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Thursday, 28 October 2004

論語読みになりたい

いまさらだが。
やはり「論語」を読んでおかうかと思ふ。

中学生くらゐのころからほそぼそといはゆる中国古典文学みたやうなものを読んではきたのだが。
好んで読んだのは「韓非子」とか「孫氏」「史記」「十八史略」、「荘子」に「老子」といつた具合で、たまに唐詩。
それも上つ面しか読んでゐないのでまつたく身になつてゐない。

それにしてもみごとに四書五経が抜けてゐるのが我ながらなんといはうか……いやはや。
当時から儒教的なものに嫌悪感を抱いてゐたのがまるわかりである。

なんでそんなに忌避してゐたのかといふと、どうにも目上の人間に弱かつたからだ。
相手が目上の場合、それなりに敬意を払はねばならないし、さらに敬意を抱いてゐることを表明しなければならない。
もうせんこれが苦痛で仕方がなかつた。
今ならわかる。原因は、相手に敬意を抱いてゐなかつたから苦痛に感じたのである。
おそらく、ほんたうに相手に対して敬意を持つてゐたならば、自然に出るものなのではないか。
しかし当時は儒教的な考へ方にしばられてゐるからだと思ひ込んでゐた。

 世の中に絶えて儒教のなかりせば 我の心はのどけからまし

と、せばまし構文を使ふくらゐ、儒教を恨んでゐたのである。

そんなやつがれがなんで突然論語を読まうといふ気になつたのか。
それは今読んでゐる「定跡からヴィジョンへ」のせゐである。

この本は今北純一と羽生善治二冠との対談を載せたものである。
これを読んでゐて、羽生二冠はともかく今北純一に漢籍の教養のありやなしやといふのが異様に気にかかるのだつた。

そんなの関係ないぢやん、といふ向きもあらう。
実際、同級生で国際政治を極めやうといふ人物もあつたが、その人はなぜか漢籍にはまつたく興味をしめさなかつた。
学者を目指すといふことは、諸外国に出ていつて学ぶことをさす。
この時、漢籍の教養がまつたくない状態で、不安ではないのか。かはりとなる教養を何か身につけてゐるのか。
この場合の「諸外国」はめりけんとえげれすをはじめとする欧羅巴の国々であらう。めりけんはいざ知らず(いや、ただ単にやつがれが知らないだけです)、欧州の学者には羅典の教養があるのではないか? 本邦でそれに匹敵するものは漢籍しかないんぢやないか?

そんなわけで。
ほんたうに今更なのだが、論語を読んでみやうかと思つてゐる。
#つて別にやつがれが諸外国で学ぶわけぢやありませんがね。

……とここに書いておけば読むだらう。多分。

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