ぼんやりとした不安
今日も愚痴です。
芝居見物に行つた。歌舞伎座は恒例八月三部制の二部へ。
二部は「蘭平物狂」と「仇ゆめ」で、もちろんやつがれの目当ては「蘭平物狂」であつた。
「蘭平」は、音人以外は文句のない状態だつたのだが。
#音人……といふよりは与茂作は成駒屋より高麗屋だらう、といふのがやつがれの意見である。
といふわけで問題は「仇ゆめ」なのである。
これは、北条秀司の手による新作もので、歌舞伎座でかかるのは三十五年ぶり、といふ舞踊劇とでもいふやうな一幕であつた。
内容をかんたんに書くと、壬生野に住まひする狸が島原の深雪太夫に惚れてしまふ。そこで太夫の舞の師匠に化けて太夫の下に通ふ。太夫は実は舞の師匠にぞつこん(死語?)で、にせものとは知らず狸の甘い言葉を真に受ける。だがやがて真相が知れ、揚屋の亭主が若い衆とともに狸を半殺しの目にあはせる。狸は一目太夫に会はずには死ねぬ、と青息吐息で太夫のもとにあらはれ、太夫に看取られて息を引き取る。
といふ、最初笑はせてやがてほろり、といふ体の話で、まあそれ自体は可もなく不可もない。
問題は演出、といふのかのう。
狸は舞の師匠に化けてはゐるが、当然舞なんぞしたことがないので、珍妙な振り付けを指南する。
これが、ほとんど西洋音楽のノリなのである。
それが悪いとはいはない。
また、狸をやつつける前に、「狸は酒、特に香りの高い酒に弱い」といふので、狸に隠れて揚屋の亭主が酒のにほひをそれとなくかがせる場面があつて、ここを狸殿(中村屋)は実に大袈裟に(どちらかといふと下品に)なさる。
それが悪いとはいはない。
そして幕が降りたあと、観客席からは「おもしろかつたわね~」の大合唱なのである。
いや、確かにやつがれも「おもしろい」とは思つたよ。でもそんな「おもしろかつたわね~」としみじみ云ふほどの一幕だつたらうか……。否。絶対、否である。
ちがふんだ、ヲレが見たいのは「蘭平」だつたり「文弥殺し」だつたり「実盛物語」だつたりなんだよ(ちなみにこの八月・九月・十月」に歌舞伎座にかかる(予定の)芝居である)。
あるいは「沼津」や「岡崎」(これは十月に国立劇場で見られる予定)もいい。
もつといふと、「盟三五大切」とか、「新薄雪物語」とか「寺子屋」とか……。
と、見たい芝居はいくつもあげられるが、その中に「仇ゆめ」はない。今後も入らないと思ふし、「仇ゆめ」のやうな芝居が入ることもないだらう。
そんなにお笑ひに走りたいなら「雁のたより」でもやればいいのに、と思はないでもないが、これは中村屋にはできまいなあ。かといつて扇雀では絶対見たくない。翫雀もしかり。
あ、あとはあれか、「松竹梅湯島掛額」。でもなあ、紅長は中村屋より大和屋で見たいかなあ。
澤瀉屋が「スーパー歌舞伎」をはじめたやうに、中村屋も何かしやうといふ、その意気やよし、とは思ふ。
だがなあ、向いてる方向が何かちがふやうな気がするのだ。
おそらく、中村屋に面とむかつてさういふ人はゐないだらうし、それに中村屋の向いてゐる方向は結果として正しいのかもしれないとも思ふ。
しかし、もしさうなら残念ながら芝居さんから段々とほざかつていくかもしれない。
だが、どうやら客席の大勢としては「かういふ芝居やよし」なんだよなあ。
ほぼ満員の歌舞伎座の客席で、「四面楚歌」といふことばをしみじみとかみしめる今日のやつがれであつた。
ああ、ぐにやぐにやなんじをいかんせん。
以上、愚痴でした。
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