空海は筆を選ぶか
「理系のための英語ライティング上達法」を読んでゐる。とてもおもしろく、一緒に働くすべての人に読んで実践してもらひたいほどだ。もうお勧め三重丸である。
別段英語を書くためではなく、読みやすいビジネス文書を書くにはどうすればいいのか、といふ視点で読んでゐる。
ついでに最近はじめた三色ボールペンの活用にも使つてゐる。赤く印を付けたいところが多いが、ま、そこはそれ。
そんな中で、緑色で印をつけたところがある。
「弘法は筆を選ぶのである」といふ一文がそれだ。
内容としては、辞書は常に新しいものを手元におくべきだ。改版するたびに買ひかへるくらゐでいい、といふもので、いはく「辞書は道具」なのださう。常によい道具を揃へておけ、といふことだ。
その一文のしめくくりが「弘法は筆を選ぶのである」だつた。
印をつけたのは、違和感を感じたからである。
なんでだらうと考へて、やつと、「自分は弘法大師に匹敵するほどの人物である」と思つてゐないと書けない文だからではないかと思ふやうになつた。
弘法大師空海は実際はどうだつたか知らないけど、書の大家である。「応天門」の「応」の字の一点を書き忘れたことで「弘法も筆の誤り」といふが、その時空海少しもあはてず、墨を浸した筆をえいやと投げて見事書き忘れた点をつけ足した、といふ伝説がある。
♯まあ弘法大師にまつはる伝説には枚挙に暇がないほどなのだが。
♯それはさておき。
それほどの人物だからこそ、筆なんぞ選ばなくてもいい。
野球で行くと他人のバット(末次? 淡口?)で本塁打を打つてしまふ長嶋茂雄みたやうなものかもしれない。
あるいはよく引き合ひに出される中島敦の「名人伝」、弓矢を極めた名人はたうたう最後弓矢を見てもそれがなんだかわからないといふ境地に至る。
まあ「名人伝」は極端だが、えうするに書の世界では弘法大師、野球の世界では長嶋茂雄(?)の域に達したものでなければ、「道具を選ばず」にはゐられない、むしろ、道具は選ばないといけないのである。
と、まあ、凡愚のやつがれなんぞはさう思ふのだが如何に。
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