後ろ向き讃歌
フィルムにポジとネガのあるやうに。
前向きな人間もゐれば後ろ向きな人間もゐる。
前向きな人間だつて時に後ろ向きに考へることもあらう。 And vice versa.
それともかういふ考へ方はデジタルカメラの普及とともに失はれつつあるのだらうか。
デジタルカメラで撮つた写真にはポジもネガもあるわけではない。
かくしてネガは消へゆくのみ。
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フィルムにポジとネガのあるやうに。
前向きな人間もゐれば後ろ向きな人間もゐる。
前向きな人間だつて時に後ろ向きに考へることもあらう。 And vice versa.
それともかういふ考へ方はデジタルカメラの普及とともに失はれつつあるのだらうか。
デジタルカメラで撮つた写真にはポジもネガもあるわけではない。
かくしてネガは消へゆくのみ。
何度も日誌に書いてゐるのでくどいかと思ふが、しかしなんとなく思ひ出しては書いてしまふ。
幼い頃、我が家に「牛若丸と弁慶」といふ本があつた。
小学校二三年くらゐを読者に想定した本だつたと思ふ。
表紙はちやんと牛若丸と弁慶の描かれた本だつた。
ところが内容がなあ……
ひとまづ五条大橋の話が終はると、次からは牛若丸も弁慶も出てこないのだつた。
別段牛若丸が源義経になりました、といふわけでもない。
なんだかわからないけれども、いけずきとするすみといふ馬とそれぞれに乗つた武士(佐々木高綱と梶原景季)が先陣を争ふ話とか。
木曾義仲と倶梨伽羅峠の牛の話とか。
やつと義経が出てきたと思つたら鵯越のさかおとしの話だつたりとか。
熊谷次郎と平敦盛の話とか。
またまた義経と弁慶で安宅関の話とか。
いきなり「しづやしづしづのおだまき繰り返し」とか。
しかしまあここまでは源平合戦の話、といつてもまだいいかと思ふ。
この次からがまたすごいんだ。
北条時頼と佐野常世の三つの鉢の話がでてきてしまふのである。
次が日蓮の短い伝記みたやうな話。
最後は元寇の話で〆。
こんなのが幼稚園くらゐのころの愛読書だつた。
その他別に「源義経」の伝記絵本や子供向け伝記もあつたし、子供向けの「平家物語」を読んだりもした。
多分、斎藤別当実盛の話なんかはこの「平家物語」で読んだやうな気がする。
そのまま「源平ヲタク」の道を歩んでゐたら今のやつがれはなかつたかもしれない。
もともとそれほど本好きといふわけでもなかつたのがよかつたのか、さうはならずに済んだ。
だが、小さい頃の記憶といふのはおそろしいものである。
大きくなつて芝居を見に行くやうになつて、突然思ひ出すのである。
「これ、昔好きだつた話だっっ」
「この人、知つてるっっ」
なんだかわからないが、くりかへしくりかへし読み直した話が次から次へと出てくるではないか。
みづから幽霊と名乗るこの人は、「見るべきほどのことは見つ」と云つて潔く自害した人。
首実検の場で自身の子供を犠牲にするこの人は、宇治川の合戦の先陣争ひに出てきたあの人。
後の手孕村にやつてくるこの人は白髪をわざわざ黒く染めてゐたあの人。
鬼界が島に一人残るのは後に有王丸が迎へにやつてくる人。
みんなみんな、知つてる人だ。
んでちよいとばかり「平家蟹」の玉蟲を気取つてみたりするのだつた。
またちまちましたものを作つてしまつた。
ドミノ編みのモチーフである。使用糸は Jaeger の MATCHMAKER Merino 4Ply の 0722、使用針は〇号。
下にあるのは 2m のメジャ。モチーフの一辺は約 2.5 cm。
うーん、確かにあみものとタティングレースが好きではある。
それに「ちま」も好きだ。
だが、基本的に大ざつぱな性格である。タティングレースだと最近は絹穴糸かオリムパスの40番相当の糸より細い糸はほとんど使つたことがない。編み物だつて主に使ふのは並太毛糸で、針でいふと四号から七号くらゐが一番多い。
そらーくつ下編む時は〇号や一号を使ふこともあるが。
さうだつたのか、「ちま」が好きか。
といふわけで、これはリストウォーマ用のスウォッチ。
ここまでできてゐる。
それと、かぎ針編みだが今一つ「ちま」な野望を抱いてゐる。
と、ここに書いておけば忘れないだらう。
多分。
一時は歌舞伎座を建て直し落成にあはせて襲名披露公演を、なんてな話もあつた。
うーん、ちやんと席を確保できるかなあ。心配。
中村屋はいい役者である。
いい役者なんだが、時々はぢけ過ぎてしまつていけない。
こちらがついていけなくなつてしまふのである。
まあそれはやつがれだけの問題かもしれない。周囲のお客さまはみなもりあがつてゐるからだ。
だが、観客なんぞといふのはね、ただ転ぶだけで笑ふものなのだよ。
そんなんでいい気になつてほしくない。
僭越かもしれないがさう思ふ。
なんで中村屋のことを「いい役者」といふかといふと、中村屋の口から出てくることばをとてもなつかしいもののやうに感じるからだ。
あれは子供のころ、まはりの人々が喋つてゐたことばだ。
まつたくそのとほりではないかもしれないし、ただの勘違ひかもしれない。
しかし上野駅にそを聞きに行つた人々のやうに、やつがれは中村屋を見に行くのである。
ところで中村屋つて時々エリック・アイドルに似てゐる時がありませんか?
ないか……。
かまわぬの「超」整理手帳カヴァがやつてきた。
正直なところ、「ちよつとかさばるかなあ」といつたところ。
そのわりにシートをさしこめる部分はきちきちにできてゐるので、さしこむ時に注意が必要である。
下手をするとぐにやりとシートが折れ曲がつてしまふ。
とはいふものの。
やはり、手ぬぐひだけあつて手触りがいい。
また芯がしつかりしてゐるので、カンガルーポケットがなくても文字を書くのに困ることはない。
これまでより中身が少し薄くなるやうに気をつければいいかな。
まあとりあへずこのままでしばらく使つてみるつもり。
さんざ文句を云つてゐるわりには「まねきがあがつた」と聞くとわくわくしてしまふ。
確か南座は入山型だつたよな。
これだから足元みられちやふんだよなあ。
朝、比較的すいてゐる電車に乗れることがある。
下車駅までの所要時間は公式発表で八分とあるが、実際は乗車駅で少し待ち合はせ時間があつたりするので十分ていどは乗つてゐることになるか。
そんな短時間なんだからよせばいいのに、座れるとついあみものをしてしまふやつがれである。
今日は昨日編み始めた Regia のくつ下を編んでゐた。
ところがっっ。
糸が絡んでゐるぢやあないか……。
毛糸だまから糸を引き出してゐるだけなのに、である。
最初は糸端が妙に絡んでしまつたのかと思つてゐたが、どうやらそれだけではなささうである。
ほどかなければ先に進まない。
昼休みの楽しみがなくなつてしまふ。
……うーむ。
といふわけで撮つてみたのがこの写真である。月曜日に新調した CASIO Exilim をたまたま持つてゐたので、職場の机の上で撮影。
Regia つてかういふ毛糸だまが多かつたりするのだらうか。
くつ下編みをやめられない。
先日、Broadripple Socks を仕上げて後、くつ下編みからはなれてゐた。
編む速度はそんなに速くはないが、これまでは常になにがしか編みかけのくつ下をかかえてゐた。
それを「ミトンを編むから」といふのでやめてゐたのである。
ミトンは例の _Magnificent Mittens_ の中からパターンを選んでやつと最初の片方の親指部分にさしかかつたところ。
以前から書いてゐるが、編み込み模様がとにかく苦手なので、四苦八苦してゐる。すでに二度ほど編みなほしてゐるのだが、どうにもねえ。
さらに、編み込み模様といふことは毛糸だまを何個か同時に使ふといふわけで、持ち運びに向いてゐるとはちよつと云ひ難い。もちろん編みこむ糸を小分けにするなどの工夫をする方法もあるが、しかしだね、そもそも編み込み模様が苦手なのに、出先で編めるか、といふ話もある。
そんなわけで、ここしばらく編みかけのくつ下のない生活を送つてゐたわけだが。
今日たうたう我慢できずに編み始めてしまつた。
Regia の Mini Ringel Color の 5220 を三号針で編んでゐる。
Regia の糸を使ふ時は大抵〇号か一号を使ふのだが、店頭でもらつた編み図の指定が三号だつたため「いつちよためしにやつてみるか」といふわけだつたりする。
あーあ。これならほんたうにくつ下だけ編む Socknitter にならうかな。
しかし目の前には到底くつ下向きにはなりえぬだらうやうな極太糸やいはゆるファンシー・ヤーンが……。
嗚呼。
観客にも躾が必要だ。
先週の土曜日(11/20) 二ヶ月ぶりに歌舞伎座に行つた。
一階二等席の若干後方で昼の部を見た。
今月の歌舞伎座は顔見世といふことで、演目も配役も豪華である。悪いが、来月南座の顔見世よりずつとましといつてもいい。
そんなわけで、にこにこ見てゐたその時である。
「ほにやららや~」
ウソだらう?
二等とはいへ一階席である。
そのどこかから、かけ聲が聞こえてくるではないか。
くどいやうだが、一階席である。
しかも、かけてゐるのは一人だけではなかつた。
「ご両人(恋人役同士でもないのに)」
「ほにやららや~」
少なくとも二三名は不心得ものどもがゐる。
途端に暗澹たる心持になつたのも仕方のないことであらう。
ああ、歌舞伎座もここまで落ちたか。
以前、新橋演舞場で猿之助劇団の芝居を見てゐた時、一階席ほぼ最前列とおぼしきあたりから聲をかけてゐるご婦人があつた。
「うこーん」
といふ特徴のあるかけ聲は、かつて歌舞伎座の三階席でも聞いたおぼえがあつた。
猿之助劇団の場合ほとんどみな「澤瀉屋」なものだから役者の名前を呼ばないとあかんのか、と妙に納得した記憶もあつた。
だがしかし。
一階席である。
しかも最前列付近。
いつたい君はどういふ教育を受けてきたのかね、親の顔が見てみてえや。
と、イヤミの一つも云つてやりたいが、さういふ輩には通用しないんだらうねえ。
幕間に、その不心得ものどもの一人が、隣の席の御婦人と話をしてゐた。
「もう観劇歴は長いんですか? さうですか。手前は平成四年にはじめて見ましてね。ずつと三階席で見てたんだけど」
だつたら三階席で見てゐたらいいぢやあないか。
平成四年に見始めたのだとしたらもう十二年だ。ひとまはりである。
だが、おそらくその男性に「芝居見物とはかういふものなのだよ」と教へてくれる人はゐなかつたのだらう。あるいはゐたのかもしれないが、既に他人からの助言を聞き入れるだけの柔軟性を失つてゐたのかもしれない。
たれか云つてやつてくれ。
かけ聲は三階席か幕見からかけるものだ、と。
一階席や二階席のご見物は、三階席や幕見にゐるさうした人々に金を払つて聲をかけてもらふものなのだ、と。
……それともかういふ考へ方がそもそもあやまつてゐるのか?
だつたらあやまつてゐたつてかまふものか。
遅刻は仕方のないことだと思つてゐる。
ずつと「バスまかせ」暮らしである。
最寄駅に出るにはいづれに行くにしてもバスを利用するしかない。
バスに乗らずに自転車やスクータで行く手もある。だが毎日のこととなると、自転車やスクータは必ずこはされたり盗まれたりする。それを考へると、やはりバスに乗つた方がいい。
歩くといふ手もある。だが、歩いて行くほど早く起きるのだつたら、同じ時間に起きてバスに乗つた方が幾分かましであらう。
子供のころからバスに依存した暮らしをしてゐると、「少し早めに家を出る」やうになる。今も順調に行けば四十分くらゐ早めにつくやうな時間に出かけてゐる。
今の職場にうつつてもうすぐ三ヶ月だが、今のところ毎朝同じ時間に出る(はずの)バスに乗つてゐる。一度だけためしに一本前のバスに乗つたことがあるが、職場に着く時間は大してかはらなかつた。それ以外はほかのバスに乗つたことはない。
バスは絶対時間とほりに来るといふものではない。
また、時間とほりに来ても途中の道が混んでゐる場合もある。
ゆゑに「早めに家を出る」のである。
だから、遅刻してもこれはもう仕方のないことなのだ、と思ふ。
かつて、とあるホテルでなんらかの国際会議が開かれたことがあつた。
ところが当日はひどい天気。
これでは通訳が来られないのではないか、と、主催者が気をもんでゐたところ、件の通訳はごく普通に会場にあらはれたといふ。
なんでも天候が悪さうなので昨日から来てゐたのだ、といふ。
この人はおそらく「遅刻は仕方のないこと」とは思つてゐないのだらう。
それでは、毎日前の日に出勤することが可能か、といふと……
不可能とはいはないが、現実的ではない。
不慮の遅刻をふせぐには、職場のすぐそばに居を定めるしかない。
それができないからには、やはり毎日「少し早めに家を出る」くらゐしか防御策はないのである。
「遅刻は仕方のないこと」にはもうひとつの面がある。
学校や職場でいろんな人を見てきたが、遅刻する人は遅刻する。
なんのこつちや、と思ふ向きもあるかもしれない。
時間ギリギリに登校する人は、いつでもさうである。従つて遅刻の憂き目にあふことも多い。教師が注意すると、直後はあらたまるがまたいつのまにか遅れてくるやうになる。
職場でもさうである。鐘の鳴るのと同時に来るやうな人は毎朝さうである。遅刻が多くて上司に怒られると、やはりその直後は少し早めに来たりもするが、やがて元に戻つてしまふ。
「遅刻は仕方のないこと」といふ所以である。
今年の大河ドラマは今のところ欠かさず見てゐる。
欠かしてはゐないが、途中あまり気の入つてゐなかつた時もあつて、記憶曖昧な部分もある。
ところで先月くらゐだらうか、やつと「なんで大河ドラマが好きではないか」を思ひ出した。
主人公が一様に「いい人」だからである。
大河ドラマの主人公はみんな「いい人」だ。
そして、なぜか必ず「農民に対してやさしい」といふどこかの国の政治家みたやうな特徴をもつ。
「生かさず殺さず」なんて人間扱ひしてなかつた徳川家康だつて大河ドラマの主役になると、農民に対してえらく善政をしいたやうな人になつてしまふし(しかも大阪の陣では「どうにかして秀頼と淀の方を助けたい」とか云ひ出すこまつたちやんになつてしまふ)、さうなれば「米将軍」だつて負けてはゐない。
なんだなんだ、この状態は。
幸ひなことに(?)今年の大河ドラマの主人公は農民出身なので、今までの主人公のやうに「農民が農民の生活が」とか云つたりしない。この点については、今年は大河ドラマの中ではましなものだつたといへる。
だが。
うーん、これはあくまでもやつがれの印象なのだが、今年の大河ドラマの主人公になつた人物は、御直参に取り立てられた時点で既に「ヲレはえらいんだぜ」風をふかしてゐたのではないかと思ふのである。
つまり、それまでの「同志」を「家来」のやうに扱ひはじめてゐたのではないか、と考へてゐる。
どうやら来週あたり、さういふ面が出てくるらしいのだが、それでは既に遅い。もつと前から、多分「御直参」に取り立てられる以前から、さういふえばつたやうなところがあつたんではないか。
そんな気がするのである。
時々思ふのだが、明智光秀や細川ガラシャ夫人が主役の話に出てくる織田信長か、逆に織田信長が主役の話に出てくる明智光秀が主役の大河ドラマがあればいいのになあ、と思ふ。
明智光秀やその娘が主人公の話に出てくる織田信長といふのはたいていものすごくどうしやうもない人物である。織田信長が主人公の話に出てくる明智光秀といふのはたいていなんだかイヤミでネクラなおつさんである。
実際の織田信長や明智光秀にはおそらくさういふ面もあつたのだらうと思ふ。全部が全部さうだつたのではないかもしれないが、しかし、負の面も確かにあつたらう。
だが、大河ドラマの主人公になると、さういふ負の面闇の面はまつたくといつていいほど描かれないままに終はる。
そして、「誰某はそんなことしないっっ」といふ誤つた(だが発言者にとつては正しい)認識をする人が増えるのである。
ちなみにやつがれ、明智光秀が主人公の話に出てくる織田信長の方が、信長主人公の話に出てくる方より好きである。
しかしそんな人物が主人公ではNHKが視聴者に想定してゐるやうな層からの支持はますます下がるだらうなあ。
なんで悪人が主人公だと認めてもらへないんだらう。
このあたりの嗜好は柴錬の「地べたから物申す」に影響されてるんだらうなあ。とほほ。
もうせん播磨屋が好きだつた。
好きな役者は何人もゐて、かつて「好きな役者の話をしやう」といふエントリでは大和屋坂東三津五郎のことを書いた。
大和屋もかなり好きである。
かつて毎年八月歌舞伎で丸本物の初役を勤めてゐたことがあつたが、毎回初日に見に行つて、もう一度楽日近くに見に行くほどだつた。
だが、当時はそんなに好きだと思つてゐなかつたやうに思ふ。かういふことは、後になつて気がつくのかもしれない。
たとへば当時は「八月ぢやなかつたら毎回初日になんか見にいけないよなあ」と思つてゐた。八月だと「夏休み」といふ口実が使へる。だから見に行つてゐるのだ、くらゐに考へてゐた。
播磨屋中村吉右衛門も、かなり以前から好きだつた。
はじめて播磨屋を知つたのはTVドラマ「武蔵坊弁慶」で、これががいたく気に入つてゐた。主題曲もよかつた(芥川也寸志)。再放送が何度かあつたが、これを見た目には昨今の大河ドラマなんぞ見られた代物ぢやあない。それくらゐおもしろかつた。
一年間芝居からはなれて、去年の九月にまた見に行くやうになつた時、歌舞伎座で播磨屋の河内山がかかつてゐた。復帰最初の芝居には完璧すぎるほど、播磨屋の宗俊はすばらしかつた。
最近、見に行く芝居に播磨屋が出てくると、いつしかにこにこしてゐる自分に気がつくことがある。
ああ、ヲレ、播磨屋が好きなんだ。
「なんか、
播磨屋を見ていかう、
これからのぼくは」
そんな気持ちである。
資治通鑑の巻第二百はいきなりすごい展開からはじまる。
唐の高宗の時代、と書けばお察しのとほり、武則天の話だ。
武則天の話ですごいとくれば、例のアレである。
高宗の寵姫ふたりの手足を切り、酒の瓶に入れて殺したつてアレ。
映画「西太后」では西太后が同じことをやつてゐるが、確か西太后はそこまでひどいことはしてゐないことになつてゐる。
武則天といふとこの話ばかりが有名だが、やつがれにとつては、
「字を作つた人」
といふイメージが大きい。
武則天がゐなかつたら、黄門様や瀧夜叉姫を退治する人の名前はかはつてゐたはずだ。
徳川光圀や大宅光圀の「圀」の字を作つたのが武則天だからである。
ほかにも自分の名前である「照」といふ字を下のやうな字に変へたりしてゐる。
日月
空
つてこの二つくらゐしか知らないんですけどね。
さらに、本国では案外評価が高いらしい。政治手腕がすぐれてゐた、といふのである。
実際、貴族たちが叛乱を起こしても国民は「まー生活は楽だから」つてーんで熱心に取り組まなかつたらしい。
中国唯一の女帝である。それだけの能力がなければ帝位にはつけなかつたらう。
必要とあれば子供も殺す残虐なだけの人といふ印象は、おそらく儒教にしばられた当時や後世の歴史家たちが作り上げたものだと思はれる。少し前までは「則天武后」と呼ばれてゐたことが多く、「なーんで皇帝になつたのに「后」なんだらう」とふしぎだつたものだが、このあたりも近年はあらたまりつつあるらしい。
それにしてもこのFEP、ダメだね。「武則天」も「西太后」も出やしない。なぜか「則天武后」は一発で出るといふのは、儒教に侵されてゐる証拠。
ところで高宗、自分の后がどんな性格かはよくわかつてゐただらうと思ふのに、そんなに王さんと蕭さんがよかつたのかねえ。実は嫌つてゐたんぢやなからうか。もう愛想がつきてゐた、とか。でも自分からは手を下したくないから、んぢやあ后にやらせてしまへ、と考へた、と。
だつて資治通鑑のこのくだりを読んでゐて思ふことといつたら、「高宗ががまんしてりやあ二人ともこんなひどい死に方はしなくても済んだだらうに」といふことなのだから。
しかし、がまんしてゐてもいづれは四肢を切られて瓶に入れられるやうな目にあふことにかはりはなかつたのかも、とも思ふ。
さうすると高宗の行動も、まあうなづけないこともない。
どうせ変はらぬ末路なら、せめても一度やさしいことばの一つもかけて。
そんな風に考へたのかもしれない。
といふわけで。
この weblog のエントリも今回で二百回。
司馬光先生の褌で相撲を取つてお茶を濁すナリ。
「超」整理手帳のカヴァを頼んでしまつた。
「超」整理手帳とはおそらく発売当初からのつきあひになる。一時疎遠な時期もあつたが、ASCII24 のアンケートに答へたところ「当選しました」などとて新年度版が送られてきて、また使ひはじめてしばらくたつ。
すでに来年用のリフィルも手に入れて、また使ひ勝手がよくなつてゐてにこにこしながら毎日使つてゐる。
なにがよくなつたかといふと、今年までは週間予定欄の一番下にあつた空欄が一番上にきてゐるところだ。
これで、週ごとの予定がよりわかりやすくなるといふ寸法である。
今までは付箋紙でこの機能を代用してゐた。なぜ一番下の欄に書かなかつたのかといふと、見忘れることが多かつたからである。付箋に「この週はこれをやる」とか「この週にはこんな催しがある」といつた情報を書いて月曜日の欄に貼つてゐた。当然月曜の予定が隠れてしまふが、そのときどきで付箋をはがすことでなんとかしてゐた。
もうこれからはこんなことしなくてもいいんですよ、奥さんつつ。
といふわけで、早速現在見えてゐる予定を書き込んでみた。
やつがれの場合、まづその週にある催しを一番上の方に小さな文字で書き込む。たとへば今週(つて昨日今日ですが)は竜王戦の第三局があるので、「17・18 竜王戦第三局」と書き込む。そして、大事な用件などは区切りの線の上に少し大きめの字で書き込む。線上に書くのは、その方が目立つからだ。たとへば今週はとある仕事に着手しないといけないので「$仕事着手」と書く。この仕事の〆切は一応来月半ばといふことになつてゐるので、12月第三週の欄にさう書き、しかし自分としては今月中にあるていど目処をつけたいので11月最終週の欄にやはりさう書き記す。
「超」整理手帳の長所は長期の予定を一瞥できることであつた。
それがますます見やすくなつた、といつたところか。
ところでカヴァについては何度か買ひなほしてゐる。くたびれてきたなと思つたら新年度版のリフィルを買ふ時にスケジュールシートだけでなく、カヴァのついたものを買つてゐた。
もちろん、国立商店やその他の大変すばらしいオリジナルカヴァが販売されてゐるのも知つてゐた。注文者を募つて作つたカヴァもあつた。
いいなあ、と思つてはゐたが、しかし、気になることもあつた。
「超」整理手帳で気に入つてゐる点のひとつに「薄い」といふのと「すぐに開ける」といふのがある。
「超」整理手帳の予定表等はモジュール式になつてゐて、とりはづし可能になつてゐる。必要なものだけ持ち歩くことができるといふ寸法だ。だから普段あまり必要ないやうな十ヵ月後のシートや半年前のシートなんていふのは自宅や職場においておくことが可能なのである。必要とあればさうしたシートも持ち歩けるところもよい。
また「超」整理手帳には特にボタンやバンドなどがついてゐない。さつと取り出したらさつと開けてさつと書けるといふのが大変よい。
しかし、世のオリジナルカヴァにはさうした点を犠牲にしてゐるものも多々あつた。
そんなやつがれが注文してしまつたカヴァ、それは「かまわぬ」のカヴァである。
前々から「かまわぬ」には弱いやつがれである。たまに歌舞伎座のロビーなどで手ぬぐひが並んでゐるとつい買つてしまふ。
ほんたうは「かまわぬ」とか「よきこときく」、または「芝翫縞」なんぞが好みなのだが……そこはそれ、である。
ちなみに頼んだのは丸菊。なんとなく華やかな感じに惹かれた。もともと花丸とか好きだしな。
#花丸といふのは御殿の場でよく金襖などに描かれてゐる丸い花模様のこと。
#葉や茎が丸く円を描き、その中に花が散らされてゐるものが多いか。
#いやまあこれは実際に見てたべ。
ああ、早くこないかなあ。
およそ weblog なんぞに手を染める人はみな、「わかつてもらひたい」と願つてゐるのだと思ふ。
あるいはさうではないのだらうか。とりあへず「王様の耳はロバの耳」と穴にむかつて叫んでゐるだけなのだらうか。
時々思ふのだが、おそらくやつがれは「わかつてもらひたい」と思つてゐない。
この weblog 用の文章を書く時も、できるだけ遠回りして迂遠な表現を用ゐ、真意はほんのわづかに見え隠れするやうな感じにしたいと無意識のうちにさう思つてゐる。
多分他人に読んでもらふ文章の書き方としてはまちがつてゐる。
力足らず結果として理解し難い文になるのだつたらまだしも、最初から読む人を拒絶するやうな、こちらの本意の伝はらぬやうな、そんな文を書いてはいけない。
わかつてはゐるのだが。
しかし他人が読むと、「好き放題書いてる weblog」に見えるのかもしれないな、とも思ふ。
まあ、たしかに好き放題書いてはゐるよな。
けれども、こんなに書いてゐるのにどうしても weblog には書けないことがいろいろあつて、それを三年手帳に書き散らし、それでも足りなくて MOLESKINE にしたためてゐる。
どこかをかしいんぢやなからうか。
ココログブックスコンテストに参加してゐる。
ココログブックスとは、まあ正確なところはこちらを見てもらふことにして、えうするに数多あるココログの中から自薦・他薦を募つて本を出さうといふ企画である。
ココログブックスとしては既に「ココログオフィシャルガイド2005」とフローラン・ダバディーの「魔法のココログ」が出版されてゐる。
現在一時審査中で、最終発表は来年一月とのこと。
1081件の中から1件、書籍化されるココログが選ばれることになつてゐる。
ココログブックスコンテストに参加してゐる人々のココログが更新されると「コンテストPeople」に新着情報が掲載されるやうになつてゐる。題名と冒頭の文章がわづかに載るくらゐだが、これで思はず読みにいつてしまふ weblog もある。
だがどうやらこのページからここに読みにくる人はゐないもやう。
うーん、やはりおもしろくないんだな。
最初はコンテストに参加するつもりはなかつた。
なんたつて選考基準が「ブログならではの機能に関心が高く、コミュニケーションに積極的なもの」である。
「ブログならではの機能」つて、やつぱり「コメント」とか「トラックバック」とかだよな。ちがふかな。
こちらからトラックバックをしたりよそさまにコメントを残したりはするけれども、ここにトラックバックをしてくれたりコメントを残してくれる人は少ない。
#コメント及びトラックバックをくだすつた方々、ありがたうつつ!
つまり、それだけ共感しにくいのだらう。有態に云つて、「おもしろくない」のにちがひない。
いづれにしても最初から選考基準を満たしてゐないのである。
さらにこのかな遣ひである。
応募規約に「日本語で書かれたものに限る」とある。
日本語であることは疑ひないが、おそらく世の中にこのかな遣ひは受け入れられない。
ではなぜ参加したのか、といふと……
「太陽が黄色かつたから」
かな。
今年も京都に行くことになつた。
さんざん愚痴を書いたが(あ、愚痴はこちら参照のこと)やはり今年も行くのだ。
助六があるといふので上手側の席を取つてはみたものの。
なんだか不安である。
それにしても。
世の中つてどうなつてるんだらうと思ふ。
電話がつながつた時点(昼をちよいとまはつたところ)で既に夜の部は土日完売、平日も特別席(おそらく桟敷のことにやあらむ)・一等・二等Aは売切だといふのである。
ちなみに前売り開始は今日から。
すなはち前売り開始二時間ほどで土日の席はすべて売れてしまつたといふことに相成る。
……まあわかつてますよ、世の中、やつがれのやうに電話かけまくつて席を抑へる人ばかりぢやないつてことくらゐ。
そしてさうぢやない人の方がいい席を取れるつてことくらゐ、理解してゐるつもり。
さう、おそらくは恋愛と同じなのだ。
芝居を見てゐてもさうではないか。
すがる娘に男はつれない。お家の重宝の詮議が先だ、とか、主のためになんとも思はぬ女と契らねばならぬ、とか、ああでもないかうでもないと、可愛い娘を邪険にする。
逆に、惚れられるにはそれくらゐ無関心を装つた方がいい、といふ話もある。
「芝居さ~ん」とこちらから追ひかけてゐるやうな客には芝居さんは冷たい。
もーほんと、これでもかつてくらゐつれない。
逆に「芝居さん、そんな方もいらしたわね」くらゐの余裕がある客にはなぜか芝居さんはやさしい。
かういふ客の場合、別段苦労しなくてもそれなりにそれなりのお席も手に入る。
なんといつても、かういふ人は芝居さんとその周辺に莫大な阿堵物を巻いてくださる。やつがれのやうに席を取るのに精一杯でそれ以上逆さにふつてもニッケルの硬貨一枚も出ないやうな客とは根本的にちがふのである。
えうは「持つものか持たざるものかの違ひ」といふことか。
これは芝居さんに限つたことではなくて、音楽・舞踊も押し並べてさうである。
観劇や音楽鑑賞はお大尽の趣味なのである。
それを趣味と自称するたあおこがましいにもほどがある。
見せてもらへるだけでもありがたいと思へ、といふことだらう。
そんなわけで今年の顔見世は天井桟敷からの見物と相成る。
Absolutely Fabulous Throw を顔見世に間に合はせるつもりだつたが、そんな席で Fabulous な Throw なんぞを使つてゐたらまつたく場違ひなので、断念するつもり。
……いつできあがるかのう。
一日ぼんやりとあみもの。
ひとまづこれが前回書いた broadripple socks である。
これまた書いたとほり、SummerSocks を使用して針は三号。つま先のメリヤスはぎがどうにも不細工。まあ写真ではそこらへんごまかしてみたつもり。
#さすがにもみけすことはできない。残念。
しかし、それ以外についてはまあまあな出来かもしれない。結構気に入つてゐる。問題は色合ひが派手すぎることくらゐで。これ履いて外に行けるかどうかぢやな。とほほ。
ぼんやりあみものとか書きつつも。
別にそのあひだあみものしかしてゐないわけではなくて、今日も将棋見たり囲碁見たりしながらのあみものだつたりはする。
んで、ぼーつと「もつと中島美絵子初段を映してくれないか知らん」などと思ひながら編んだのが、これ
と
これである。
昨日編み始めた Absoluetely Fabulous Throw の続きともいふ。
さう、「ぼんやりあみもの」と書きつつも、何かしながらでないと編めない因果な体質なのである。
思ふに。
多分、「ぼんやりしてる」のが苦手なのだ。何かせずにはゐられない。ただその時にするものが「あみもの」であつたり「TV見る」だつたり「本読む」だつたり「Web 見る」だつたりするので、「ぼんやりしてる」やうに感ぜられるだけなのぢやあないか。
つて「ぼんやりしてる」ことの云ひ訳にしか聞こえませんな。
といふわけで、これを打つかたはらで、あひかはらずかのこ編みのカーディガンの後ろ身頃を編んでゐる。あと四十段も編めば後ろ身頃は完成する予定。
「毛糸だま」で読んで、瑞典大使館で編物系の展示会のあることは知つてゐたのだが。
ううう、去年は Maria Gullburg の展示会だつたなんて(/_;)。
それも著作 _Tid att virka_ が販売されてゐたなんて……(/_;)。
しばらく立ち直れないかもー(T-T)。
ま、所詮東京での出来事だ。
さうさう上京するわけにもいかないもんな。
と、自分を慰めることにする。
……くくくくく(/_;)。
今年の初夏くらゐのころだらうか。
あみもの系 weblog でよくみかけたのが Absolutely Fabulous Throw であつた。
別名 Ab-Fab Throw。
Colinette の糸を使つたこの Throw (……膝掛けとか肩掛けとか、まあ巨大なショールといつたところか) は、実に Fabulous であつた。
だが、お値段の方もそれなりであつた。
当然「見てるだけ」にしておくつもりだつた。
だが。
考へてみたら、去年の暮れから今年の六月くらゐにかけて、ほとんど「月月火水木金金」状態、終電に間に合はない恐怖と隣り合はせの生活をしてきたやつがれである。
これくらゐ、買つてもいいんではないか。
魔が差したのである。
気がついたら「ぽちつとな」してゐたのが、やはりこれからまた多忙な日々がやつてくることが予見された九月のこと。
今日加奈陀から毛糸がやつてきた。
かせの状態で送られてきたので、早速「くりくり」と「まきまき」の出動と相成る。
全部で八かせで、モヘアが三、テープ状の綿が一、スラブヤーンが二、編むとタオル地のやうになる糸が一、極太毛糸が一といつた構成。いづれも百グラム。ひとつの玉にするにはチト大きくなりすぎるきらいがあるが、まあそこはそれ。
といふわけで、ひたすら八かせくりくりまきまきしたのが写真である。もう暗くなつてから撮つたせゐもあつてだいぶボケてゐるが許してたべ。
ところでこの Ab-Fab Throw はキットである。編み方が四通りついてくる。四つのうちから自分の編みたいものを選ぶのである。
単なるストライプ模様のもの、スカラップ模様のもの、それとドミノ編みのやうな編み方のものが二種類の計四種類である。
スカラップ模様とドミノ編みで悩んだが、とりあへずドミノ編みにすることにした。
ひとまづ編んでみたのがこのモチーフである。サイズ比較のためにかぎ針をおいてみた。
使用針は 8mm。かなり巨大である。色合ひは 10 Watter Lillies。
このモチーフは八種類の毛糸のうち、テープ状の綿とモヘア、タオル地に極太毛糸の四種類を使つたもの。
編んでゐる時はテープ状の糸と編むとタオル地のやうになる糸に伸縮性がないのでチト編みづらかつたが、次第にできあがるモチーフを見てゐるとあつといふ間に編めるといつたところか。
問題は……実は同じキットを色違ひで二つ頼んだのだが、やつてきたのは二つとも同じ色合ひだつたといふところか(/_;)。
一応すぐにメイルは打つてみたのだがどうなることやら。
心配である。
おまけ。
一緒にくりくりまきまきしたリネンとシルクの糸。茶色い方がリネンで青つぽい方がシルクである。これは先月ユザワヤ大賞を見に行つたをり、東京アートセンターで購入した。
タティングレースにする予定。
フランク・シナトラが苦手である(>_<)。
なぜだらう。ふしぎだ。
と、常々思つてゐたのだが。
大杉正明の英語講座を見てゐて気がついた。
歌ひ方が浪漫的ではないからである。
大杉先生の「いまから出直し英語塾」は毎回見てゐるわけではない。たまたま見た今回は「英語でジャズを歌はう」といふ企画であつた。
番組冒頭で大杉先生が Fly Me to the Moon を歌つてをり、その後、「自分より少しうまい」と紹介してフランク・シナトラが歌ふ同曲が流れたのだが。
うわー、なんか、即物的(>_<)。
Fly Me to the Moon のもともとの題名は番組の中でも言及されてゐたが、In Other Words である。
すなはち、「手を握つてくれ」とか「キスして」とか「愛してる」とかはつきり云ひ出せない人の歌なのである。云へないかはりに「月に連れていつてくれ」とか「心を歌でいつぱいにして」なんぞとなにがなんだかなことを要求する。まあ、「つまりね (In other words)」つて云ひながら結局は云ふわけなんだがね。
なんかフランク・シナトラの歌だと、そこらへんが云ひ出せない人ぢやなくて、はつきり「手をにぎつてほしいの」とか「好きだよ」と云へる人がわざと「月につれてつてほしいの」とか「永遠に歌はせてくれ」とか云つてるやうな感じがするのである。
いや~、やつぱりさ、「云ひ出せないの」といふあたりがこの歌のいいところなんぢやないの、とか思ふわけだよ。ちがうかな? それともやつぱりはつきり云へる人がわざと云つてるつてえのがほんたうなのだらうか。
さういへばこの歌、オリヴァー・ストーン監督の「ウォール街」かなんかの主題歌に使はれてゐたよな。うーん、なるほど。
SL-C3000 を見に行つてきた。
今度の ZAURUS に関する話題についてはそれほど熱心に追ひかけてはゐなかつた。
4 GB のハードディスクを搭載してゐるといふことくらゐしか知らなかつたりする。
そのほかのことについてはあまり取り沙汰されてゐなかつたやうに感じた。
#ああ、まあ USB のヴァージョンが云々とかありましたか。
Linux ZAURUS には発売当初からかなり興味を惹かれてゐる。
だがこれまで身近に使用してゐる人がゐなかつた。
田舎住まひのせゐだらうか、店頭でみかけることもなかつた。
今回、「あそこにならあるよ」といふ情報を得て、帰宅途中に立ち寄つた次第である。
嗚呼、しかし、ザウルスよ、おまへもか(T-T)。
せつかくキーボードがついてゐながら、かな入力に対応してないなんて。
打ちひしがれたやつがれはとぼとぼと家路についた。
が。
……いや、待てよ。チト冷静になつてみやう。
ただ単にキートップにかな文字がないだけで、実はかな入力できるのでは。
現在お世話になつてゐる客先は外資系で、PC もめりけん仕様だ。すなはちキーボードは ASCII 配列だし、当然キートップにかな文字はない。
だからといつてかな入力できないかといふとさにあらず。
多少 JIS 配列とはちがふものの、別段問題なくかな入力することができる。
#これにはやつがれが古い Mac ユーザだつたことが手伝つてゐたりするのだが。
……全然冷静になんかなつてゐないぢやあないか。
そもそも本邦での使用を前提にした PDA である。その PDA のキートップにかな文字がないといふことは、すなはちかな入力は不可といふことぢやあないのか。
嗚呼、リナザウよ、おまへもか(/_;)。
ZAURUS のよさのひとつとして他の PDA に比して日本語入力では一日の長があることだと信じてゐたのに。
すつかり裏切られた気分である。
はたしてこの後やつがれがリナザウを手にすることはあるのか。
あると思ひたい。
缶コーヒーが飲めなくなつて久しい。
以前は、毎日のやうに飲んでゐた。最盛期には飲んだことのない缶コーヒーを見つけたらまづ飲んでみるくらゐだつた。
子供の頃、千葉県には MAX コーヒーといふ缶コーヒーが売られてゐると聞き、ねずみの国に行つた時に道中でなんとか飲むことができてめうにうれしかつたりしたものである。
なにもねえ、ねずみの国に行つてまで缶コーヒーなんぞにこだはらなくてもねえ。
缶コーヒーだけでなく、いはゆる乳飲料のコーヒーも好きだつた。よく銭湯などで風呂上りに飲むあれである。幼い頃入院してゐた時に、週に二回牛乳屋さんが来てくれてゐたのだが、乳飲料のコーヒーとマミーを交互に飲むのが常であつた。どちらも選び難かつたのである。
「コーヒー牛乳」を名乗るにはいろいろとクリアしなければならない条件があるのださうで、よく見てみれば確かにどの製品にも「コーヒー」とは書かれてゐるが「牛乳」と併記してあるものは少ない。
最近これも飲めなくなつた。
だが記憶とはおそろしいもので、「自分はこれが好きだつたはずである」といふ感覚はあるのである。店頭で見かけるとたまに手に取つてしまふのはそのせゐだらう。
今日も何を血迷つたか、乳飲料のコーヒーを買つてしまつた。
家に帰つてきて、あたりまへのやうにそれを牛乳で割るやつがれ……。
え、をかしい? をかしいかなあ?
でもストレートでは飲めないんである。甘すぎて(^_^;)。
といふわけで、「コーヒー牛乳の牛乳割り」を飲みながら、こんな文章を打つてみてゐる。
ここのところ少なかつたあみもの関連の話を少し。
昨日、Broadripple Socks を仕上げた。写真は週末にでも撮るつもりである。
かんたんな形をしてゐるからであらうか、くつ下の編み方には案外いろいろな種類がある。
一番単純な分類だけでも、つま先から編む方法と履き口から編む方法とがある。
おそらくたいていのあみものの本に載つてゐるのは履き口から編む方法だらう。
最近やつがれが編む場合はつま先から編むことが多い。つま先から編むと一番サイズを合はせたい部分である足の大きさが最初に決まることになる。すなはち毛糸の量を見積もるのが履き口から編む方法よりも容易なのである。
そんなわけで、最近はつま先のメリヤスはぎとはとんとご無沙汰してゐた。メリヤスはぎとははぎ目のめだたぬやう、まるで編んだやうに仕上がるはぎ方である。
これが苦手でなあ……。特にはぎ始めの目とはぎ終はりの目が不恰好に大きくなりがちなのである。
これをふせぐためには何段か捨て編みしてはぐといい、と聞いてはいた。おろちさんのところの掲示板で得た情報である。
しかし、不要な段を編んでおいてあとからほどく場合、そのほどいた糸はどこに行くのかが疑問であつた。
メリヤスはぎをする場合、はぎ糸にはそこまで編んできた毛糸を使つてゐる。かうするとはぐ糸の糸端がはぎ終はりにしかないので実に具合がいいのである。
捨て編みを採用する場合は、やはり糸は別に用意するやうなんだらうか。
そんなくだらないことで悩んでゐたのだが、「いいか、捨て編みはまた今度で」といふわけで、まづ片方が編みあがつた時に久々のメリヤスはぎに挑戦してみた。
泣けた(/_;)。
思ひきり下手になつてゐたからである。
あー、やつぱり普段からやつてないとダメだー(/_;)、と泣けた。
くつ下については、以降はすべてつま先から編むやうにするとか、履き口から編んだ場合でもつま先をメリヤスはぎにしないとかいろいろ方法はある。
問題は、メリヤスはぎは結構使へるはぎ方だといふことである。
たとへば普通にメリヤス編みにしたセーターの肩口をはぐ、とか。かういふ時は絶対メリヤスはぎである。
なんだか大騒ぎしてゐるが、メリヤスはぎはあみものの中では基本的な技法に入るのだと思ふ。
ニッタならできてあたりまへ、といつたところか。
しかるにやつがれはメリヤスはぎをする必要が出てくると、必ずたた&たた夫の編物入門を見に行き、「はじめてのくつ下」のところでメリヤスはぎのやり方を確認しないと不安ではげない。
まあほんたうに近頃面目次第もござりませぬつてな状態なのである。
あー、やつぱり次のくつ下も履き口から編むかなあ。
しかし、ここらへんで久しぶりに(さう、実は久しぶりなのである)つま先から始めるくつ下を編むつもりでゐたのになあ。こちらはこちらで引き返し編みといふ技法がまたなんともやつかいなのだつた。これも久しくやつてゐないと確実に編目が汚くなる。
とか云ひながら、こものについてはこれからミトンを編むつもり。
といふか、編み始めた。ものは Anna Zilboorg の _Magnificent Mittens_ に出てゐるもの。ほんたうに Magnificent! といふか、Gorgeous! といふか……そんなやうなミトンになる、予定。
ただなあ……何度も書いてゐるが、やつがれ、どうも編み込み模様が苦手なのである。
何度か編みなほすやうかなあ。
もちろん鹿の子編みのカーディガンとアメリカ式で編んでゐるマフラも忘れちやゐませんぜ。
平和の象徴であるハトは鋭い爪も嘴も持たない。
従つてハト同士が争ふとなぶり殺しの様相を呈し、残忍を極めるのださうである。
これは幼いころ、三原順のまんが「はみだしつ子」で読んだ話である。
ある種の人にこの話をすると、一様にイヤな顔をする。
ハト派・平和主義者を自称する人々を厭ふ所以である。
万年筆を購入した。
ペリカンのペリカーノ・ジュニアとペリカーノ・フューチャーの二本。
どちらも、書き方を習ふ子供用だといふ。
本邦でたとへて云ふなら2Bの鉛筆といつたところか。
ペリカーノ・ジュニアの方が初心者用で中字のみ、フューチャーの方がもう少し年上のお兄さんお姉さん向けで細字のみとのこと。
ジュニアは白いキャップにシースルーのボディ。ボディ部は赤・黄・青・緑がある。
フューチャーは全体がマットな感じで、やはり赤・黄・青・緑があり、ほかに少し値段が高めの銀がある。
インクも色とりどりで、black, blue black, royal blue, violet, green, turquoise blue, red がある。万年筆を買ふとついてくるのが royal blueで、明るい青といつたところだらうか。Sample の万年筆に入つてゐたのも royal blue であつた。
色とりどりなのはいいが、やはり普通にはあまり使はないやうな色は退色しやすいやうで、店頭では red などはほとんどオレンジのやうな色になつてゐたし、violet はピンクつぽい色になつてゐた。まあ、実際には royal blue 以外の色は試し書きしたわけではないので、violet に関してはもともとさうした色なのかもしれない。
目移りしたが、とりあへず無難に blue black、それとあまり退色しなささうな turquoise blue と、おもしろさうなので violet を買つてみた。
さて、それでは早速ペン習字の本などひつぱりだしてきて練習しやうかと思ひしが。
さう、何を隠さうやつがれは、かつて通信教育でペン習字を習つたことがある。講座終了時はそれでも受講前よりはましな字が書けてゐた。今、当時の字を客観的に見てさう思ふ、といふ程度だが。
従つてお手本はある。
だが、そのお手本のやうな字が書きたいのか、といふと……うーん、どうかなあ。
実は憧れの字がある。
筒井康隆の字だ。
中学生の時だらうか、はじめて文春文庫で「大いなる助走」を読んだ。
この時、本の表紙が筒井康隆の自筆原稿だつた。装丁は確か山藤章二だつたと記憶してゐる。
この自筆原稿がいたくすてきでなあ……。
「ああ、ヲレもこんな字が書けるやうになりたい」
と、無謀にも挑んだこと数度。
ところでうつくしい字を書くには二つの要素が必要だ、といふ話を読んだことがある。
一つは器用な手先。
もう一つはうつくしいものをうつくしいと感じる心。あるいは「美意識」といふのかもしれない。
多分、筒井康隆の字を気に入つたといふ時点で、「うつくしいものをうつくしいと感じる心」はあつたのだと思ふ。少なくと字に関して好き嫌いはきちんとあるわけだ。
だが、悲しい哉やつがれは器用な手先を持たなかつた。
しかし嘆いてゐてもはじまらない。
ここはペリカーノ・ジュニアを手に入れたことを機に、あらためて憧れの文字に少しでも近づけるやう精進してみやうか。
……しかし筒井康隆の自筆つてどうしたら見られるんだらう。
「大いなる助走」を探すしかないか?
今までアクセス解析機能をあまり積極的に使つてはこなかつたのだが。
まあせつかくあるのだし、ここらへんで記録を取つてみるのもよからうといふので、まづは検索語の記録を残してみることにした。
……なんだか申し訳ない気分でいつぱいであるm(_ _)m。
たとへば、「寺子屋 寺入り」でこの weblog にたどりついた方。
申し訳ない。内容は「ドラゴンボールZ」である。しかもかなり見当違ひな内容。
いや、やつがれとしては熱く「寺子屋」についても語つてゐるのだ。なんたつて「寺子屋」はやつがれの愛するお浄瑠璃である。これが熱くならずにゐられやうか。
だが、やはり「ドラゴンボールZ」が主な内容であることにはかはりない。
近頃面目次第もござりませぬ。
あるいは「水谷八重子」でこの weblog にたどりついた方。
大変申し訳ない。内容は「ヒカルの碁」である。しかも「どこが八重子なんだよつつ」てな内容。
いや、でもここで八重子が出てくるといふことは、つまりやつがれは八重子が好きなのである。
#良重ぢやないよ、くどいけど。今「八重子」を名乗つてゐるのは良重。
#良重は良重のままでよかつたのに。
なんといつても八重子はかつこよかつた。いや、普段、ね。
あまり舞台にのつてゐない役者に興味はないのだが、舞台の下の八重子には目を奪はれたものであつた。
だが、やはり元が「ヒカルの碁」であることにかはりはない。
近頃面目次第もござりませぬ。
また「中島美絵子」でこの weblog にたどりついた方。
なんとお詫びを申し上げたものやら。当方、先月平塚で中島美絵子初段をお見かけし、
「……好みのタイプ」
と思つたばかりといふ実に実に駆け出しの贔屓である。当然あまり存じ上げないし、プロフィールとかお写真といつたものもない。
いやはや、まつこと、近頃面目次第もござりませぬ。
しかし、ほかの方々はかういふことはないのだらうか。
たとへば政治の話をしてたのだが、「さういへばかういふこと、あのまんがにあつたよな」と思ひ出し、そのまんがの話をしてしまつた、あるいは vice versa、とか。
TVドラマの話をしてゐてユークリッド力学に連想が及び、それをそのまま書いてしまつた、とか。
ないの? ないのかなあ。
絶対あると思ふのだが。
とはいふものの、やはりこのなんとも居心地の悪い感覚は抜けない。
でも懲りずに書くけど。
三年手帳の二段目に記入する。
また一年が過ぎ去つたといふことだ。
これが二冊目なので、早五年目といふことになる。
以前も書いたが、三年手帳をつけはじめたのは劇団☆新感線の「秋味R(ほんたうはもつと長い名前なのだが……許してたべ)」を見て、「なんとしてもこの感動(笑)を今すぐ書き留めたい」と思つたからだ。
池袋のリブロに行くと、来年用の手帳が数多並べられてゐた。
目移りしたねえ。
目移りしたのだが、あるていど書く部分が大きくて、持ち歩きに便利な大きさの手帳がよいといふことで、集文館の掌中版三年手帳に決めた。
あれから五年、よく続いてゐるものである。
続く理由は、やはり持ち歩けること。ぱつと思ひたつた時にかける。バスや電車を待つあひだ、ベンチに腰掛けさらりと書く、なんてなことが可能なのである。
また、書かない日があつても気にしないのもいいのかもしれない。
一日一ページ単位の日記の場合、書かない日があると気になるものである。一日書くのを忘れると、もう続ける気を失つてしまふこともある。
だが、三年手帳の場合、この「書かない日」があると案外おもしろいことがわかつてくる。
やつがれの場合、三月末から四月にかけて書かなくなることが多い。気分は春休みなのかもしれない。
また、どうも四月くらゐになると連休を待ちかねて体調がくずれてくることがある。それも原因なのかもしれない。
人間が後ろ向きにできてゐるので、どうも手帳をうまく活用することができなかつた。
未来の自分が読んでおもしろいだらうやうなものを書き、過去の自分の書いたものを眺めるのは、後ろ向きな人間にとつてこの上の愉悦はない。
かうした手帳の使ひ方もあつてもいい。
田臥勇太である。
確かに、今回はたまたま味方が大量得点でリードしてゐたから、といふ僥倖もあらう。
だが、運も実力のうち。
開幕戦に出場して、しかも得点まで決める。
得意のアシストの方は……まあこればかりは味方が点を入れてくれなければどうしようもないので今後に期待したい。
starting guard があのナッシュではなかなか出番もめぐつてこないのではなからうかといふ懸念もあるが……。まあそれはそれ。シーズンは長い。のんびりと待つことにしやう。
そして、願はくば NBA の中継の増えんことを。
ここのところファイナルでさへ深夜に録画を流す程度になりさがつてしまつてゐるので是非。
張栩名人本因坊である。
あの二十五世本因坊治勲以来の名人本因坊の誕生。しかも名人本因坊としては史上最年少記録の樹立であるといふ。
終局図が整地後かと思はれるほどだ。
実は個人的には依田紀基名人を応援してゐた。囲碁の棋士で和服をお召しになる方はめづらしくなつてきてゐるからである。今日第二局目のはじまつた竜王戦でもさうだが、依田名人や森内俊之竜王名人のやうに大柄な人が和装だとこれが実によかつたりするのである。
もちろん小柄な人にも似合ふのが和服のよいところである。
だが、名人戦・王座戦に加へて国際棋戦ほか各種の予選等超絶多忙な挑戦者が勝利したことは、驚きであり、有難きことである。
とまれ、嫩き人々よ。
理力のともにあらんことを。
紅旗征戎は我が事に非ず。
といふわけで、「トリヴィアの泉(正確には「トリビア」かもしれないが……許してたべ)」である。
今回気になつたのは「金太郎」についての話である。
世の中、「金太郎」の話をきちんと話せる人が少ないやうである。ついては日本で「金太郎」の内容をきちんと説明できるのは何パーセントか調べてみやう。
番組では百人に二人とゐない、といふ風に落ち着いてゐた。
まあね、あれですよ、TVなんぞにインタヴューされたらはづかしがつて知つてゐても答へない人も絶対ゐると思ひます。
とくに老人層。そして、さういふ mentality は大変好ましい。
もとい。
「きちんと説明できる」の判断基準は、四つの要素をもれなく話すことができること、であつた。
四つの要素とは以下のとほりである。
一 足柄山にゐたこと
二 熊退治をしたこと
三 源頼光の家来になること
四 大江山の鬼退治に参加したこと
……一番に「山姥の息子である」つてのも入れてほしかつたと思ふのはやつがれだけだらうか。
それはさておき。
番組を見てゐた感じでは、一番二番は結構話せるやうだ。問題は三番以降である。
考へてみれば、幼い頃読んだ「金太郎」の話は、大抵熊退治で終はつてゐた。その後、金太郎が坂田金時になり、坂田金平といふ息子をまうける、なんぞといふ話はいつさいでてこなかつたやうに思ふ。
多分、我が家には二冊ほど「金太郎」の載つてゐる絵本があつたやうに思ふが、どちらも金太郎が元服した後の話は出てこなかつた。
ではなぜ金太郎が源頼光の家来になつて大江山に鬼退治に行つたことを知つてゐるのか、といふと、それは我が家にそのものずばり、「大江山の鬼」といふ本があつたからである。おそらく小学校の低学年用とおぼしきその本は、まづ金太郎の話からはじまつて、その後頼光と四天王が大江山に鬼退治に行く物語へと続いてゐた。確か渡辺綱と茨木童子の話も載つてゐたと思ふ。
すなはち、やつがれはたまたま(さう、ほんたうに「たまたま」)幸運だつたのだ。
うーん、まづは世の中の「金太郎」絵本を集めて分析するところからはじめるべきだつたんぢやないのかなあ。
それとも、我が家にあつた「金太郎」の本が特殊で、世の「金太郎」絵本には元服後の金太郎(金時)の話まできちんと載せてゐるものなのだらうか。
え、自分で調査しろ?
うーむー。
タキシーは苦手だ。
まづあれは密室だ。
大抵の密室殺人はまつたく密室ではない。本来なら「密室に見せかけた殺人」と呼ぶべきものである。
しかるにタキシーは密室だ。
運転手と客とが狭い空間に閉じ込められてゐる。
なんとも息苦しい。
また自分の行き先を告げなければならないのもつらい。
バスや電車なら自分が行き先を知つてゐればいい。
別段運転手や周囲の客に「どこに行くんですよ」と云つてまはる必要はない。
逆に迷惑がられるだらう、そんなことをしたら。
さらに、要所要所で方向指示を出さなければならない時がある。
現在通勤に使つてゐる駅は我が家からもつとも近い駅である。普段はバスで通つてゐるが、タキシーに乗る場合はバス通りではなく、俗に「裏」といふ道を使ふ。
試しにタキシーに乗つて我が家の方角を告げると、必ず運転手が訊いてくる。
「どちらから行きますか?」
と。
この時に「裏から」といへばちやんと「裏」から行つてくれる。ちなみに「裏」の反対は「バス通り」である。
裏から行けば千円とちよいで済むのだが、しかし、この時きちんと曲がる場所を告げないと大回りされてしまふことがある。
それがイヤなのと面倒くさいのとで「バス通り」を使ふ時もある。バス通りを使ふとどんなに安くても千六百円はかかる。せこい話かもしれないが、それだけ時間もかかるわけなので、慎重にならざるを得ない。
といふわけで、今宵は「裏」からと頼み、きちんと曲がる場所を伝へた。
だが。
心の中はなんとも複雑だつた。
なぜわざわざ曲がる場所まで伝へなければならないのか、と。
学生時代、とある店員の応対に憤つてゐる友人がゐた。
話を聞くだに店員の態度が悪いので、「さう云へばよかつたのだ」と云ふと、件の友人、
「だつてさう云つたらますますイヤな気分になるぢやないか」
と憤懣やるかたないといつた調子で答へた。
世の人は「これからの国際化時代、我々日本人も自分の思つてゐることをはつきり発言する必要がある」といふ。
だが、さうするといふことは、「云ふことによつてますますイヤな気分になる」ことを引き受けることでもある。
おそらく、「自分の思つてゐることをはつきり発言する」文化の人々はさういふ気分になることはないのだらう。あるのかもしれないが、「さうしたものだ」とわりきつてゐるか、わりきれない人は病にかかるのかもしれない。
口をつぐむかあるいはイヤな気分になつても口に出すか。
もしくはイヤな気分にならないやうにことばにする術を学ぶか。
いづれにしてもやつがれには今からそれを身につける猶予はなささうな気がしてゐる。
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