不器用ですから
「自分は不器用ですから」といへば高倉健かもしれないが。
しかし高倉健は器用だらう。器用でなければ俳優なんてやつてられないだらう。
「自分は不器用ですから」。
それはやつがれのためにあることばである。
今でこそ手芸を嗜むやうになつてゐるが、だからといつて器用だとは限らないといふことをまさに体現してゐるのがやつがれである。
たとへば学校の成績だつて図画工作・美術・家庭科・技術系はすべて「努力点」だつた。
……つてこれはどこかで書いたな。
図工では版画の時に「身の程に応じた図案を考へろ」と教師に云はれたほどである。
たまにはじめての手芸なんぞをやつてみると一目瞭然。まはりの人々は(大抵は指先の器用な人々ばかりだから)はじめてとは思へぬくらゐすばらしいものを作つてゐるのに、やつがれのはどうだらう。今時小学生だつてもつとまともなものを作るよつてな出来である。
不器用であるといふことは悲しい。
家庭科の授業など、運針は針目がそろつてゐてまつすぐであることが要求される。要求されるといふよりはそれが「あたりまへである」と思はれてゐる。
それができないと、「なぜできないのか」と責められる。できないんだからできないんぢやつつ、と開き直れる人はいいが、さうでないと「なんで自分はダメなんだらう……ほかの人はみんなできてるのに」と落ち込むことになる。
国語・数学等の教科とちがひ、技術系の教科は出来不出来が一目瞭然だし、絵なんぞは教室にはり出されたりする。授業参観なんぞあらうものなら親にまで知られてしまふのである。体育も同様で、逆上がりなどは鉄棒の前に順番に並ばされ、ほかのこどもが見てゐる前で「ヲレはできない」といふことをさらさなければならないし、足の遅い子は運動会の時にその事実が衆目にさらされる。
できないこどもの心に負ふ傷は如何ばかりか。
結局、やつがれは授業でやるやうな手芸はなにひとつとしてできない。やらうといふ気にもならない。
「自分は不器用ですから」。
このことばを云ひ訳に使へるやうにしてくれた高倉健には感謝してゐる。
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