おとうさんスイッチ
自分のこどものころは、家でこどもの面倒を見るのはおかあさんだつた。
「おかあさんといつしよ」を考へてみればわかる。これは「おとうさんといつしよ」にはならない。ほんたうだつたら「おとうさんとおかあさんといつしよ」とかになるのかもしれないが、ならない。「はみがき上手かな」では「仕上げはおかあさん」なのだ。「仕上げはおとうさん」ではなかつた。
♯「はたらくおじさん」はいつしか歌詞が「はたらくおじさん」のリフレインだつたのが、
♯「はたらくおじさん はたらくおばさん」にかはつてゐたが……
♯まあそれはまた別の話。
小学生の時だつて、父兄席に父親がゐることはまづなかつた。「父兄」といふ名前にもかかはらずそこに座つてゐるのは母親ばかり。
それがいつからだらう。
「仕上げはおとうさん」もありうるやうになつたのは。
職場でも「明日はこどもの運動会なので」と休む「父」が増えてきた。
自分がこどものころは、たとへ我が子が入院しても出勤した父が多かつたやうに思ふ。少なくとも我が父はさうだつた。
♯といふことを以前自分の父親に云つたことがあつたが。
♯「盲腸で入院した日は休んだ」とか云つてゐた。
♯実はやつがれ幼稚園にあがる前に盲腸炎で手術・入院したことがある。
♯その日の朝のことは鮮明に覚えてゐる。
♯後にも先にも「水をだに飲めずあげた」のはあの時だけである。
「おとうさんとおかあさんといつしよ」が自然のことなのだ、といふ話もある。
子育てを母親まかせにしないで、父親もまた参加する。
これが本来あるべき姿。
だが、さうなのだらうか。
どうも見てゐると、父親が参加するのはなにかイヴェントごとがあつた時に限られるやうな気がする。
「仕上げはおとうさん」だつてさうだ。
普段からやつてなきやできないよ、といふ話もあるかもしれないが、「今回TVにうつるから」といふのでしやしやり出てきたといふことはないだらうか。
運動会・学芸会・入学式に卒業式、さういつたイヴェントごとに参加して、それで「子育てもやつてゐる」と勘違ひしてゐる父親はゐないだらうか。
まあ別にそれでもかまはないと思ふのだけれどね。
また、以前はとにかく働かないと生活していけなかつたといふ事情もあつたのだらうと思ふ。
きつと今職場にゐる人々は一日くらゐ休んでも生活していくのに支障のないやうな稼ぎがあるのだらう。職場も同様だ。以前は「家庭を大事にする社員を支援する」といふ考へ方がほとんどなかつたのだらうが、今はかはつてきてゐるのかもしれない。
♯しかしそれで少子化に歯止めがかからないといふのはまたおもしろい。
♯といふのもまた別の話。
「ピタゴラスイッチ」の「おとうさんスイッチ」は、「ああ、これができるお母さんはすくなからうなあ」としみじみしながら見てしまふ。
いい企画だと思ふ。
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