Tuesday, 14 August 2018

ドイリー: この立場なきもの

レース編みやタティングレースをしてゐると、どうしてもドイリーが増える。
ドイリーとはなにか。
辞書には花瓶などの下に用ゐる小さな敷物といふ旨のことが書いてある。

各家庭に黒電話があつたころは、電話の上にレース編みのカヴァが、下にレース編みのドイリーがあつたものだつた。
少なくとも我が家では母の編んだかぎ針編みのレースがかかつてゐて、敷いてあつた。
しかしいまはその黒電話がない。
固定電話さへなくなりつつある。

レース編みのドイリーは行き場がなくなつてしまつた。

ドイリーの使用方法としては、食器棚に皿をしまふときに傷を付けないやう皿と皿とのあひだにドイリーをはさむ、といふものもあるといふ。
それはいい案であると思ふ一方で、食器棚の中ではせつかく作つたものが見えなくなる。
それはそれでいいのかなあ。
見えないところにきれいなものを置いておくといふ美もないぢやない。

しかしドイリーには居場所がない。
少なくとも我が家にはない。
ドイリーなんぞを麗々しく飾れるやうな部屋がないからだ。
レースのドイリーを飾るならもつとあちこち片づける必要がある。

ドイリーは必要ない。
せめてコースターくらゐ小さいとか、テーブルセンターやテーブルクロスくらゐ大きければいいのだが、大きさも中途半端だ。
ドイリーは役に立たないといつてもいい。
それなのになぜ作つてしまふのか。

ドイリーを編んでゐると如何にもレース編みをしてゐるといふ満足感に浸れるからだ。
レース編みといつたらドイリーでせう、くらゐのいきほひである。
レース編みができるやうになると、まづ作りたくなるのがドイリーだ。
レース編みの本に掲載されてゐるものもドイリーが多い。
「レース編み=ドイリー」なのだ。

そんなわけで、久しぶりにタティングレースでドイリー作りをしてみやうと思つてゐるのだが。
なんとなく挫折しさうな気もしてゐる。
はたしてドイリー作りへの一歩を踏み出すか否か。

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Monday, 13 August 2018

趣味≠特技

趣味と特技とは一致しないこともある。

正直云つて、もともと手先の器用な人がはじめて編んだものと自分がいま編んだものとを比べたときに自分の方が目のそろつたきれいな編み地を作れるとはちよつと思へない。
あみものが好き、といつてもさういふ状態なのだ。

以前、ジェニーやリカちやんの服を作るのに熱中してゐたことがある。
毎週土日になると、ひたすらちくちく人形の服を縫つてゐた。
なぜミシンを使はなかつたのかといふと、ミシンも苦手だからだ。
もともと苦手なのに人形サイズの服にミシンをかけるだなんて、到底ムリだと思つてゐた。
実際、ミシンを使つて縫つた服もないぢやないが、基本的には全部手縫ひ、フレアスカートの裾なども全部手でまつつたり縫つたりしてゐた。

それで縫ひものが好きになつたり得意になつたりしたか、といふと、それがどちらも全然そんな風にはならなかつた。
結局、最近では人形の服は編みはしても縫ふことはなくなつたしね。
最初のころよりは縫ひ目も安定してきただらうとは思ふが、あまり実感はなかつた。
ひとつだけ上達した実感があつたのは、スナップ付けがうまくなつたことだ。
早くきれいにできるやうになつた。
それももう全然やつてゐないので、多分もとの状態に戻つてゐることだらう。

斯様に、苦手でもやることはある。
しかし、得意にはならない。
好きにならない場合もある。
やつがれの場合は縫ひものがさうだつた。

一方のあみものはといふと、あひかはらず編み目がそろはなかつたり模様編みをきれいに編めなかつたりすることは往々にしてある。
昨日もひさしぶりにくつ下を編み始めてみたところ、さつそく編み目がガタガタになつてゐることを確認した。

Sock in Progress

それでもあみものは好きだ。
手の動きが好きなんだな。
これはタティングレースにも云へる。
手に針を持ち、指に糸をかけ、編み目に針を入れて糸を引き出す。
さうした一連の動きがとても気に入つてゐるのだつた。

ここのところ腱鞘炎のせゐであみものをほとんどしてゐなかつた。
昨日久々に棒針編みをしてみて、かぎ針編みほどには指に影響がないことが判明した。
なので、今後しばらくは暑さに負けずくつ下など編むことだらう。
ヨガソックスになる予定だ。

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Friday, 10 August 2018

消費者にできること

「ダメ女たちの人生を変へた奇跡の料理教室」を読んだ。

著者キャスリーン・フリンは、三十六歳のときに渡仏してその後ル・コルドン・ブルーを卒業したといふ。
そんな著者がスーパーマーケットでインスタント食品の箱ばかりを買物かごに入れてゆく女の人を見かけたことから、世の料理が苦手といふ人に料理を教へたらどうなるだらうと考へて、料理教室を開くに至る。

教室は、まづ包丁の扱ひ方からはじまる。
食材を刻めるやうになると料理が楽しくなるからだ。
その後の教室ではオリーヴ・オイルや塩、チキンスープなどのテイスティングをしてほんもののおいしさ、ラベルを読むことの大切さなどを教へる。
また鶏をまるごと扱ふことで、食肉はもとは生きた動物であつたことや肉の感触などを学ばせる。
ドレッシングの作り方なども基本の油の量と酢の量さへ守れば好きなものを入れて好きな味・食材にあふ味が作れることを伝へる。

最初は自前の包丁にさへ自信のなかつた生徒たちが、次第に自信に満ち、積極的になつていくさまがおもしろい。

生徒は十人。二十代から六十代まで、生活環境も暮らし向きも異なる女の人たちだ。
教室のはじまる前に、著者は一人一人の家を訪れて台所のやうすや冷蔵庫の中身を確認し、手料理をふるまつてもらふ。
そして教室が終はつて数ヶ月たつたころ、また訪問してゐる。

最初の訪問でわかることは、食生活はそれまでの各人の生ひ立ちや環境が反映したものだといふことだ。
マクドナルドが好きなのは、父とその再婚相手と暮らしてゐたこどものころ実母につれて行つてもらつて食べたものだから、とか。
サルモネラ菌が怖いから肉を焼きすぎてしまひ、いつも黒こげになつてしまふ、とか。
親や夫にバカにされてから包丁を持つのがイヤになつてしまつた、とか。

生徒の何人かに共通してゐる点は、「料理が怖い」といふことだ。
失敗するのが怖い。
理由はわからないが怖い。

著者は、「料理を失敗してもいいぢやない」といふ。
一度の料理を失敗したところで、どうつてことはない。
そしてそれは生徒たちにも浸透していく。

教室終了後、食生活の変はつた生徒の多さに驚く。
食生活はなかなか変へられないものだ。
実際、著者はFacebookでさういふメッセージをもらつて、送つてきた相手をアンフレンドしたと書いてゐる。
これまでの生ひ立ちや環境によつていまの食生活にたどりついたのだとしたら、確かに変へるのはむつかしいだらう。

それが変はる。
生徒たちがこの教室で受けた衝撃のほどが知れる逸話だ。
それほど変はらなかつた人も、考へ方は変はつてゐたやうに見受けられた。
ちよつとおそろしいほどの影響力だと思ふ。

やつがれがおもしろいと思つたのは、食品のラベルを読み内容物を知り、それをもとに購買していけば、消費者が世界を変へていける、といふ点だ。

本の中にケーキミックスの話が出てくる。
最初のケーキミックスは、ほんたうにかんたんにで、中の粉のほかには水を混ぜるだけ、みたやうな状態だつたといふ。
だが、消費者には受け入れられなかつた。
あまりにかんたんすぎて「料理をしてゐる」「ケーキを作つてゐる」といふ感覚に乏しかつたからだと判断した企業は、卵や牛乳など、ケーキミックスに混ぜ合はせるものを増やしたのだといふ。
結果、ケーキミックスを使つたときと使はなかつたときとでかかる時間はあまり変はらなくなつたけれど、ケーキミックスは売れるやうになつた、といふのだ。

店の棚に並んでゐる食品は、企業が売らうとして作つたものだ。
必ずしも消費者が「これがほしい」といつたものが並んでゐるわけではない。
消費者にできることは、その中から自分たちの健康や生活に適した商品を選ぶこと、それにはそれぞれの商品になにがどれくらゐ入つてゐるのか一々ラベルなどで確認すること、場合によつては店員などに訊くことだ、といふ。
そして、消費者にとつてよいものを買ふ。
企業も売れないものは作らないので、結果として消費者の得になる商品が出回るやうになる。

ラベルを読むのはめんどくさい。
安くて味がまあ許容範囲なら、それでいいぢやあないか。
さういふ向きもあらうし、やつがれもさう考へる方だ。
しかし、消費者がちやんと考へて行動しないとなにも変はらない。
反対に、自分にとつてよいものを選んで買ふやうになれば、それで世界は変へられる。

これつて、民主主義の世界とおなじことだよなあ。
人間一人一人がきちんと考へて行動しないと、ろくな世の中にはならない。
めんどくさがつてすべて任せてゐると、いつのまにか独裁主義政権のもとにゐることになる。

問題は、どうやつたらめんどくさがらずに暮らせるか、といふことだなあ。

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Thursday, 09 August 2018

ペネックとカクノと情報カード

あたぼうステーショナリーのペネックでパイロットの万年筆カクノを持ち歩かうと思つたのには、ふたつ理由がある。

ひとつは増殖するkakunoをまんべんなく使ひたいと思つたからだ。
毎日「今日のカクノ」を決めて、ペネックに入れて持ち歩く。
かうすればそのカクノを確実に使ふことになる。
出先でなにも書かないこともあるだらうつて?
それはそのとほりだ。
だが、毎日ペンを入れ替へるので、帰宅後はペネックを机のうへにおいてゐる。
そこらへんにぬかりはないのだつた。

もうひとつの理由は、カクノがコレクトの5×3カードと相性がいいことだ。
コレクトの5×3カードではセクションと呼ばれる方眼罫の情報カードを愛用してゐる。
このカードに普段使つてゐる金ペンで書くと、なんとなく書きにくいことがある。
その日の温度や湿度、気圧によつても違ふのかもしれないし、やつがれの気分によつても違ふ。
中屋万年筆の十角軸でよく書けるなあと思つたら、翌日はあんましよくなかつたりとか、かなり頻繁にあるし、ほかのペンでも同様だ。

カクノはさういふことがあまりない。
ペン先はEF、F、Mと持つてゐて、いづれも書き味にはそれほど差はない。
中に入れてゐるインキもペンによつてさまざまだ。
パイロットの色彩雫を入れてゐるものもあれば、プラチナの古典インクを入れてゐるものもある。
最近お気に入りなのは、中字にLANYのペトロールを入れたペンだ。
これがちよつとぬめりのあるなんともいへないたまらない書き味なのだつた。
ぬらぬらよりも粘り気があるやうに感じる。
書いてゐて、ペン先と紙とがはなれたがらない、そんな感覚を覚える。
コレクトの5×3カードに書いても同様だ。

ペネックにカクノを入れて持ち歩くやうになつてからといふもの、情報カードの字が読みやすくなつたやうに思ふ。
書きやすいから字を書くときに気をつける余裕が生まれるからだらう。

情報カードについても増殖しつつあり、しかもやつがれの暮らしやうではこれは役に立たないのではあるまいかといふ気がしてならないのだが、それを考へなければ、いまのところいいことづくめだ。

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Wednesday, 08 August 2018

その後のペネック

あたぼうステーショナリーのペネックを持ち歩くようになつて早三週間。
時が経つのは早いものだ。
さう思ひつつも、「え、まだ三週間しか経つてゐないの?」といふ気分でもある。
なんか、もう馴染んでしまつてゐるのだ。
生活の一部とでもいはうか。

職場にゐるときはいつでも社員証と一緒にぶら下げてゐて、出勤退勤途中はかばんの中に入れてゐる。
休日はストラップをかばんの持ち手などに結はへつけて持ち歩くことが多い。
前回も書いたやうに、休日は襟のない服を着ることが多いからだ。
出勤するときは社員証を首から下げないといけないので襟のある服を選ぶやうにしてゐる。
社員証を下げてゐるストラップが直接首にあたるのが気になるからだ。
とくにいまの時期は汗を吸ふだらうしさ。
まあ襟があつたところで吸ふんだらうけども。

馴染んでしまふと持ち歩いてゐることを意識しなくなる。
そんなわけで、使ひ心地云々といふのもあまり感じない。
あたりまへにそこにあり、あたりまへのやうに使ふ。
さういふ存在になつてゐる。

そんなペネックだが、ひとつだけ心配な点がある。
それは、ボタンがなんとなくゆるい気がすることだ。
ペネックは上部のぺらぺらした部分をストラップに巻きつけてボタンでとめるやうになつてゐる。
このボタンがぱつちりとまりはするものの、どことなく手応へに欠ける気がするのだつた。
これ、何度もつけたりはづしたりをくり返してゐたら早晩ダメになるんぢやあるまいか。
いまのところ一日に一度はつけはづしをしてゐる。
そのたびにそこはかとなく不安になるのだつた。

だつて、もうあるのがあたりまへなんだもの。

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Tuesday, 07 August 2018

復刻本とタティング熱

Medium でタティングレースに夢中な人の記事を読んで、突然タティング欲がわいてきた。

単純である。

そんなわけで、Chinese Coin Bookmark に挫折したまま糸の巻いてあるシャトルを手にした。
たまたま立ち寄つた本屋では、藤戸禎子の「復刻版 タティングレース モチーフ&エジング101が復刊されてゐて、思はず買つてしまつた。
もとの本はスパイラル綴じで使ひやすかつたが、そのせゐか手に取りすぎてヨレヨレになつてゐるから、と云ひ訳して。

記事に、タティングを修得するのが如何に大変なことであつたか語つてゐる場面がある。
書いた人はYouTubeを見たりした、とあるけれど、動画を見ながら覚えても大変なのか、としみじみしてしまつた。

タティングをはじめたばかりのころYouTubeで公開されてゐるタティングの仕方の動画があつたなら、と時々思ふが、動画を見ながらでも大変なんだなあ。

タティングのスティッチについては、この記事にもあるやうに、「Lark's Head knot」だとか「ハーフ・ヒッチ」と書いてくれればそれでわかる人もゐるだらうにな、と思ふ。
マクラメをやつてゐればその名もずばり「タッチング結び」といふ結び方もあることだし、輪などに結びつけてから作り始める時はこの「Lark's Head knot」をするはずだ。

マクラメ人口がそんなに多くないか。

家に帰つてシャトルを手に、藤戸禎子の本からシャトル一つでできるモチーフを作つてみた。
写真がないのは、家にクロススティッチ針を持ち帰るのをうつかり忘れてしまつて糸始末ができなかつたからだ。

さう、タティングの問題のひとつに糸始末がある。
この記事の中にはなぜ人はタティングをしやうとしないのかについての考察があるが、その中には糸始末の問題はない。
それ以前にタティングに興味を持つてはじめやうといふ人が少なすぎるからだらう。

タティングは、自分にとつてはくつろげる趣味で、それほどきりきりしなくてもできる手芸だと思つてゐる。
糸始末をのぞけば。

もともとの糸が細い上に、細かい結び目に糸をくぐらせていかなければならない。
さもなければそれとわからぬやうに結び目を作らねばならない。

どちらもきりきりしなければできない仕事だ。

この問題をなんとかしやうとして、基本的にはいつも magic thread 方式を取り入れてゐる。
それを夕べはやらなかつたんだねえ。失敗失敗。

涼しくなつてきたら、極細毛糸でタティングをしてみやうかなあ。
毛糸だと糸始末が格段に楽だからね。

そんなわけで突然のタティング熱だが、いつまでつづくだらうか。
気温の低いうちだけか。

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Monday, 06 August 2018

返り血を浴びながら編みたいか

文学の中で一番有名なニッターといつたら、「二都物語」のマダム・ドファージュぢやあるまいか。

「二都物語」は、フランス革命のころのフランスとイギリスとを舞台にした物語だ。
酒屋の女将であるマダム・ドファージュは貴族に虐げられた家族の復讐を誓つてゐる。
マダムはいつでもあみものをしてゐる。
編みながら、復讐する相手の名前を、のちにはギロチン台に上がる人々の名前を編み込んでゐるのだ。

あみもの者としてはここでひつかかる。
えー、そんな憎い相手の名前を編み込んだものを、どうするの?
使ふの?
まさかね。
くつ下であれば、日本なら「踏みつけにする」といふ意味もあらうが、フランスでそれはどうよ、といふ気もする。

あみものは時間がかかるし、編んでゐるうちに愛着もわくので、復讐したい相手の名前を編み込んだりしたくないよなー、と自分なら思ふ。

当時はいまとは違つて、あみものは内職としてどこでも普通に見られるものであり、編みながら愛着を感じることなどなかつた、とも考へられるが。
でもなー、やつぱりないよなー。

「紅はこべ」だつたかには、ギロチンの横で首を斬られた人の血を浴びながらあみものをしてゐる人の話が出てくる。
実際、ギロチンの周囲にはあみものをする人々がゐて(tricoteuseと呼ばれたといふ)、自由の象徴たる帽子を編んでゐたといふのだが、どうなのかなあ。

世の中が殺伐としてくれば、あみもののつとめといはうか役割といはうかも変はつてくるといふことか。
といふことは、今後はやつがれもまたマダム・ドファージュのやうに殺しても殺したりない相手の名前を編み込みながら帽子やくつ下を編むやうになるのだらうか。

その前に編み込みを覚えないとなー。

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Friday, 03 August 2018

無手勝流 熱中症対策

熱中症が不安である。

熱中症にかかつた人の談話を聞くと、倒れる直前まで自分が倒れるとは思つてゐなかつた、といふ。これが結構多い。
先日NHKのニュースに答へてゐた九十代の方は、熱中症で倒れるまでは絵を描いてゐたのだといふ。
絵を描くときはいつも楽しいのに、なんだか楽しくないなと思つてゐたら、倒れたといふ。
暑いといふ気持ちはなかつたのださうな。

つまり、熱中症にかかつてゐるかゐないか、自分では判断がむつかしいといふことだと理解してゐる。
かかつてしまつたときにはもう、自分が熱中症なのかどうかわからない状態になつてゐるのかもしれない。
つねに注意してゐるやうでないと、熱中症は防げないのだ。多分。

といふわけで、ぢやあ水分を取ればいいのか、水分だけぢやなく塩分や糖分も取ればいいのか、といふと、それだけではないんぢやないかといふ気がしてゐる。

ニュースなどでは「水分の補給、それと塩分と糖分も」といふやうなことを云つてゐるが、自分のTwitter の TimeLine に流れてくる情報ではそれだけではダメなのらしい。

体温を必要以上にあげないことが重要なのだ、といふ。
どんなに水分を補給しても、たとへ経口補水液を飲むやうにしてゐたとしても、灼熱状態の中にゐてはダメだといふことだ。
暑さから逃げること、逃げられないのだつたら冷たいものを躰にあてて体温を下げるやう心がけること。
それが肝要だ、といふのが、数多流れてきたRTからやつがれが出した結論である。

といふわけで、「この暑さはヤバいな」と思つたら、小振りの保冷剤を手ぬぐひに包んで首筋や腋の下にあてるやうにしてゐる。
ほんたうは鼠蹊部にもあてるといいのらしいが、あてつづけるのがむつかしい部位なのでできるときだけあててゐる。
首筋・腋の下・鼠蹊部にはそれぞれ太い動脈が通つてゐるので、保冷剤で血液の温度を下げるのがいいといふのだ。

さういや救急病棟で高熱を発してゐる人の首筋・腋の下・鼠蹊部に氷枕のやうなものがあてがはれてゐたのを見たことがある。
体温を下げるのに役立つのは疑ひなささうだ。

ただ、これに関しては、「熱中症には首筋・腋の下・鼠蹊部を冷やしてももう手遅れ」といふ内容のつぶやきが Twitter に流れて来もした。
大本は Facebook に書かれてゐたのだといふ。

それで一時は、首筋・腋の下・鼠蹊部を冷やしても熱中症対策にはならない、といふやうなつぶやきも流れてきたものだつた。

でも元の記事をよくよく読むと、重度の熱中症になつてしまつた場合は、といふ話のやうに思へる。
まだ意識があり、自分で水分を摂取できるやうな状態の場合なら効果はありさうだ。
熱中症といふのが発汗などの手段によつて体温を下げることができなくなることで生じる状態なのだとしたら、水分・塩分・糖分を取るだけではダメで、体温を下げるやうな働きかけも必要だ、といふことだ。
さうやつがれは理解してゐる。

そんなわけで、水分の摂取にはげみつつ、せつせと保冷剤を首筋や腋の下にあてる日々なのだつた。
ほかのことなんて、碌々できやしませんや。

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Thursday, 02 August 2018

ちかごろの京都の町の変はりやう

「京都買います」は、度を越した恐がりのやつがれでも見ることのできる数少ない「怪奇大作戦」のエピソードのひとつである。

なぜといつて、まづ怖くない。
とくにヴィジュアル的に恐ろしいものが出てこないといふことが大きい。
「狂鬼人間(はそもそも見られないといふ話もあるが)」の大村千吉とか、絶対見られないもの。怖すぎて。

まあそもそも「「怪奇」大作戦」といふ名前がよくないといふ話もあるのだが、それはそれとして。

「京都買います」とはどんな話かといふと、「仏像を愛した女の話」である。
仏像を愛する一方で、その仏像のおはします京都の町の変貌をなんとかしたいと思ひ、そこで「京都買います」といふことになるわけだ。
実際にしてゐたことは仏像の窃盗なんだけどね。

「怪奇大作戦」といふTVドラマ自体は、世の中の怪しい事件を科学捜査研究所(SRI)の面々が解き明かす、といふ内容だ。
「京都買います」は、夜な夜な忽然と消へる仏像の謎をSRIが追ひかけるといふ話、ともいへる。

さういふわけで、SRIの牧史郎と仏像を愛する女・須藤美弥子とが出会ふわけだ。

ところで世の中には「聖地巡礼」といふことばがある。
聖地巡礼といへば個人的に最初に頭に浮かぶのはイスラム教徒のメッカへの巡礼なのだが、まんがやアニメ、映画やTVドラマなどの舞台やモデルとなつた土地や建物などを訪れることを「聖地巡礼」と呼ぶ。
最近では「この世界の片隅に」の舞台になつた呉市や、「君の名は」の数寄屋橋……ぢやなくて「君の名は。」の飛騨だとかが有名だらうか。

今年で放映五十周年を迎へる「怪奇大作戦」の舞台となつた場所にも「聖地巡礼」をする人々はゐて、「京都買います」にもとづく「聖地巡礼」はWeb検索をかけるとそれなりの数検索結果があらはれる。
写真を掲載してゐるWebサイトもたくさんあつて、さうした写真を見てゐると「京都買います」のころそのままなところが多い。
店が移転したとか、黒谷でいふと一部朱塗りになつたところがあつたりとか、化野念仏寺でいふとドラマ内で歩いてゐたところが立ち入り禁止になつてゐたりとか、さういふ違ひもないわけではない。
しかし、牧と美弥子とが一緒にゐたところ、またドラマ最終盤でひとりさまよふ牧の立ち寄つたところは驚くほど変はらない。
冬の時期に祗王寺に行くと、椿が一輪だけぽつりとある。
そんなところまで一緒なのだ。

最初のうちは、「ロケ地は寺社ばかりだもの。変はらなくてもそりや当然だよね」と思つてゐた。
だがよくよく考へてみると、これはさういふ風に撮つたのではあるまいか、といふ気がしてくる。

エンディングに出てくる場所は、いまではどこだつたのかわからないくらゐ変はりはててゐるからだ。
エンディングに出てくるのは巨大な換気口やガスタンク、京都タワーや東寺さんの五重塔を望む住宅地などだ。
もう存在しないものも多いだらう。

「京都買います」は、仏像を愛し古いままの京都を望む美弥子とそんな美弥子に惹かれる牧とを描く場面では一見不変とも思へる場所を舞台に選び、エンディングには美弥子や美弥子の師である藤森教授が「いまの京都の変はりやう」と嘆く京都を舞台に選んで撮影された、さういふドラマなのではあるまいか。

そんな気がしてくるのである。

そんな意図なくして撮られたとしたら、それはそれでこの見事な対比にうなるばかりだ。

昨日の「歌舞伎買います」にからめて、それぢや歌舞伎はどうなの、といふ話をしやうと思つてゐたが、長くなつてしまつた。
それはまた別の機会に。

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7月の読書メーター

7月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:1706
ナイス数:21

易経〈上〉 (岩波文庫)易経〈上〉 (岩波文庫)感想
米光一成の「思考ツールとしてのタロット」に「コレスポンデンス」という考え方が出て来る。易経もコレスポンデンスでできているのだなあと思いながら読む。なんだか楽しい。
読了日:07月02日 著者:
易経〈下〉 (岩波文庫 青 201-2)易経〈下〉 (岩波文庫 青 201-2)感想
年を取ると新しいことに出会った時にそれまでの自分の経験と照らし合わせて似たものを引っ張り出してきて「これのようなものだ」と思うようになるという。そこで終わるのではなくて、過去に出会った似たようなもの(と自分が思うもの)と新しいものとを衝撃させて新たな視点新たなものの見方を身につければそれもまたそんなに悪いことではないのではないか。易もまたそうして読み解いていくとよいのではないか。そんな風に今回は読んだ。
読了日:07月05日 著者:
知的生産の技術 (岩波新書)知的生産の技術 (岩波新書)感想
生産に目が向いていた今までに比べて、「どうせ自分は生産なんかしないんだし、だったら紙の整理だろう」ともっと前に気づきたかったよ。いまさら遅いよ。多分、そういうシステムを取り入れたらこどもが小学校からもらってくるプリントもうまいこと処理できるようになるんじゃないかと思うのだが甘いかな。
読了日:07月06日 著者:梅棹 忠夫
その情報,本当ですか?――ネット時代のニュースの読み解き方 (岩波ジュニア新書)その情報,本当ですか?――ネット時代のニュースの読み解き方 (岩波ジュニア新書)感想
ここ数年NHKの午後九時のニュースを見るとトップニュースにがっかりする。「これがトップ?」と思う。そういう状況であることは中にいるとわからないのかもしれない。でも、そういうニュース番組を作っている放送局の人間であることを前面に出して「本当の事実」などと云われると眉につばをつけたくなってしまう。どうやったら本当の事実にたどりつけるかという話はほとんどないので肩透かし。最後にかろうじて「国会図書館」が出てくるが、この本の対象読者には向かない内容かと思う。
読了日:07月16日 著者:塚田 祐之
The Prodigal Tongue: The Love-Hate Relationship Between American and British EnglishThe Prodigal Tongue: The Love-Hate Relationship Between American and British English感想
人類皆平等(という建前)の国と階級社会の国との違いという話がおもしろかった。米語と英語とはスペイン語とポルトガル語ほど変わらないわけ、とかも。「英語でしゃべらナイト」でもいっていたいわゆる「グローバル・イングリッシュ」には米国人や英国人は関わらない方がいい、とかね。外国語で話す体験に乏しいから、というのが理由のひとつだった。なるほどねえ。
読了日:07月19日 著者:Lynne Murphy
植草甚一の勉強植草甚一の勉強感想
植草甚一の全著作を出版順に取り上げている。関東大震災から植草甚一は変わったという旨のことを述べていて、それとは別の話として植草甚一は政治に興味がなかったとか無知だったとかある。だったら市川猿之助の松竹離脱の記事をあんなに丹念にスクラップしていないだろうと思うのだが、澤瀉屋の事件は震災の前だったか。読み返したくなる本もあるけれど、大半は学校に通っている時分に図書館で借りた本で手元にはない。入手できそうな本を探してみるかな。
読了日:07月27日 著者:大谷 能生

読書メーター

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