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Saturday, 30 September 2006

眼鏡新調

いつも免許更新の時に眼鏡を新調する。
視力がさがつてゐる場合が多いからだ。

以前はコンタクトレンズを入れたこともあつた。やつがれの場合はこちらの方が視力があがつていいのだが、どうにも痛くなる時がある。運転はもうしないからいいとして、満員電車の中で涙がとまらなくなつたりして、どうにもならない時があつた。
困つて相談したところ、なんでもアレルギー性の結膜炎だといふ。コンタクトレンズの使用は一日八時間にしろと目医者に云はれた。
一日八時間ではどうしやうもないので、コンタクトレンズの使用はあきらめた。
以降、視力はさほどあがらぬものの、眼鏡を使ふやうにしてゐる。

眼鏡を新調すると驚くのは視力測定方法の変容ぶりだ。あひかはらずランドルト環なんぞを見せられて「どちらが開いてゐますか」とか「この文字が読めますか」とかやるが、その他の測定もあつたりしていつも興味津々である。

結局縁は今使用しているものとそんなにかはらないが、今からできるのが楽しみである。
職場もかはるし、心機一転、といふ意味合ひもあつたりなかつたり。

Friday, 29 September 2006

またもどることも?

今日で今の職場を去る。
だといふのに感慨はない。
以前もお世話になつた職場だからか。
帰り際に、「また呼び戻されるかも」と云はれたからか。

ま、もし三度戻つたとしても通勤先はちよいとはなれた場所になるのだがね。

来月といふか来週からはやつと片道二時間を越える通勤からは解放される。
だがなあ……即次の仕事、かあ。
うーん。

いや、わかつてゐる。
仕事があるのはありがたい話だ。
しかも、一応「かういふ作業で力になつてもらへたら」と云はれてもゐる。
♯社交辞令だとしても。

だがなあ……ちよつと休みがほしい、といふのは我が儘だらうか。
思へば、ずつと稼働率百パーセントだ。なんでも朝礼では「(会社として、かな)稼働率が八十パーセントといふのはちよつと過剰だ」といふ話があつたのだといふ。
うーん……ぢやあやつがれは? もうずつと百パーセントなんだけどな。といふことは、まつたく稼働してゐない人もゐるつてことだよな。

いや、だから仕事があるのはありがたい話なんだつてば。

さう思つて新たな職場に臨むことにしたい。
きつとムリだけど。

きょうちゃっくんは(BlogPet)

きょうちゃっくんは、ろblogするつもりだった。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。

Thursday, 28 September 2006

すつかり出遅れた

来月のNHK語学講座のテキストのことである。
英語関連は問題なかつたのだが、ドイツ語のラジオ講座のテキストがない。
うーん、ほかの言語のはあるのになぜドイツ語だけ……。

そして、最近にはかに気になるアラビア語もなかつた。
実はやつがれ、はるか過去にアラビア語をちよこつとだけかぢつたことがある。
「あはらん」とか「いざいやっく」とか「いざいいっく」とか、やつた。
エジプトが「ある・まする」でカイロが「あるかーひら(いるかーひら)」とか、中東は「あっしゃうきるあうさっと」とか。
実は「タリバン」の語源と思はれる「生徒」の発音もうまかつた(自分で云ふのもなんだけど)。TはTなんだが、ちよつとのどの奥の方で発音するのである。「とぁーりぶ」つて感じ。女生徒なら「とぁーりば」、だつたらうか。

さびついた脳細胞(この場合は神経細胞か?)を活性化させるため、ちよつとはじめてみやうかなあ、と思つたら。

テキストがない(/_;)。

と、思つたら、アジアのミニ言語はトルコ語だといふ。
テキストも売られてゐて、最近ちよつと気になつてゐるオヤ(トルコ語でレースのことらしい)に関するコラムもある。
即購入。
でも見るかどうかは謎。

十月は下半期といふことで、新たに入門篇がはじまるからいい機会。
なんとかドイツ語のテキストを入手しなければ。

Wednesday, 27 September 2006

通勤時間は何時間ですか?

章仁さんが紹介されてゐた「日経WOMAN」を読む。
特集はタイムマネジメント。来年の手帳も出回つてゐるし、なかなかいい企画なんではないか。
ひとまづさらりと読み流して、ひつかかかることがあつた。
をかしいな、と思ひながら見開きの左右と喉の部分を見返してみる。

おどろいたことだつた。
タイムマネジメントの例に出てくる人のスケジュールをみると、通勤時間は長くても一時間、三十分や四十五分といふ人ばかりではないか。
Unglaubtlich! である。

別のweblogには「なるほど、自分が「負け組」の所以はここか」と書いたが。
「勝ち組」になるには、通勤時間は一時間以内でないとダメなのかもしれない。

ちなみにやつがれの朝は五時台にはじまる。五時半に目が覚めてはもう遅い。六時十分前には家を出る。職場に着くのは八時半。当然帰りも同じくらゐ時間がかかるから、寄り道はほとんどしない。まさに朝家を出て夜帰つてきて寝るだけの生活である。
現在の客先は金融系なので始業時間は八時四十分。余裕はまつたくない。

来月から通勤時間はすこし短縮されるはずなので、まちつと楽になるかなと思はないでもないが、しかし、一時間半は切れないよな、と思つてゐる。

なんかさー、もつと、現実的にならうや。
と思ひつつ、「日経WOMAN」なんぞを読んでバリバリ働く女性はみんな職住の近接したところに住んでゐるのかもしれないよなー。
そんな「日経WOMAN」の別冊、「日経EW」とやらが発売されたらしい。「Elegant & Executive Woman」の略だとのこと。そりや通勤に片道二時間もかかつてたらElegantになるのはムリだな。ムリムリ。

植木等が脳裡に浮かび、「お呼びでない」と云つてゐた。

Tuesday, 26 September 2006

若いつていいねえ

帰りのバスの中で、某大手電機会社の若人たちと乗り合はせた。
どうやら今年度の新人で、来月から実際に配属されるらしい。
たれはどこでオレはどこ、たれはたれと同じらしいとにぎやかだ。
また、おそらく新人研修のクラス分けの時の話だらう、EクラスとFクラスはどうだつた、とか、「オレは「親方」と最初に話をした。「親方」、気難しくてさ」みたやうな話をしてゐる。

彼らの話つぷりは、まるで自分たちが日本をまるごと背負つてゐるかのやうだ。いや、日本なんて小せえ小せえ。アジア、いや、世界は自分たちが制御してゐるのだとでも云ひたげだ。
確かに某大手電機会社にはそれくらゐの力があるかもしれないが、さて、きみたちはどうだい? 会社の名前がなければなにもできないんぢやないのかい? いや、会社の名前が重たくて、会社の名前があつたらますます手も足も出ないんぢやないのかい?

と、立つてゐるくせに座つてゐるやつがれによりかかつてくる力も元気もない若人に、聞こえぬとは知りつつも心のなかでつぶやくのだつた。

Monday, 25 September 2006

レアロと出勤

うれしさのあまり、レアロを職場に持つてゆく。

ちよろつと試し書きしてみたらあまりにも書き心地がいいので、意味もなくA4用紙を横にして手紙のまねごとなど書いてみる。
罫線のない無地の紙に思ひつくままに「拝啓 秋も深まる今日この頃皆様には益々ご清祥のこととお慶び申し上げます」などと書き出してみる。
手紙の書き方は就職活動をしてゐたころ本で学んだ。そのとほりにしか書けないが、形式としてはそれでいいと思ふ。

親しい仲ならまたちがふ。

レアロからはたつぷりインキが出てくる。字も大きくなりがちだ。昨日もかいたがやはり巻紙をぱらりと開いてさらさらと書き付けていくといつた用途に向いてるんぢやないかなあ。航空書簡などに大きな文字で安否を気遣ふ手紙を書くのもまた楽しいかも。

職場で使ふよりはやはり自宅で使ふやうだらうか。

さうは思ふが、ふとアイディアの煮詰まつた時にさらさらと字を書いてみるのもまた一興。

字を書くのが楽しくて仕方がない。
無論、ペン先を裏にして細い字を書くのもいい。

Sunday, 24 September 2006

casualからformalまで

Realo and a pen case

セーラーのレアロにインキを入れてみた。
以前も書いたとほり、セーラージェントルインクの青である。
書いてみると青といふよりはブルーブラックに近いやうな感じで、あはてて外箱やボトルを確認したけれど、どうやら青らしい。
書き心地は、たつぷりと墨をつけた筆でさらりと書いたらこんな感じか知らん、といつたところ。矢立てでも取り出して一句と洒落込みたい感じだ。いや、一句だと物足りないかもしれない。巻紙を前にして「一筆まゐらせ候」とかなんとか徒然なるままに親しい相手に手紙のひとつも書きたいやうな気分だ。
大きくてインキもかなり入る(らしい)のに、手にした時に軽い感じがするのもいい。

レアロには印伝のペンケースがついてくる。これがまたいい。まちつと大きくしてチェーンの持ち手なんぞつけたら女性のハンドバッグになりさうな趣である。

Pen Case of Realo

問題は、萬年筆を取り出す時にちよつと金具にぶつかりがちといふことだらうか。入れる時は気をつけるのでそんなことはないが、取り出す時にはもつと注意が必要かもしれない。

同時に三本の萬年筆にインキを補充してみた。
去年書斎館で購入したアウロラオプティマに、アウロラの青を入れた。この萬年筆に入れるインキについてはかなり悩んでゐた。紫がかつたインキを入れたかつたのだが、結局このインキに落ちついた。
緑色で一見重たさうだが、これまた手にすると驚くほど軽い。見てゐるだけでしあはせな萬年筆である。

他二本は普段使ひの萬年筆。どちらもラミーのサファリで、ペン先の太さがちがふ。
EFにはヤンセン・インクのシェークスピアを入れてゐる。茶色のインキで、職場では日常的に使つてゐる。コピーされた用紙に覚え書きを書き付けた感じがいいからだ。わづかにかたい書き味が鉛筆かシャープペンシルを思はせるところがあつて大変いい。ロディアの紫色の罫線にもよく合ふ。萬年筆なんだけれどもあまり意識せずに使つてゐるかも。

Mにはモンブランのボルドー。EFのかたさからは想像できないやうなやはらかい書き味である。太いのでボルドーの濃淡が楽しめて大変よい。これは主にアイディア出しの時メモをぐりぐり書くのに使つてゐる。
ペン先Mの萬年筆も増えて来たので、もつと罫線の太いノートを使つた方がいいかなあと思ふ時がある(罫線は細い方が好きなのだ。6mmとかね)。でも最近は無地とか方眼用紙のノートを使ふことが多いので、それでいいかなあといふ気もしてゐる。

レアロ……ほんたうにどう使はうかなあ。
と、悩みながらも時々取り出しては意味のないことを連ねてみたり。
あやしうこそものぐるほしけれ。

Saturday, 23 September 2006

Generation Stand-up Comedy

最近お笑ひ番組を見ることがある。
見てゐて気になることがある。
それは、「そのネタつて、ある一定の年代(とそれ以降)でないとわからないんぢやないの」といふものがあることだ。

たとへば、まんが・アニメーションネタである。
昨今の若手(と目されてゐる)芸人の中には、キン肉マンやドラゴンボールをくすぐりのやうに入れてくるものが多いのだ。

確かに、キン肉マンもドラゴンボールも一世を風靡し、今なほ絶大なるファン層を誇るまんがであるが(ドラゴンボールに至つては全世界の半分くらゐには伝播してゐるのではないかと思はれるが)、それでも、おそらくある一定の年代以上の人にはわからないものなんぢやないかな、と思ふのである。

ためしに職場のもうすぐ四十歳二児の父にそれとなく話をもちかけてみたが、彼はドラゴンボールのことはまつたくわからないと云つてゐた。一方で彼の同期の人間に餃子のフィギュアを見せてみたら「天さんはゐないの?」と逆に訊かれたこともある。
♯ちなみにこの餃子のフィギュア、実によくできてゐるのである。
♯まつこと愛い奴ぢや。

おそらく、ドラゴンボールに関しては四十代を境にわかる人とわからない人が大きくわかれるんぢやないかなあ。キン肉マンもそれくらゐだが、ドラゴンボールよりはまちつと上だらう。

しかし、かうしたネタを披露する芸人たちも人気があるらしい。
しかもTVで見るかぎり、観客はみな笑つてゐる。
客はその場の雰囲気で笑ふこともあるとは思ふが、だが、さういふネタを披露することが許されてゐるといふことは、「わかる人間の方が多い」または「(視聴者の)ほとんどはわかる人間である」とみなされてゐるからなのではないか、と思ふのだ。

んー、さうなのかなあ。

まあお笑ひといふのは差別的なもので、笑ひのわからない人を笑ふといふ面もあるかとは思ふので、そんなに気にすることはないのかもしれない。
でも、芝居噺なんかはあきらかに客席に来るやうな人間はみんな知つてゐるといふ前提で語られてゐたと思ふんだよな。今芝居噺がほとんどかからなくなつてゐるのは、客席に来る人間がみな知らないからだらう。
♯え、噺家自体の素養の欠如?
♯それを云つちやあおしめえよう。

もちろん、万人にわかるネタなんてないだらう。理由はわからなくても、モンティ・パイソンでマルクスがサッカー関連のクイズを出されて答へられずおろおろする姿を見て笑へるといふこともある。
♯マルクスは労働者の味方だからサッカーについて詳しくなければならないのである。

それとも人気がある中でもずば抜けてゐる芸人たちはさういふ「世代に頼つたネタ」は使はないのかな。

夕べ、伊集院光と太田光がこの上なく楽しげに「死神」の内容を披露してゐてうらやましくなり、なんとなくこんなことをあらためて考へてしまつた。ふたりとも、「好きなんだなあ」つて感じでとてもよかつたのだ。キン肉マンやドラゴンボールをネタにする人々も、自分が好きで仕方がなくて使つてしまふ、といふ感じだといいなあ。

ちなみにやつがれは圓生の「死神」で育つた。残念乍ら高座を見ることかなはなかつた。

Friday, 22 September 2006

青いインキ

結局、レアロ用にはセーラーのジェントルインクはブルーを選んだ。
黒にするか青にするか、また青にした場合ブルーブラックにするかブルーにするか、さんざん迷つた。

セーラーのインキにしたのも「黒・青・ブルーブラック」で悩んだのも、レアロは長く使ふ萬年筆だと思つたからである。
ほんたうは緑系の色にとても惹かれてゐたのだが……でも普通に使ひたいしな。

早速インキを入れやうかとも思つたが、なんだか心浮き立つてしまつていけない。
明日、落ちついてからゆつくりと入れたいと思ふ。

た、楽しみだなあ。

ここに雅亮とここまで雅亮で利用しなかった(BlogPet)

きょう、規制しないです。
雅亮は利用しなかった?
ここに雅亮とここまで雅亮で利用しなかった。


来年用を注文したといふことで、あらためてほぼ日手帳2006を眺めてみた。
はつき.



*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。

Thursday, 21 September 2006

不可逆といふこと

今TVでは「時を越えた戀愛」を扱つた映画のコマーシャルが流れてゐる。
「イルマーレ」つてな邦題だつたと思ふが、原題は「湖の岸」とかなんとか、そんなやうな題名だつたやうに思ふ。ちがつたかな。

もとい、戀愛映画はほとんど見ないが(そもそも映画自体をそんなに見ないが)、これは見てもいいかな、と時々思ふ。
「時間を越えた戀愛」つて切なくていいぢやあないか。決して会へないわけだもんな。宮部みゆきの「蒲生邸事件」はそんなに好きな本ぢやないけれど、なんとなく記憶に残るのはこのせゐだと思つてゐる。

時々、「死は平等に人間に訪れる」とか云ふことがある。
さうなのかも知れないけれど、ぢやあ生まれてすぐに死んでしまふ赤ちやんと百年間くわくしやくと生きて大往生を遂げた老人と、それが平等かと訊かれると、すぐに「うん」とはうなづけない。
多分、ここにあるのは「時間を元に戻せない」といふことで、そして、これはおそらくみな条件は同じなのだ。

過ぎ去つた時間は戻らない。

「記憶力がすぐれてゐるのはいいことだが、忘れ去ることの方が能力としては重要である」
といふやうなことをエマーソンが云つてゐる。
「ウォルデン」を書いたソローに比べてエマーソンは今ひとつ著名度が低い。少なくとも本邦ではさうなやうな気がする。超越主義といふことで考へるとエマーソンはソローの師、あるいは兄弟子、そんなやうな感じだと思ふ。
主義を実現しやうとしたソローの方が人気があるのは仕方がないとして、「主義は主義」としたエマーソン(結果としてさうなつただけだらうけどさ)の方が好きだな、と思つてしまふのはやつぱり天の邪鬼の所以だらうか。

ともかく、「忘却力」とでも云ふものが、生きて行く上でとても重要である、と、これはよくわかる。
いつまでも覚えてゐたら前に進めないといふことはないだらうか。やつがれは日々「ああ、あの時ああ云ひ返すのだつた」といふ後悔の思ひに苦しめられてゐる。忘れつちまへばいいのだよ。どうせ過ぎ去つた時間は元に戻らないのだし、適切なことばを云ひ返せないのはいつだつてかはらないのだから。

さう、過ぎ去つた時間は元に戻らなくて、だから復讐なんぞするのは無駄であり、だからこそ現行法では復讐を禁じてゐるのではないかと思ふ。ま、「際限がないから」といふ理由の方が大きいだらうがね。
先日、「目には目をといふ考へ方の方が現行法よりわかりやすい」とエントリに書いたが、だがこれもあまりにも時間がたつた場合、どうだらうといふ話もある。
たとへば、自分の子供を殺した相手が死刑に処されても、殺された子供は戻つては来ない。
おそらく、江戸の昔に「敵討ちをするまで帰つてくるな」なんぞといつたのは、さうしないと敵討ちを達成できないからである。最初のうちはいいが、そのうち段々つらくなる。「父の敵を討つたとて、父の返るわけでなし、だつたら家に帰ろぢやないか」そんな風に考へるやうになるからだ。敵討ちをさせるにはなにがしかの拘束力が必要なのにちがひない。

だからなんだ、といふのは特にない。
ここのところ過去に好きだつた人の訃報をよく耳にする。
過去に好きだつた人は、実は今でも好きだつたりする。
忘れてしまつてゐればな、と思ふのはこの時だ。
忘れてゐれば、「あの人、死んだんだつてね」つて云はれても、「え、それ、たれ?」くらゐで済むのだ。今更「どれほどその人が好きだつたか」とか「今でもこんなに好きなのに」とか考へなくていい。
どうして自分は忘れてゐないのだらう。忘却能力がこはれてゐるのか。
そんなはずはなけねども。

曽我部和恭氏、9/17食道癌で死去。享年58。

Wednesday, 20 September 2006

おとうさんスイッチ

自分のこどものころは、家でこどもの面倒を見るのはおかあさんだつた。
「おかあさんといつしよ」を考へてみればわかる。これは「おとうさんといつしよ」にはならない。ほんたうだつたら「おとうさんとおかあさんといつしよ」とかになるのかもしれないが、ならない。「はみがき上手かな」では「仕上げはおかあさん」なのだ。「仕上げはおとうさん」ではなかつた。
♯「はたらくおじさん」はいつしか歌詞が「はたらくおじさん」のリフレインだつたのが、
♯「はたらくおじさん はたらくおばさん」にかはつてゐたが……
♯まあそれはまた別の話。

小学生の時だつて、父兄席に父親がゐることはまづなかつた。「父兄」といふ名前にもかかはらずそこに座つてゐるのは母親ばかり。

それがいつからだらう。
「仕上げはおとうさん」もありうるやうになつたのは。
職場でも「明日はこどもの運動会なので」と休む「父」が増えてきた。
自分がこどものころは、たとへ我が子が入院しても出勤した父が多かつたやうに思ふ。少なくとも我が父はさうだつた。
♯といふことを以前自分の父親に云つたことがあつたが。
♯「盲腸で入院した日は休んだ」とか云つてゐた。
♯実はやつがれ幼稚園にあがる前に盲腸炎で手術・入院したことがある。
♯その日の朝のことは鮮明に覚えてゐる。
♯後にも先にも「水をだに飲めずあげた」のはあの時だけである。

「おとうさんとおかあさんといつしよ」が自然のことなのだ、といふ話もある。
子育てを母親まかせにしないで、父親もまた参加する。
これが本来あるべき姿。

だが、さうなのだらうか。
どうも見てゐると、父親が参加するのはなにかイヴェントごとがあつた時に限られるやうな気がする。
「仕上げはおとうさん」だつてさうだ。
普段からやつてなきやできないよ、といふ話もあるかもしれないが、「今回TVにうつるから」といふのでしやしやり出てきたといふことはないだらうか。
運動会・学芸会・入学式に卒業式、さういつたイヴェントごとに参加して、それで「子育てもやつてゐる」と勘違ひしてゐる父親はゐないだらうか。

まあ別にそれでもかまはないと思ふのだけれどね。

また、以前はとにかく働かないと生活していけなかつたといふ事情もあつたのだらうと思ふ。
きつと今職場にゐる人々は一日くらゐ休んでも生活していくのに支障のないやうな稼ぎがあるのだらう。職場も同様だ。以前は「家庭を大事にする社員を支援する」といふ考へ方がほとんどなかつたのだらうが、今はかはつてきてゐるのかもしれない。
♯しかしそれで少子化に歯止めがかからないといふのはまたおもしろい。
♯といふのもまた別の話。

「ピタゴラスイッチ」の「おとうさんスイッチ」は、「ああ、これができるお母さんはすくなからうなあ」としみじみしながら見てしまふ。
いい企画だと思ふ。

Tuesday, 19 September 2006

ノートへの回帰

昨今の職場ではインタネットの利用を規制してゐるところが多い。やつがれは長いことインタネットへの接続を禁じる職場で働いてきた。自社でみなが自由にWebサイトを閲覧してゐるころ、「ホームページ? なにそれ? おいしいの?」状態だつた。やつと閲覧できるやうになつた頃には、世は規制へとむかつてゐた。しくしく。

それはさておき。

かうなつてくると、メモをとる時はノートや手帳へ、といふことになつてくる。
といふか、やつがれはさうである。
今の職場ではweblogや掲示板への接続が禁じられてゐる。
実は規制担当のお偉いさんはそんなにインタネット事情に詳しくない。だからdel.icio.usとかはてなブックマークなどは使へるのでURLのメモなどはそちらでとつてゐるが、これもあまり使ひ過ぎると規制対象になつてしまふかもしれないのでしよつ中とわけにはいかない。
メモは携帯電話で取るといふ人も多いかと思ふが、しかし仕事中、特に目の前に他人がゐる会議中などにははばかられるだらう。やつがれの場合はTungsten|Cに打ち込むこともあるが、PDAもまた利用が規制されてゐるところが多いからなあ。
職場で利用してゐるPCに入力しても、それを持ち出すすべがない。USBメモリの利用も規制されてゐるからだ。

残された道は手書き。
結局さういふことになるのではないか。
といふか、やつがれは自然とさうなりつつあるのだが。

Monday, 18 September 2006

チケット入手

以前も書いたことだが。
心の底から「この芝居を見たい」「このコンサートに行きたい」と思ふ人間はなかなか思ふやうにチケットを入手することができない。
一番いい席に座つてゐる人は必ずしもその芝居が見たいそのコンサートに行きたいと思つてゐない場合がある。
コンサートの大半は「招待客」、芝居の大半は「団体客」でなんとか生き残つてゐる。

それがどうした、といふ話もあるかもしれないが。
しかし、苦労してあれこれ手を尽くして入手したS席が一階最後列から数へて三列目とかだと涙が出たりしないか。

まあほんたうに「見たい」「行きたい」と思つてゐる人はチケットが取れただけで満足なのかもしれないとは思ふ。

それにしても、かういふのつて世界的に共通なのかな。日本だけの特殊事情といふことはないだらうか。
……ない気がする。

Sunday, 17 September 2006

タイトルは必要か

weblogに移行する前の日誌なんぞをちよろつて読んでみた。

なぜかといふと、「時のない国その他の国」で検索をかけたら自分の日誌がひつかかつてきたからである。

そんなわけで読むとはなしに読んでみると、なんだか当時の方がのびのび書けてゐたやうな気がするのだ。
もうココログにうつつてきてからずいぶんたつので、その頃どう考へてゐたのかとかあまりよく覚えてゐないが、「みなのすなるweblogといふものを少し真似せんとてするなり」といつた感じで、自分なりにカテゴリ分けするやうになつたりとか、まあ工夫とも云へない工夫をしてゐたりする。

だが、当時はほとんど「タイトル」はつけてゐなかつた。
また、カテゴリー分けしない日誌みたやうなものもあつた。
今より自由度が高かつたといへる。

このエントリだつて、別に題名はつける必要はないし、カテゴリもなしで書いてしまへばいい。
しかしなんとなく題名とカテゴリをつけずにはゐられない。
どちらもあつた方が後に検索する時などに楽だとは思ふ。
でもなあ、なんとなく、なくてもいいんぢやないかとか、思つたりもする。

もう少し、なにも考へずに書きたい。
そんな気がする秋のゆふぐれ。

Saturday, 16 September 2006

昨日も帰りがけに職場近くの会社から出てくる人たちが、「もうすつかり秋の風だよね」「このまま涼しくなつちやふのかね」と話してゐるのを耳にした。

このまま秋になつてしまふのか。

考へてみたら九月は「秋」になるのだと思ふ。三月から五月が春、六月から八月が夏、九月から十一月が秋で、十二月から二月が冬。なんとなくそんなやうなわりふりになつてゐるやうに感じてきた。

しかしここ数年は九月は「夏」といふ印象が強い。「まだ泳げるよ」とか「まだ真夏日になるよ」とか。地球温暖化云々が関与してゐるのだらうが、でも九月はまだ暑いのはむかしからのやうな気もするしな。

秋になるのはうれしい。毛糸で編むのが楽しくなつてくる季節だ。冷静に考へてみたら、やつがれの住まひするあたりでは真冬だつて毛糸のセーターなんかいらなかつたりはするのだが、秋を迎へたばかりの編み人はそんなこと気にしない。もつといふと気にならないし忘れてゐる。

その一方で春夏に買ひ込んだ綿やその他の糸をはやく編んでしまはなければつつといふ焦りも生じる。

秋。
いい季節である。

Friday, 15 September 2006

来年の手帳

もうほぼ日手帳も注文したし、Tungsten|Cがあるし、これでもう来年の手帳はいらないよな。

といふところなのだが。
うーん、やはりTungsten|Cのバックアップ用に「超」整理手帳だらうか、とか、去年の今頃買はうかどうしやうか迷つてゐたLet'sにするか、それともここはフランクリンプランナに挑戦してみやうかとか、Quo VadisのVisoplanもいいよね、とか、なんとなくシステム手帳に戻つてみたいな、とか、いろいろあるのである。
でもまあ紙の手帳はあくまでもバックアップ。これまで「超」整理手帳でうまくいつてゐるので来年もそのままだらうなあといふのが正直なところ。

今年は三年手帳を新調することになる。
毎年毎年三年手帳watchingを続けてゐるが、どうも「これ」といつたものがない。
連年手帳で三年以上となると、A5前後のサイズが多い。でもそれだと持ち歩きしづらい。
掌中版で三年手帳を探すと一ページに二日分書き込むものがある。ただでさへ掌中版なのに一ページ二日はなあ……。
といふわけで、結局今年も同じ手帳を買つてゐる気がする。
きつと需要が少ないんだよな。仕方ないよな。

とか云ひつつ、手帳を見てまはるのは楽しい。
今後しばらくは文房具屋や書店に寄つてはあれこれ手にとつてしまふことだらう。

Art(BlogPet)

きょう雅亮で、英文もblogしたかったの♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。

Thursday, 14 September 2006

柴錬病

なにをかくさう肺を病んだやうな蒼白い顔の薄倖の佳人に弱い。
絵で云へば竹久夢二の描くやうな女。

最近、柴錬こと柴田錬三郎の小説を読んでゐて、はたと思ひ至つた。
柴錬の小説で主要な役割を演じる登場人物に、「肺病病みで顔色悪く幸薄い美女」が多いことに。

さうかー、ヲレ、こんなところまで柴錬に冒されてゐたか……。

ちなみに今読んでゐるのは「われら九人の戦鬼」。
むか〜し野田大元帥のすすめで文春文庫の上中下巻で読んだが、今は集英社文庫から上下巻で出てゐる。
主人公は眠狂四郎タイプで、その主人公を慕ふ女性が肺病を病んだ薄倖の佳人なのだつた。いいのだ、これが。

しかし、別に狂四郎みたやうな男が好きなわけぢやないんだよな。
ふしぎふしぎ。

Wednesday, 13 September 2006

ほぼ日手帳2007の使ひ道

来年用を注文したといふことで、あらためてほぼ日手帳2006を眺めてみた。

はつきり云つて「日記」。
それ以外のなにものでもない。

去年はそれでも日々のスケジュール欄は予定表として使つてゐた。今年はそれもすつかりやめてしまつた。今年のスケジュール欄は日々の行動記録を残すところ。何時何分に起床して何時何分に家を出て何時何分に職場について何時何分から何時何分までたれとどこで会議して何時何分に職場を出て何時何分に帰宅し何時何分に就寝したか。これを毎日毎日書いてゐる。
それによつてなにか意味があるのかといふと……うーん、最初は「隙間時間」を見つけるためにつけてゐたのだけれど、ほとんどないことに気がついてからは惰性でつけてゐるやうなものである。

もともと、三年手帳に書ききれない日々のあれこれをほぼ日手帳につけてゐたのだが、今はほぼ日手帳でも足りない。ほぼ日手帳からこぼれたものはMOLESKINEに書きつける。そんな状態だ。

今年はそれでもすこしだけ工夫をしてゐて、日誌をつけてからしばらく後、だいたい一週間以上たつてから日誌を読み返し、「やつてよかつたこと」や「うれしかつたこと」などpositiveなことを書いた部分に三色ペンで下線を引くやうにしてゐる。これが読み返す時に案外おもしろい。

さう、実はやつがれのほぼ日手帳は自分で読み返すとおもしろい。「自分エンターテインメント」といつた感じである。

だから来年も今のままの使ひ方でいいかなあ、と思つてゐるのだが。
うーん、なんかもつとほかにないかなあ。

と、考へてゐる時が一番楽しかつたりする。

Tuesday, 12 September 2006

ドライアイに気をつけて

つてなわけで、ドライアイかどうかのかんたんなテストを受けると、やつがれかなりヤバいくらゐドライアイらしいことになる。

でもなあ。ちがふと思ふんだよなあ。

確かにほぼ一日中モニタに向かつてああでもないかうでもないとやつてゐるし、睡眠不足は深刻だし、ドライアイでも全然をかしかないんだが。

でもまぶしいのがダメなのもめやにが出るのも涙が出るのも目がごろごろするのもかゆくなるのもこどものころからなのだ。
どうも自分でも気がつかぬうちにアレルギー性の結膜炎にかかつてゐることがあるらしい。

どれくらゐまぶしいのがダメかといふと、色素の薄い人が平気で外を歩いてゐる時にサングラスをかけないとつらいとか(Painted Desertなんかまはりのめりけんの人はみんな平気さうなのにやつがれひとりでサングラスをかけてゐた)、小学生のころなんぞは休み時間に外に出て昇降口の暗さとのギャップに目がついていかなかつたりしたほどである。
涙に関しては今朝もうこの秋一度目をやつてしまつた。冷たい風が目に入るともう涙がぼろぼろととまらないのである。冬のあひだなぞは毎朝泣き乍ら出勤することになつてしまふ。「そんなに出勤したくないか、ヲレ」と思ふことしきりだ。

汚い話で申し訳ないが、そんなわけでめやにもしよつ中出てゐて、気をつけてゐないともうたいへんつてな具合だし、かゆくなつたりごろごろしたりは日常茶飯事。おかげでコンタクトレンズも「(ハードレンズは)一日八時間以内にしてね」と医者に云はれてしまふほどである。
♯そんなわけでもうコンタクトレンズは使つてゐない。

かういふ目なのだから、きつとドライアイにはよけいに気をつけないといけないとは思ふのだが、さて、それでは今出てゐる症状のどのあたりまでが既存のものでどのあたりからがドライアイのせゐなのかといふのはよくわからない。

かういふ状態なので一時はよく目薬をさしてゐたが……最近は全然さしてゐない。
さした方がいいのかもしれないが、まあ気がつかなければ気がつかないままでゐられるしな。

Monday, 11 September 2006

Knitter's High

手芸用のweblogに書くつもりだつたけれど。
昨日、編み始めたくつ下が、どうにも自分好みなのである。

こちらで手編み靴下のコンテストが行はれることはすこい前から知つてゐた。
くつ下編みとしては参加したいのはやまやまなのだが、「オリジナリティー溢れる」くつ下なんぞ自分には編めまいと思ひ込んでゐた。

それが、昨日、「うーん、ちよつとこんなのを編んでみるかな」と編み始めてみたらこはいかに。

「さうだよ、こんなくつ下が編みたかつたんだよっっ」

つてな出来になつてるぢやあないか。

しかし。
実はこれ、「Knitting High」とか「Knitter's High」とかいふ状態なのではないかと思ふのだ。
編みはじめはそんなに気が乗らなくても、編みすすんでいくうちに気がつくとなんだかやめられない状態になつてゐるのである。とにかく「あと一段、いや、あと一模様」といふ状態に陥る。「おなかすいたけど……でもあと一段」とか思つてゐるうちに食べる機会を逃してしまふ。そんな感じ。

つまりあまりにも編むのが楽しくなりすぎて、それで自分の編んでゐるものに冷静な判断をできなくなつてゐるのではないかと思つたわけである。

今日あらためて見て、まあ昨日ほどは感銘を受けなかつたけれども、でもやつぱり「こんなくつ下、編みたかつたんだよね」といふ気持ちはかはらない。

うーん、ダメで元々、「参加することに意義がある」つてことで応募してみやうかなあ。

問題は応募作品は基本的に戻つてこないといふことだ。
まあ、頼めば戻つてくるだらうけどね。

それに、「オリジナリティーに溢れる」作品ではないことにかはりはないのだつた。

Sunday, 10 September 2006

女性専用車両

寒すぎてどうしやうもないといふ話はほんたうだらうか。

どうも見てゐると、女性専用車両といふのは先頭か最後尾かの車両であることが多い。
そして弱冷房車両は、たいていまん中のいづこかだ。

別に「女性専用車両を弱冷房車両にしろ」とは云はないけれど、なにかしやうがあるんではないかなあ。
まあ、関係ないんだけどね。ちよつと気になつた。
どちらもせつかく用意してゐるんだから、よりよい方向にむかつた方がいいんぢやないか、とか。

Saturday, 09 September 2006

ゴシックロリータ

数年前、通勤で乗り換へる駅からゴシックロリータいはゆる「ゴスロリ」風の出で立ちで乗り込んでくる女性がゐた。降りる駅は同じだつた。
いつたいあの格好でどこに行くのだらう。夏はどうなるのだらう。
さう思つてゐたら、夏は夏でそれなりに涼しげな格好になつてゐた。でもやつぱり「ゴスロリ」だつた。

今日、また電車の中でゴスロリの人を見た。この暑いのに「ゴスロリの正装」とでも呼びたいやうな服装だつた。

彼女はどこまで行くのだらう。

なぜか駅と電車の中以外ではゴスロリの人を見たことがない。

Friday, 08 September 2006

使ひ込めば使ひ込むほど

パイロットのCUSTOM 823を使つてゐる。ペン先はF。
去年の八月、今の職場に戻つた時に購入した。
購入した当初は、「うーん確かに書きやすいけど、でもこれといつて特徴がないなあ」といつた印象だつた。
本邦のメーカのFなので、極細といつてもいいやうな線が書ける。結果、三年手帳用に使ふことになつた。

いつだつたらう。
「うわっ、これ、すつごいやはらかい書き味っっ」
と思ふやうになつたのは。

とにかく使ひはじめは癖がなく、それがなんだかおもしろくなかつた。
そのはずだつた。
三年手帳用に使ふといふことは、ほぼ毎日なにかしらこの萬年筆で書くといふことになる。
ある時、なにかまつたく別の紙にちよこつと文字を書き付けた時のことだつたと思ふ。

とにかく書き味がいいのである。細いペン先がしなふかのやうなやはらかさ。紙に字を書きつけるときに手につたはつてくるなめらかな感触。
うーん、いいペンぢやん。

細字でインキもたくさん入るのでいくらでも書けるのもいいところ。
ただちよつと重たく感じるのがたまに傷かなあ。

使ひつづけたご褒美かもしれないな。

こどもの名前(BlogPet)

今日、自分などをBLOGすればよかった?
自分の名前に文句のないこどもといふのもさうさうゐないかとは思ふが
かく云ふやつ.


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。

Thursday, 07 September 2006

来年は粋な縞模様

さんざん悩んだのだが。
来年はフェイクファブリックのブルーブラックストライプにしてみた。

ほぼ日手帳の話である。

実は黒い皮のカヴァを狙つてゐた。
したところ今回はブルーブラックとある。
ブルーブラック。インキの色としては大好きな色である。
カヴァの方もモニタを通してみた感じもすばらしい。

その一方でナイロンカヴァも捨て難いのだつた。
去年はじめてほぼ日手帳を使つた時はナイロンカヴァだつた。
カヴァの上から「カバー・オン・カバー」をつけてそのあひだにタティングレースのモチーフをはさんで使つてゐた。
これがすこぶるよかつた。
ちよつとしたモチーフを作るのが楽しくて仕方がなかつた。
皮のカヴァにはこの楽しみがない。

結局、せつかくほぼ日ストアから注文するのだし、ここはLOFTでは買へないものを、といふことで粋な縞模様にした。
プリント柄はポリエステル素材なのでチト波打つてゐるといふ話もあるが。
まあ気に入らなかつたら今年使つてゐる最中のターコイズブルーの皮のカヴァをかけてもいいのだし。

さーて、これから筆記用具の選定に入らなければ。
……つてもうほぼ決めてゐるのだけれどね。

Wednesday, 06 September 2006

Art

技術。

辞書等では第一義は「芸術」となつてゐる場合が多いが、実際に英文を読んでゐると「芸術」では意味をなさない時が結構ある。

熟語でも「state of the art」といへば「最先端の」とかさういふやうな意味になる。

ところでやつがれの趣味は編物である。
「編物は芸術足りうる」といふやうなことを主張する人々もゐて、やつがれもそれはいいことだと思ふ。
でもなんていふんだらう、技術の追究とかね、「芸術家」といふより「職人」といふかね、さういふのがあつてもいいのではないかと思ふのだ。

今まではどちからといふと「技術」とか「職人性」に偏りがちだつたからよけいに「芸術性」が求められるのかもしれないが。

ま、そんなこと云へるほど、編めるわけではないのだが。

Tuesday, 05 September 2006

いつもとちがふ道

今の職場は三つほどの駅に囲まれてゐる。
いづれからもそこそこはなれてゐる。
いつもは我が家から一番通ひやすくまた職場から一番近い駅を利用してゐるのだが。
今日はちよつとほかの駅まで歩いてみた。

以前も何度か歩いたことのある道なので、今日は今まで通つたことのない道を選んでみた。

それといふのも、最近すつかり頭の中がまつたりしてゐるからである。
たまに通勤経路をかへるといいとは前々から聞いてゐたので、試してみたわけだ。

しかし。

確かに、いろいろ新しい発見はある。
たとへば学校があつて垂れ幕がさがつてゐて、どうやらとある運動部がふたつほど全国大会に出るらしいとか(すばらしいことである。でも駅に垂れ幕がさがつてないのつてどういふことだらう)。
なんだかわかんないけど立派なお寺みたやうなのがあつたりとか。
歴史的著名人の生まれた地といふ碑が立つてゐたりとか。
やつぱり今日も街の手芸屋はもう店じまひした後だ、とか。

だがなあ。
なんだか刺激になつてないみたやうなんだよなあ。

それよりも帰り電車の中が空いてゐたのをいいことにずつとくつ下を編み続けてゐたことの方がよほど刺激的だつたやうだ。なんだかとつても有意義な時間を過ごしたやうな気がするし、電車から降りる時には大変満ち足りた気分だつたりした。なんだか頭の中もすつきりクリアになつたやうな気がする。

……ま、人それぞれ、といふことだらうか。

Monday, 04 September 2006

ナイター中継のない夜

今年に入つてからさういふ夜が増えてゐる。特に土日に多いやうに思ふ。
それではプロ野球のナイトゲームが行はれてゐないのとかといふとさにあらず。
ラジオ中継はあつたりするらしい。

どうしてかうなつてしまつたのかのう。

個人的な話をすれば、やつがれ自身はながいこと地元のチームを応援してゐる。したがつて、地元の局をかければホームグラウンドの試合についてはほぼ毎試合テレビ観戦することも可能だ。

讀賣を応援してゐる人はどうしてゐるのだらう。
地元局といつてTV東京で野球の中継をしてゐるといふ話はきかない。

その昔、「負けてゐる時こそ応援するのがファンである」といふ歌があつた。
ずつと弱いチームを応援してきたから、その気持ちはよくわかる。

まあいいけどね、ナイター中継がなければ放映の延長もないわけで、録画が容易になるといふ話もあることだし。

Sunday, 03 September 2006

音羽のうはさ

驚いたことである。
♯でもないか。

「アルキメデスは手を汚さない」が講談社文庫で復刊されるといふ。
♯最近の日本語では
♯「「アルキメデスは手を汚さない」が復刊するといふ」
♯と書くらしい。

小峰元の江戸川乱歩賞作品である。
なんだらうと思つたが、東野圭吾が一役かつてゐるのだらうか。
さういへば東野圭吾の乱歩賞作品も高校が舞台だつたか。
ふむん。

講談社からはほかに、京極夏彦の新刊が出るらしいし(……果たして前のことを覚えてゐるだらうか、やつがれは)、「ウロボロス」シリーズの最終作も出るらしい。

「読書の秋」かの。

Saturday, 02 September 2006

こどもの名前

自分の名前に文句のないこどもといふのもさうさうゐないかとは思ふが。
かく云ふやつがれ自身も特にこどものころは親に改名をせまること一度ならずといつた状況だつた。
幼稚園などで名前についてからかはれたりいぢめられたり(とはいつても精々上級生から「名前が変だから鉄棒使はしてやんない」つて云はれたくらゐだけど。でも当時はものすごくショックだつた)したからだ。

だからごくごく幼いころをのぞいて名前で呼ばれることはなかつた。今となつてはやつがれを名前で呼ぶのは親兄弟・親戚などほんの一部に限られる。

しかし、昨今のこどもの名前を見るに、「……ヲレの名前はましな部類なのかもしれない」とつくづく思ふことがある。
いや、まあ世の中の風潮として「かういふ名前が一般的である」といふことなのかもしれないが、でもなあ……

さういへば高校の時に名前がカタカナの教師がゐて、「姉が「これからの国際化時代、名前はカタカナに限る」といふやうなことを主張したから」と云つてゐた。まあ一理あるけどちよつと時代を先取りし過ぎたといふか……ちなみに「北斗の拳」に同じ名前の女性が登場する、と書くと「ああ、あれか」とわかる向きもあらうか。

これまたさういへば、はじめてリバー・フェニックスといふ名前を耳にした時、「また随分かはつた名前をつける親もゐたものだ」と思つたものだつた。フェニックス家のご両親がさうだつたのかどうかは知らねども、いはゆる「LOVE & PEACE」世代には伝統的ではないかういふ名前をこどもにつけることが多かつたといふ。

長じるにつれ、名前で悩んでゐるのは自分だけぢやないし、自分よりもつとかはいさうな目にあつてゐる人もゐるんだなあ、と思ふやうになつた。

さういへば伊達政宗の娘の名前は五郎八だつたか……。

Friday, 01 September 2006

だから危険な裁判制度

昨日、「遠山の金さんだつたらこんなの市中引き廻しの上打ち首獄門なのに」といふやうなことを書いた。

多分、この意見に同意してくれる人は多いと思ふ。
そして、だから、一般の人間が裁判に参加するのは危険なのである。

たとへば、幼児虐待の話などを耳にすると、かういふことを云ふ人がゐる。
「虐待した輩も同じ目にあはせてやればいいんだ」
すなはち、幼児を熱湯につけたのなら犯人も熱湯に入るといふ罰を与へよ、幼児にひだるい思ひをさせたのなら犯人にも同じ罰を与へよ。

さういふことである。

古くは罰則といふのはさういふものだつたのだらう。
ハンムラビ法典をひくまでもなく、「目には目を歯には歯を」だ。「目には目と歯を」ではない点に要注意だつたりはするが、もとい、現行法はかうした罰則を基本的に禁じてゐる。
現行法は報復も禁じてゐる。

けれども、これはやつがれの推測でしかないが、人情として一番わかりやすいのはこの「目には目を」なのだらうと思ふのだ。

裁判官は、このあたりの教育をちやんと受けてゐるのだらうし、「目には目を」なんぞといふ考へにふりまはされないやう訓練されてゐるのだらう。

一般の人々はさうではない。
すくなくともやつがれとそしてやつがれの知る何人かのおとなはさうではない。

さうした人が裁判所に赴いて、判決の一助となるやうな行動をとつてもいいものか。

憂へてしまふ秋のゆふぐれ。

たまには名せりふ(BlogPet)

今日、雅亮が
最近ニュースを見てゐると、「こんなの、遠山の金さんだつたら気がつく引き廻しの上打ち首.
とか書いてた?

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ちゃっくん」が書きました。

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