読書を忘れたかなりやは
裏のお山に捨てられてはたまらないので。
といふか、そもそもかなりやではないし、かなりやは本を読んだりしないのだが。
ここのところ、Treo 650 でずつと読書をしてゐる、といふ話は sotto voce に書いた。
読む読まぬにかかはらず、やつがれの Palm 機には必ず「薮の中」と「悟浄歎異」「悟浄出世」が入つてゐて、時々思ひだしたやうに読む。
今回はこれに「李陵」とか「山月記」とか「名人伝」とか、いはゆる中島敦の作品を中心に読んでゐたのだが。
なんとなく調子が戻つてきたのでここはひとつ書籍を手にしてみやうと思ひたつた。
池波正太郎とどちらにするかさんざん迷つたのだが。
結局手にしたのは柴田錬三郎だつた。
柴錬。
森茉莉の著作などでは「牙田剣三郎」などと書かれてゐて、「牙剣つてのはやうすがいいなあ」と思つた、なんぞといふこともかつて書いた。
これまた以前も書いたことだけれども、柴錬にはほんたうに影響を受けてゐた時期があつて(といふよりは今でも受けてゐるのだらうとは思ふが)、「地べたから物申す」なんか読み返すと面映くてどうしやうもなかつたりするのだが、今回は小説だ。だから大丈夫だらうと思つてゐた。しかも何度も読み返してる話でもあることだし。
だが、一読「うわっっ」と思ふことが多くて、なあ……。
真面目な話を文章にする時に異様に句読点が多い、とか。
同様の場合に一行の文章が短い、とか。
なんだか思ひあたることが多くて、心中「ひやつ」とか意味不明の叫び聲をあげること一度ならず。
うーむー。
しかし、柴錬なんぞを読むと昨今の中国史を題材にした小説を読む気が失せる。
理由は文体にある。
昨今のさうした小説の文体には「中国つぽさ」がかけらも感じられないからだ。いはゆる「漢文読み下し文」的な感じがない。漢文読み下し文といふのは、大抵は大変リスムがよく、読んでゐて快感さへ覚えることが少なくないのだが、さうした快感を与へてくれないのだ。
だが、きつと今はさういふ擬古文調といふか「漢文読み下し文」的文体ではエンタテインメントとして成立しないんだらうなあ、といふ気もする。
そんなことを考へつつ、内心のけぞりながらも柴錬を読んでゐる。
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