
ヴォネガットを読みなほさう。
ヴォネガットの名を最初に知つたのは、三原順の「はみだしつ子」だつた。登場人物のひとり(「はみだしつ子」を御存知の向きのために。グレアムである)が、最近読んだ本の解説について言及する。「ローズウォーターさん あなたに神のお恵みを」で作者カート・ヴォネガットJr.はかう云つてゐる。「人間はなにもすることがないときに、泣くか笑ふかする」と。
といふわけで、はじめて読んだヴォネガットの本は「ローズウォーターさん あなたに神のお恵みを」である。
「プレイヤーピアノ」と「チャンピオンの朝食」は原書も読んだなあ。
特に文学好きといふわけではないのだが、ヴォネガットは(本人の意向はともかく)ハヤカワSF文庫に入つてゐたといふのが大きい。
イサカとかスケネクタディとか行つたこともないのに耳にするたびなんだかなつかしい気がするのもヴォネガットの影響だ。
早速、本棚からヴォネガットを発掘。かうしてみると、結構図書館で借りて読んだ本が多いらしく、手元にあるのは「ローズウォーターさん……」と「プレイヤーピアノ」だけだつた。
翻訳しか読んだことのないの中から二冊ほど選んでamazonで原書を購入。
今Jasper FfordeのThe Nursery Crimesを読んでゐるところなので、並行してすこしずつ読んでいくつもり。
GTDにはもうせん興味がある。
なんだかんだ云つて、Getting Things Doneを読むことにしたし、以前からあちこちのweblogなどを徘徊したりもしてゐる。
今ひとつ一生懸命になれない理由は、と考へたときにいくつかあつて。
ひとつは、これはもうほとんど仕方のないことなのだが、正直いつてやつがれは自分の思つてゐること・考へてゐることを表に出したくないといふことだ。
GTDの第一歩として、したいこと・するべきことをすべて書き出すといふのをたはむれにやつてゐたのだが、書き出してゐて愕然とした。別にたれに見せるわけでもないのに、自分の望むとほりのことを紙に記すことができないのである。ばかばかしいと思ひつつも、心のどこかに「照れ」がある。
莫迦。
どうやらGTDを実践するにはまづ自分自身に対してすなほになるところからはじめないといけないらしい。
道は遠い。
ふたつめは、まづ最初にしたいこと・するべきことを書き出すのが大変だといふことである。
これはなにもやつがれに妙な「照れ」があるからいふのではない。単純になにもかもひつくるめて全部書き出すのには時間もかかるし、それにどうやらなにがしかの手引きがないとすべてを出し切るのは至難の業のやうである。
この点を乗り切るには、「GTDを実践するぞ」と決心をかためてかかる必要があるだらう。
最後に、なんでもさうなのだが、GTDのやうな考へ方についてはすばらしいと思ふ反面、ときに「なんだかがつつきすぎで疲れる」と感じてしまふことが多いといふことだ。GTDあるいはLifehacksといつた内容に特化したweblogの管理者は時に異様に元気さうに見える人がゐる。さういふ人を見ただけで「あっ、だめっっ」と思つてしまふ。
世の中、そんなに前向きに生きていかないといけないのかなあ。
なんとなくぼんやりとした生活はダメなんだらうか。
帰りなん いざ。
そんな心持ちになる。
とはいへ、なにごとについても挑戦するのは悪いことではなからう。
といふわけで、全部は書き出せなくてもとりあへず思ひつく限りのToDo項目をあげ、分類わけして早速行動にうつしたり予定をたてたりしてゐる。ToDo項目はあとからつけたしていつてもいいしな。週毎のみなほしの時に足してもいいわけだし。最初から全部書き出さうとすると、「自分にはできない」といふので挫折感を抱くだけに終はつてしまふことになりかねないしな。
それにしても一日24時間は短過ぎる。
今も聞くことに決めてゐる録音したラジオ講座を聞いてゐるのだが、一度聞くのがやつとだ。ろくろく復習もできない。勉強といふよりはすでに趣味なので、聞けないとかなりがつくりきてしまふ。
とりあへずはこれを聞けるやうな日々を送るのが目標、かな。
myloで挑戦してみたいことがひとつできた。
動画を持ち運ぶことである。
myloには最初からお試し動画が入つてゐるのだが、これが案に相違の見やすさだつた。まあさういふ素材を選んだのだらうけど、これならやつがれには充分だなぁ。
もともと「ワンセグ」とやらには懐疑的な方である。あんな小さな画面で見たい物があるだらうか(反語)。
だが。
なにごとも試してみなければわからぬこともある。
myloで見る動画も悪くない。
動画に関してはまつたく期待してゐなかつた人間のいふことなので、話半分くらゐに聞いてもらひたい。
しかし、モンティ・パイソンのスケッチのうち特に気に入つてゐるものをひとつかふたつ、或はいくつか持ち歩くのはどうだらう。
時期的に「ベルギーのチョコレートつて云つたらウィゾー社のだよね」みたやうなね。
しかし、それつて可能なのか?
myloにエマーソン・レイク&パーマーの「展覧会の絵」を早速転送してみる。
Sonic Stageを使用した。
この際に問題がちよつとあつた。
元々やつがれのPC (ThinkPad) にはiTunesが入つてゐる。CDを入れると自動的にiTunesが立ち上がる設定になつてゐて、これがどうやらSonic Stageと競合するらしいのだつた。
終了しても終了してもiTunesがたちあがつてくる。仕舞にはiTunesもSonic Stageも立ち上がつてゐないのにCPU使用率が100%のまま二進も三進もいかなくなつてしまつた。
結局再立ち上げしてなんとかなつたけれども。
ヘッドフォンをして使つてみたが、音は申し分ない。まあやつがれ、よい耳を持つてゐるわけぢやあないので「低音がくぐもる」とか「高音がぬける」とかさういふことはよくわからない。でも、音量は十分だと思ふ。ゲージが真ん中にきてゐるとうるさすぎるくらゐだ。三つか四つくらゐついてゐれば十分。そんな感じである。
さて、「展覧会の絵」は元がクラシックのせゐかこの手の音楽にしてはダイナミック・レンジが広い。そんなわけで途中音量をあげたりさげたりしたい場面が出てくるのだが、myloだとこの操作がちよつと手間である。筐体下部にあるVolumeボタンを押さうとすると、なぜかほかのボタンにも触つてしまふらしく、突然演奏が途切れたりとかひどい場合にはmylo自体の電源が切れてしまつたりする(もちろん電源ボタンに触つてしまつたからだと思ふけど)。
音量を操作したい場合はVolumeボタンよりも上下キーを使つた方がいいかもしれない。
ヘッドフォンなしでも聞けるのもmyloのいいところだ。この場合は音量はできるだけ上げた方がよいやうだ。
そんなわけで、どんどん手持ちの音楽を転送したいところだけれど。
普段Macしか使つてゐないので、myloでなにかしたい場合はThinkPadを立ち上げる必要がある。これが案外面倒くさい。W-ZERO3もさうなんだけれども、結局最初の何回かPCと接続しただけで、その後はSDカード経由でMacとデータをやりとりしてゐるやうな状況だ。myloもさうなるのかなあ。
やはりMacとの連携も考へてほしいところだ。してくれないと思ふけど。
いや、そんな大袈裟なもんぢやないけど。なんとなくそんな意味もこめて命名したのかな、と。
といふわけで、我が家にもmyloがやつてきた。
自宅で無線LANを使用してゐるわけでもないので(かつては使用してゐたけど)、myloは要らないよなあと思つてゐたのだが、白myloが手に入るといふのでなんとなくぽちつとな、と。まあ自宅の無線LANをまた復活させてもいいし、接続した状態だと電池もあまりもたないやうなのでもつぱら音楽再生用にしてもいいかなといつたところ。
ちなみにこれがついてきたポーチ。これ、男性は使ひづらくないか? そんなことないか? 別段myloを入れなくても普通にポーチとして使用できる点はいい。
とにかく小さい。しかも軽い。大きさはNINTENDO DS Liteと比べるとこんな感じ。
キーボードは普段W-ZERO3に慣れた身にはかなり打ちづらい。特に最上段とか湾曲した部分にある左右の端の方とか。でもこれは慣れかな。慣れやうとテキストを打つてみたら、ほんの64バイトしか打つてゐないのに保存にえらい時間がかかつた。「待たされてゐる」といふ感覚があつた。
これから外部記憶メディアを買ふつもり。
まづはちよこつとだけ音楽ファイルでも転送するかな。
一応ELPの「展覧会の絵」のうちから何曲か転送可能な分だけ送つてみるつもり。
なんでELPかつて? いや、なんとなく手元にあつたからだけど。
ほんたうに数分触つてみただけだけど、これつて知り合ひも持つてないとつまらないんぢやないかなあ。そんな知り合ひはゐないから買つて損したことになるやうな気がしてゐる。
でもmyloで無線LANがもつとひろまつたら、iPhoneの登場も早くなるかも、といふ気もしないではない。
……そんなことはないか。
たとへば、ものすごく大きい音の出る楽器が抑へた音で演奏してゐるのを聞くのが好きである。
銅鑼を力一杯「ジャ〜ン」と叩くのではなく、「しーん」となでるとか。
ミュートをつけた時のトランペットやトロンボーンの音であるとか。
もともと小さい音しか出ない楽器が好きといふ話もあるがね。三味線とかファゴットとか。
あ、さうさう、ファゴットとかコントラバスとかが本来低音担当なのにムリに高い音を出して演奏してたりするのも好きだつたりする。オーケストラ・ド・コントラバスの演奏にあるやうなのとかね。
「千の風になつて」なんかだつて、朗々と歌ふのではなくて、そつと囁くやうに歌つたらもつといいだらうなあ、と、思つたりする。
もちろん、歌ふ人は朗々とした聲も出る人でなければならない。小さな聲しか出ないかすれたやうな聲しか出ない人ではいけない。
かういふのは個人の趣味なので、やはり銅鑼はでつかい音で「ヂャ〜ン」と鳴らして延々とその余韻を楽しむのがいいと云ふ人もゐるだらうし、トランペットやトロンボーンのすこんと抜けた大きな音が好きといふ向きもあるだらう。
この「抑へた音量」とか「抑へた演奏」が好き、といふのは、どうやら「一条大蔵卿が好き」といふのと同根のやうな気がする。
ここでいふ一条大蔵卿は「一条大蔵譚」に出てくる一条大蔵卿だ。あの「つくり阿呆」の大蔵卿である。
……世の中住みにくいはずだよなあ。
ちゃっくんは、初対面と、初対面と
おだやかさう.
とか書いてみるの♪
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。
以前から書いてゐるが、ビジネス文書に関しては、相当の怒りを抱いてゐる。
とはいへ、「ビジネス文書」そのものに対して怒つてゐるわけではない。
「ビジネス文書は口語で書くこと」といふ決まりに怒つてゐるのである。
「ビジネス文書は口語で書くこと」はあまねく知られた原則なのに、社内社外のビジネス文書からは以下のやうな表記がなくならない。
「13:30より小会議室Cにてミーティングを行ひます」
これを見てビジネス文書としてをかしいと思はない人はきつと新人の時にきちんと教育を受けなかつたか、やつがれのやうに「ビジネス文書は口語で書くこと」といふ決まりに怒りを覚えないまでも違和感を抱く人に教育を受けたかのどちらかであらう。
この例文には三つの誤りがある。
「にて」「より」「行ひます」だ。
正しくは以下のやうになる。
「13:30から小会議室Cでミーティングを行います」
「行ひます」はともかく、「小会議室Cにて」「13:30より」は一般的に見るではないか、といふ意見もあらう。
それは一般的にまちがはれてゐるからだ。
くどいやうだが、ビジネス文書は「口語で書く」ことになつてゐる。
すこし考へてみてほしい。口に出して云ふ時、「小会議室Cにてミーティングします」とか「13:30よりはじめます」と云ふだらうか。
云ふ、と答へた人は、それは予め読み上げる文書がある時に限るといふことはないかどうか考へてみてほしい。
口に出したときの違和感は、疑問文にするとさらに顕著になる。
「どこにてミーティングをしますか」
「何時よりはじめますか」
そんな喋り方をする人はまづゐない。まあ広い世の中ひよつとしたら何人かあるいは何十人かゐるかもしれないが、極々少数派のはずである。
すなはち、「小会議室Cにて」「13:30より」はビジネス文書としては誤りである。なぜつてこの用法の「にて」「より」は書き言葉だからだ。
かんたんなことなのに、理解してゐない人が多いのは嘆くべきことである。
だからいつそ、「ビジネス文書は文語で書くこと」にきまりをあらためてはどうだらうか。この場合、「候文」はわかりづらくなりがちだから避けてほしいとは思ふが、しかし「ビジネス文書は文語で書くこと」。もちろん学校でもきちんと文語の書き方を教へる。
いいと思ふがなあ。
山本夏彦は「人はかざつてものを云ふ」と書いた。
昔はこれを「話す内容をかざるのだ」と思つてゐた。
だが、それだけではなかつた。
人は、美文を書きたがる。美文と云ふと大袈裟かもしれないが、気取つた文章を書きたがる。
だから「小会議室Cで」でいいところをわざわざ「小会議室Cにて」と書き、「13:30から」で済むところをなにを思つてか「13:30より」と書いてしまふのである。
人は気取つた文を書かうとすると、文語にかへつてしまふのだ。
いいぢやあないか、ビジネス文書は文語で。文語はわかりづらいと云はれるかもしれないが、なに、世の中の大半の人の書くものは口語であつてもわかりづらいことにかはりはない。
と、ここまで書いてきて自分はなにに対して怒りを覚えてゐるのかあやふやになつてきた。
最初は「ビジネス文書は口語で書くこと」と決めたどこかのたれかに対して怒つてゐると思つてゐたのだが、実は「ビジネス文書は口語で書くこと」に対して疑問も反感も抱かずにゐながら平気で「小会議室Cにて」とか「13:30より」と書く輩への怒りなやうな気もする。
あるいは「文語」を禁じられた怒りかもしれない。
まあいいけどね、「ビジネス文書は口語で書くこと」でも。
だけどたのむから「この「にて」と「より」はまちがつてるよ」と云つたら「なんでですか」とか訊かないでほしい。「みんな書いてるぢやないですか」とか。
書きたいんだつたら「ビジネス文書は口語で書くこと」といふきまりに反対しろ。
ちなみにやつがれは反対してゐないので「小会議室Cで」「13:30から」と書く。
その他、「なんだかこれ文語つぽい」と思つたらできるだけ辞書を引く。
ああ、なんて面倒くさい!
なるほど、この「面倒くささ」に対して怒つてゐるのかもしれんな。
先日、NHKで保護者からの無体な仕打ちに悩む教師の特集を見た。
……「無体」といふのは教師から見た話で、当の保護者にとつては至極当然のことなのだらう。
なぜなら、保護者は教師と学校に対して「思ひ知らせてやりたい」と思つてゐるからである。
その番組を見てゐて、そんな気がした。
以下はあくまでも保護者の視点から「かうだらう」と推測したものである。
保護者は自分のこどもがひどい目にあつたと思つてゐる。たとへばちよつと遅刻をしただけなのに、クラス全員に配布される学級新聞に実名が載せられてしまつた、とか。それだけで「あのうちの子は遅刻をするやうな子なのだ」と、後ろ指さされることになつてしまつた。なんたることだ。
担任の教師に思ひ知らせてやらなければ。口先だけの謝罪なんてなまぬるい。関連する配布物をすべて回収しろ。こんな担任に可愛い我が子をまかせてなんておけない。担任を変へろ。いや、辞めさせろ。それのできない校長なんて無用だ。首を切れ。
相手にもそれ相応の処罰を与へなければ、納得いかん。
保護者の気持ちはこんなところなのではあるまいか。
かつて、近代法の確立する前の時代は、報復が正当化されてゐたこともある。いはゆる「敵討ち」なんかがそれだ。
だが、現行法は「報復」を禁じてゐる。
ところで個人的なことだが、時折これまで出会つた失礼な輩とその言動を思ひ出すと、悔しくて悔しくて眠れないことがある。どうにかして「悪いのはそつちだらうが」とわからせなければ気が済まない。そんな狂ほしい思ひにかられることがある。
これは、上記保護者の「思ひ知らせてやりたい」といふ気持ちと同じだし、「報復」の気持ちである。
自分の場合、さういふ気持ちの向かふ対象は一度しか会つたことのない相手だつたりもう二度と会ふことはない相手だつたりするので、結局いつももやもやとした気持ちのまま思ひ出すまで記憶の底にしまひこむことになる。
保護者の場合は、たまたま「報復」する相手がすぐそばにゐて、鬱憤もまた晴らし得る、と、さういふことなのだらう。
被害者とその関係者の権利を認めやうといふ動きがある。
さういふ人々の気持ちはわかる。自分も同じ立場だつたら同じことを云ふし同じことをするだらう。
かうした時、よく「加害者の権利ばかり守つて我々被害者のことは考へてくれない」といふやうな論調がある。
実際のところはどうだかよくわからないが、被害者とその関係者が「権利を剥奪されてゐる」やうな状態におかれるのは、この「報復禁止原則」によるものなのではないかといふ気がしてならない。加害者の権利を守るため、といふのもあるのかもしれないが、どちらかといふと司法が気にしてゐるのは「報復の可能性を減らすこと」のやうに思はれる。
やられたらやり返すといふ根性をなほせ、と、こどものころさんざん親に叱られた。残念乍ら、この根性を叩きなほすことかなはなかつた。だから今、さまざまなことを思ひだすにつけ、くやしくてくるしくて仕方がないときがある。
やられてもやり返さない。あるいはくやしい気持ちをバネにしてよりよい方向に向ける。
云ふのはかんたんだが、それができれば苦労しないわけで。
根つこのところは「わかつてほしい」なんだとは思ふんだがな。
といふのは、「復讐心」に燃えやすいやつがれの云ひ訳だらうか。
だらうな。
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