仕事ができることほどイヤなことはない
たとへば仕事のできる人はできない人をくさして曰く。
「あいつは三十いくつにもなつてまだ自分がこの仕事に向かないといふことを理解してゐないのかね」
「あいつのせゐでどれだけ被害を受けてると思ふ?」
「まつたく仕事ができない輩はこまる」
さう宣ふ「仕事のできる人」は、それでは如何ほどの人物だといふのか。
「仕事のできる人」は他人に迷惑をかけないのか。
「仕事のできる人」は他人の仕事の邪魔にならないのか。
「仕事のできる人」はそれゆゑにこまつた存在にならないのか。
そんなことはない。
仕事のできる人は自分は仕事ができるといふ自負ゆゑに、周囲の迷惑になることが往々にしてある。そしてどうやらそのことを理解してゐないやうにも見える。
やつがれ自身は仕事のできない人間なので、できる人間のことはよくはわからないからはつきりとは云へないが、しかし、彼らは一様に「自分がゐるから仕事はまはつてゐる(そしてこの認識は大抵の場合正しい)」と思つてゐて、「仕事がうまくいかないのは自分のせゐではなくて一緒に働いてゐる仕事のできない人間のせゐだ(これはあるていどは正しいかもしれないが、もちろんまちがつてゐる)」と思つてゐる。
仕事のできない人間は、仕事のできる人間をくさしたりしない。たとへ相手に職場の全員に聞こえるやうな聲で「おまえはほんとに仕事ができないなあ」とけなされても(そしてそれがほんたうのことだとしても)、その相手に抗弁するやうなことはない。
ああ、仕事ができるつて、人間としてなんてヤなことなんだらう。
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