「悠揚迫らぬ」がわからない
昨日の讀賣新聞書籍欄に、深町眞理子がこんなことを書いてゐた。
「翻訳してゐる時に巨大な戦艦を形容することばを「悠揚迫らぬ」と訳したら、編集サイドから「それでは読者が理解できないので「堂々として巨大」に置き換へろ」と云つてきた」
と。
正確な語句はおぼえてゐないが、こんなやうな内容だつた。
怒つた深町眞理子はこの形容そのものを削除して提出しなほした、といふ。
「こんなことばかりしてゐたら日本語が痩せてしまふ」と憂慮し乍らも。
きもちはとてもよくわかる。
よくわかるが、翻訳家としてはこれではダメなのかなあ、とも思ふ。たれであつたか失念したが、ある翻訳家がこんなことを書いてゐた。
「大先輩にあたるとある翻訳家が、「一冊のうちひとつは最近は使はれなくなつた古いことばを訳の中に混ぜてゐる。忘れられないやうにね」と云つてゐた。大先輩にむかつてどうかとは思ふが、この態度は翻訳家としていかがなものか。翻訳家は「原文のとほりに訳す」「読者にわかりやすいやうに訳す」のが職務である」云々。
たとへば、文芸書ならいざ知らず、専門的な文書を訳す場合、ヘンな日本語がそのまままかりとほるのが翻訳らしい。経済・金融分野の文書を訳すならその分野において日本語で書かれる文書と同じやうに訳す。その他の分野でも同様である。さうでないと読む人(大抵はその分野に精通した人)にわからないからだ、といふのだ。
深町眞理子の訳したものはおそらく文芸書なのだらう。なので、訳者が原文から「このことばは「悠揚迫らぬ」しかあり得ない」と思つたらさう抗弁すればよかつたのかも知れない。
あるいは翻訳でなかつたら、問題はなかつたのだらうが。
しかし、ほんたうに編集サイドの人が云つたやうに「悠揚迫らぬ」ではわからないのだらうか。ひよつとして若年層を狙つた作品だつたのだらうか。
♯わからなかつたら辞書を引けばいいのに。
♯今なら携帯電話ですぐ引けるだらう。
そつちの方が不安だつたりはするのだつた。
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