足下見られてる
マーラーの交響曲第六番が好きである。
なぜといつてオチがあるからだ。
落語はもちろんケン・ラッセルの映画が好きなのもオチがあるから。
最後にすとんと落ちる感覚、あるいはびつくりさせられる感覚がたまらなくよい。
はじめてマーラーの六番を聞いた場所はとある図書館だつた。レコードやCDを貸し出してくれるものの建物の外には持ち出せない。専用のブースでヘッドフォンをして聞くことになる。
さう、おわかりだと思ふが、最後の最後、ヴォリュームをかなり大きくしてゐたやつがれは、心底驚いてしまつたのである。
だつてはじめて聞いたんだもの。こんなオチがあるなんて、たれも教へちやくれなかつた。
六番は、鞭を使つたりカウベルを使つたりと道具(instrumentsといふことでひとつ)も多彩だ。しかも長大でもある。何度か演奏会で聞いたことがあるが、大抵この一曲しか演奏されない。普通演奏会といふとメインの曲のほかに小品をふたつばかり演奏するものなのだが、ことマーラーの六番に関してはこの曲だけで演奏会がなりたつてしまふ。
ああ、行きたい。六番を聞きに行きたい。
だといふのに、あの価格設定はなんであらうか。
あの、といふのはルツェルン・フェスティヴァル・イン・東京 2006である。
ルツェルン祝祭管弦楽団演奏でアッバード指揮によるマーラーの六番がこの秋サントリーホールであるのだが、そのチケットのお値段といつたらっっっ。
ここに打つのもおそろしいが、まづプラチナ券が諭吉四人に一葉一人。S席は諭吉四人。一番下のD席でも諭吉と一葉と英世が一人ずつといふ、脅威の価格である。
え、それくらゐするのがあたりまへだつて?
ちがふ。
これをあたりまへととらへる人々がいけないのだ。
「ふ、ふん、いいもん、アッバードはそんなに好きぢやないもん」などと嘯いてはみても、それはまるで「あの葡萄はすつぱいのさ」と吐き捨てる狐のやうなもの。
好きな曲なんだもの、いい状態いい場所で聞きたいのが人情だと思ふ。
…………うーん、今後この演奏会のために働くか?
それしかないか。
あるいはあきらめるか……。
そもそも一番いい席に座るのは愛のない人ばかりといふのがコンサートや演劇の常だしね。愛もないから本人の懐もいたんでゐない。
この仕組みはとつてもまちがつてるしをかしいと思ふのだが、しかし、実際芸術に貢献し支へてゐるのはさういふ人々なのだから仕方がない。
かうして自分の大好きな曲の演奏会だといふのに「諭吉が……」とか云つてゐるやうな人間にはいつまでたつてもいい席なんかまはつてこないのである。
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