今日は(BlogPet)
今日は、雅亮が、ネットで大きいこうさぎなどをBLOGしなかった
斯く云はん
ITIStheworstoftimes,itist.
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。
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今日は、雅亮が、ネットで大きいこうさぎなどをBLOGしなかった
斯く云はん
ITIStheworstoftimes,itist.
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。
きょうちゃっくんはここまでblogした?
ここまで雅亮で云へblogしなかったよ。
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。
ここのところ、演目・配役を見ると「なんだか物足りないなあ」と思ふことが多くなつた。
この傾向は二三年前からはじまつてゐて、当時はさう感じることをふしぎなことだとは認識してゐなかつた。
考へてみれば、芝居を見始めたころ舞臺の上にゐて「芝居を見てゐる」といふ満足感を輿へてくれた役者は、みな点鬼簿に名を連ねてゐる。
そして、やつがれはどうもその事実に気がついてゐない。いつまでも、「なんでこの役をあの役者がやらないのか知らん」と夢みたやうなことを考へてゐる。
現実を見つめなければ。
もうその役者はこの世の人ではないのだから。
といふわけで、これからはまちつと前向きに芝居と向き合ひたいと考へてゐる。
若い役者が大役をまかされてゐても「挑戦つて大事だよな」とか「時分の花つてもんもあるしな」ととらへていきたい。
さうしないと、芝居さんが自分からとほざかつていつてしまふ。
そして、やつがれはまだ芝居さんのことが好きでたまらないのだ。
ちゃっくんがblogするつもりだった?
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。
さつきから近所の家でジャズやシャンソンのスタンダードナンバをピアノで弾いてゐる。
「弾いてゐる」といふのはかなり好意的な書き方で、これがまるで形になつてゐない。
形になつてゐないだけならまだしも、コードの弾き方からしてわからないらしく、同じ和音を何度もくりかへしたり(ジャズだからかその和音がまたちよつと複雑である)、旋律と和音がまつたくあつてゐなかつたり、とにかく聞いてゐてとにかく苛々する。
しかもものが「スタンダード」だから始末に悪い。こちらもよく知りかつては弾いてゐた曲ばかりだからだ。「枯葉」つてそんなに難易度の高い曲だつたか知らん。今は「酒とバラの日々」の和音部分ばかりを弾いてゐるが、ひとつの和音を弾くのすら何度もやりなほしてゐる体たらくである。
かつて「ピアノ殺人」といふものが世間を騒がせたことがあつた。
犯人の死刑判決に日本各地の同じやうな騒音に悩む人々から助命歎願があつたといふ。
今ならやつがれも助命嘆願書に名を連ねるかもしれない。
しかし。
上にも書いたやうに、やつがれもかつては「騒音の元」だつたわけだ。
これでもご近所のピアノその他楽器の練習にはかなり寛大な方、といふか、「ああ、お隣のお孫さん、今はこんな曲弾いてゐるんだ」とか「どこかでヴァイオリンをならつてゐる子がゐる」とか、どちらかといへば楽しんでゐる方だと思ふ。
だが今漏れ聞こえてくるこのピアノの音が許しがたい。
多分、かんたんなことだと思ふのだ。
弾く前に譜読みをすればいいのである。
その際、コードがむづかしいと思つたらちよつと左手で弾く真似をしてみるとか、そんなていどの準備練習をすれば、格段にましになるはずである。
弾いてゐるやうすから、どんな曲かはよく知つてゐるやうだからだ。ただコード進行が弾き手にはちよつと難易度が高過ぎるらしく、そちらにつられて知つてゐるはずの旋律もまちがへるといつた状態のやうに聞こえる。
また、曲を弾く前にまづ運指練習をするのも肝要だ。
これだけで実際に曲を弾くときの指の動きが断然かはつてくる。エンジンのかかりがかはる、といつた感じだらうか。
ジャズに基本は関係ない?
確かに世の中にはさういふ「天才」もゐる。
音楽ではないが、かのフレッド・アステアはクラシック・バレエの素養がないことにずつと劣等感を抱いてゐたといふ。アステアに基本の素養がない? 銀幕からはそんなことは窺ひ知ることはできない。
だが、世の多くの凡人には絶対に基本が必要なのである。
なぜ外国語を習得する際文法をうるさく学ぶのか。
それが基本だからだ。
文法を身につけてゐれば如何様にも応用がきくやうになるからである。
♯つまり多くの日本人はその文法すらきちんと身についてゐないといふことだ。
♯あるいは文法を修得するその所以を知らず、応用する術を身につけてゐないのだ。
話が脱線していくが、かつて職場で隣に座つてゐた同僚がやつがれとは反対側に座つてゐる相手とこんなことを話してゐたことがある。
「英語を喋れるやうになりたいけど、学校で学ぶことつて自分が云ひたいこととちがふんだよね」
相手はそれに和し、「わかるわかる」と云つてゐた。
文法を学ぶだけでは互ひに意思疎通ができるやうにはならないかもしれないが、文法を知らなければ先は長くない。
ピアノだつてさうである。
「ハノン」に代表される運指練習、初見の曲を弾く際の遅い速度からメトロノームを鳴らしての練習、その前にまづは譜読み、あるいは他の人間の演奏を聞くこと、さうした基礎や準備練習なしにはピアノの演奏はできない。
外国語の習得だつてさうだ。
上つ面の挨拶ができるやうになつて、それで「外国語ができる」と満足できるのならそれでいいんぢやない? 十億人と話せるやうになればいい。
さうして中身のない会話だけしてゐればいいのだ。
ほんとうは、雅亮は
雅亮が覚えるは、雅亮は今日は余裕で広い以前と、職場を去るだといふ.
とか思ってるよ。
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。
つめこみ勉強は悪いもののやうに云はれてゐる。
ネットワークの発達した今、もう暗記は必要ないといふ意見もある。
「どこになにがあるか知つてゐれば事足りる」といふ人もゐる。
もちろん、つめこみ勉強を擁護する向きもある。曰くつめこめる時につめこまなかつたらいつつめこむのか、と。
暗記科目がただの暗記になるか、覚えたことを有機的につなげられるかが個人の能力の差だと思ふがなあ。後者の能力はすばらしいものだと思ふのだがどうか。
♯たれでも持つてゐるものなんぢやないかと思ふがね。
どんなにWeb上の検索機能が発達しても、利用できない状況といふのがある。さういふ時には「覚えてゐること」が重要になつてくるんぢやないかなあ。その場で臨機応変に対応できればそれにこしたことはないけれど、ちよつと覚えてゐればすむ話といふのもある。
結局人間は記憶に頼らなければ生きていけないしね。
たとへば今かうして打つてゐる文章も、コンピュータの使ひ方を覚えてゐるからできるものだ。この瞬間、キーボードの並びやそもそもコンピュータつてどんなものなのかとかさうしたことを忘れてしまつたら、もうかうすることもできない。
或は車の運転だ。路上で突然運転の仕方を忘れてしまつたらどうなるだらう。
それと「つめこみ勉強」はちがふつて?
さうなのかなあ。
夕べ、新聞のTV欄をみてゐたら、「拝み屋横丁顛末記」といふ文字を見かけて、その時間そのチャンネルにあはせてみた。
……ま、深夜ドラマだからね。しかも土曜の深夜。
とはいふものの。
うーん、もつたいないなあ。原作のまんがはほんたうにおもしろいのに。俗に云ふ「ゴールデン」の時間帯に放映してもいいくらゐだと思つてゐる。
戀愛色がうすいからダメかな? それにあの拝み屋横丁ではスポンサの付きやうがないかな。さうかなさうかも。
来週は原作にもある話を放映するらしいから、それを見てから判断した方がいいかな?
今回の話は原作にはなかつたと思ふ。まあ単行本しか読んでゐないので、どこかでかういふ話があつたのかもしれない。でも男の子が拝み屋横丁にやつてきた理由は「両親から人生修行に出された」とか云つてたから原作とちがふし、大家さんは父娘の感動の場面とかに出会つても涙しないと思ふし、作家の先生はかはいいタイプでなくてやうすのいいタイプだと思ふぞ。
最近実写ドラマ化されるとアニメーション化もされたりするが、これもなるのだらうか。
あんまり好きなものをふやさない方がいいかなと思ふあきのゆふぐれ。
かなしいこともふえるからな。
ちゃっくんはblogするつもりだった?
ここに雅亮はここに雅亮で云がblogするはずだったの。
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。
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