身の程を知れ
グレタ・ガルボにもいたく惹かれるが。
今やつがれの心をとらへてはなさないのは螺鈿遊旭遊月である。
ペリカンらしい縦縞の螺鈿がほどこされた「旭光」と「月光」。「旭光」が「日光」なら真ん中に薬師如来をおいて完璧っっ、みたやうな名前である。
これがどこの写真を見ても実にうつくしい。思はずため息をついてしまふくらゐである。
どちらも二百本しか生産しない。しかもお値段もそれなりである(でも、あれだけの細工物といふことを考へると実に安いやうな気もする)。
人気もあるらしいし、高嶺の花、とあきらめてゐたが。
今日ふらりと立ち寄つた文房具店にあるではないか、旭光が。
月光はなかつたが、実物のはなつ光に思はず見とれることしばし。
M800がペースになつてゐるといふことで、ちんまりしたやつがれの手にはチト大きすぎるかもしれないが、嗚呼、本物が今目の前に。
あまりの魅力にくらつとこなかつたといつたらウソになる。
気を落ち着けやうと、やつがれは洗面所にむかつた。
そこの鏡にうつつたおのが姿を見た途端、すつと熱が落ちた。
目の前にあらはれた自分はあまりにもみすぼらしかつた。
旭光などとんでもないっ。分を弁へろ、ヲレっっっ。
結局。
その後も未練たらしく何度も旭光を眺めたが、手に取ることはなかつた。
だつてやつがれにはふさはしくないもの。
いや、やつがれが旭光にふさはしくない、が正しい。
以前ここにも書いたやうに思ふが。
明治大正だか江戸のころだか失念したが、とある大店のお嬢さんが貧しい人々を見てあはれをもよほし、「さうだ、あの人たちに反物をやらう」と思つたのださうである。
そんなお嬢さんに番頭が意見した。
「そんなことしたら反物がかはいさうですし、そもそもあの者たちが道を誤ります」
さう云つてお嬢さんをとめたのださうである。
まあなんだか作り話めいてゐるが、この「反物がかはいさう」といふのと「道を誤る」といふことばがどうしても忘れられない。
反物は、おそらくそれ相応の人の手元に行くやうに作られたものなのだらう。
それは多分あの旭光も同じこと。
そして、人間、分際を弁へないと道を誤るのにちがひない。
悔しいが、今のやつがれがあの旭光を手にしたら、旭光がかはいさうだし、やつがれは道を誤る。
負け惜しみ。さう。わかつてゐる。
だけど買へなかつたのは事実。
なんぞと云ひながらあれが月光だつたら一も二もなく手に取つてゐたかもしれないといふ、これまた本音。
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