泣ける歌
以前も少し「泣ける歌」といふことで書いてみたが。
どうも世の中で「泣ける歌」と紹介される歌はやつがれの心の琴線に触れないらしい。
といふわけで、自分にとつての「泣ける歌」といふのを考へた時にあがつてくるのが
「岸壁の母」
だつたりする。
「岸壁の母」のどこが泣けるのか。
帰つてくることなどないとわかつてゐるのに、「もしかしたら」「ひよつとしたら」「なにかのまちがひで」戻つてくるのではないかと、日参する母親の姿といふのを想像したら泣けない人はゐないと思ふがなあ。
別に母と息子でなくてもかまはない。
もう会ふこともない恋人同士で考へてみたらどうだらうか。
頭ではわかつてゐるつもりでもあきらめきれず今日もまた駅に佇む悲しき人影。
ダメですか。
しかし、やはりここは「親と子」でなければならない。
なぜなら親子は一世だからである。
……と、ここまで書いてなんで今「岸壁の母」では泣けないのか、なんとなくわかつてきた。
今の世の中「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」なんてな考へ方をするものがゐないからだ。もちろんやつがれも含めて。
自分で書いておいて何を云つてゐるのだ、といふ向きもあらうが、さう、別にやつがれ「親子は一世云々」と信じてゐるわけではない。
信じてゐるわけではないけれども、「さういふ考へ方もあるよな」とは思つてゐる。
Billy Joel の "Good-nithgt, Saigon" も泣ける、と、これは以前日誌に書いた。
……両方とも戦死つながりか。
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