Friday, 24 February 2017

安い朱色の「三人形」

先週、大阪松竹座で二月花形歌舞伎を見てきた。

昼の部のうち、「義経千本桜」の「大物浦」「碇知盛」は、後半が絶叫合戦になつてしまふのは想定内だし、こののち芝居の引き出しの増えることがあれば解消されるだらう。

問題は「三人形」だ。

「三人形」は奴・傾城・若衆の三体の人形に命宿つて舞ひ踊るといふ所作事である。

傾城の出てきたときのショックといつたらなかつたねえ。
衣装の朱色の安つぽいこと。
品もなにもありやしない。

もう二十年も前だらうか。
衣装の赤い色がぺかぺかと安つぽくなつていけない、といふ話があつた。
当時はよくわからなかつたけれど、「三人形」を見たときに「かういふことなのかな」と思ひ出した。

朱色だけならまだしも、帯が緑地なのがまた念入りに安つぽい。
文楽や歌舞伎で緑色と朱色との衣装を着る役つて、あんましいい人ぢやあない。
なんかもつとほかの色合ひにはできなかつたのだらうか。
以前見たときは朱色ではなくて赤だつたやうな気がする。

チラシの写真だとそんなに安つぽくも見えないんだけどな。
照明の問題だらうか。

さらにいふと、この傾城の衣装の朱色が若衆の衣装の色と壊滅的に合はない。
若衆は上が青紫、袴が明るい黄緑といつた衣装で、これは以前見たのとおなじだと思ふ。
この青紫と朱色とが実に合はない。
見てゐてつらくなつてくるくらゐに合はない。

歌舞伎を見て「この色合はせ、つらい(>_<)」とか思つたの、はじめだよ。

歌舞伎がほろびるとしたら、かういふところから滅びるんだらう。
歌舞伎座で、大道具のお粗末さに毎月さう思ふ。
床や畳を表現する布の敷きかたが、あまりにもいい加減だ。
ところどころ皺がよつて浮いてゐる。
今月はたうとうその浮いたところに足を取られた役者がゐたといふ。

見てゐると、大道具担当の中に粗忽な人がゐるのがわかる。
盆が回つてとまると、大道具の人々が出てきて上手下手それぞれの布の端を引つ張つてのばす。
このとき、布の両端をきちんとのばす人と、一番長くて鋭角の端だけしかのばさない人とがゐる。
後者のやり方をすると皺ができるといふ仕組みだ。

客席から見てゐてわかるのだから、大道具や役者、舞台関係者はみなわかつてゐるだらう。
わかつてゐて放置してゐたから蹴つまづく役者が出てくる。
これが年老いた役者でそのまま転んで骨でも折つてゐたらと思ふとおそろしくて仕方がない。

織りや染めにしてもさうだ。
玉三郎がときに超絶豪華な衣装を着るのはなにも自分をうつくしく見せるためだけではあるまい。
さういふ衣装を作ることによつて技術の継承をうながしてゐる。
さうだと信じてゐる。

何年も前にもう豆絞りの手ぬぐひは染められなくなつた、と聞いた。
このとき、確か菊五郎が一疋買ひ占めたと耳にした。
豆絞りの手ぬぐひがなかつたら、浜松屋の引つ込みができなくなる。
それとも買ひ占めたと聞いたのは藍微塵だつたか。
「切られ与三」の源氏店の場で、与三郎の着てゐる衣装の生地が藍微塵だ。
豆絞りはそれでも有松絞りでまだあるやうだから、藍微塵かもしれないな。

染めた赤い色がぺかぺかするのもさう。
襖の花丸が碌々描けてゐないのもさう。
かういふところから歌舞伎は滅びてゆくのだらう。

衣装や鬘、大道具・小道具は、今後はこれまで「歌舞伎らしい」と思はれてきたものとはと変はつてゆくのかもしれない。
「あらしのよるに」などを見ても、大道具で建物などを作成するよりプロジェクション・マッピングを取り入れていくのかな、といふ気がしてゐる。

でも、それは歌舞伎なのかな。
なにか違ふものになるのではないかな。
そんな気がしてゐる。

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Thursday, 23 February 2017

やつぱり云ひ訳

こどものころから親や学校に云はれたことはさつぱりつづかなくて、「自分には根気といふものがないんだな」とずつとさう思つてゐた。

夏休みになると一日の生活をふり返つて、今日の天気はどうで、ラジオ体操には行つたから「○」、ゴミ捨てのお手伝いはしなかつたから「×」などとつける表があつた。
これを夏休みのあひだ毎日つける。
本来は毎日つけるべきなのだ。
でも、大抵は8/31にまとめて全部つける。
天気のことなど記憶にないからあいまいになる。
いまだつたらWebで検索をかければすぐなのにね。

また、親から「あれをやれ」「これをやれ」と云はれたこともつづかない。
部屋のかたづけやピアノ・そろばんの練習がそれかな。
毎日しなければいけないのに身につかないのに、できない。

自分には毎日毎日こつこつとなにかをしつづけることができないんだな。
長いことずつとさう思つてゐた。

ところが、最近になつて自分でやると決めたことは案外つづけられることに気がついた。

Bullet Journal に Tracker といふ形でその日一日できたことを○×でつけてゐる。
どの項目もほぼ毎日できてゐる。
やつてゐることはたいしたことではない。
でも親に云はれてつづかなかつた目の体操なども、いまはほぼ毎日できてゐる。
旅行などにいくとうつかり忘れてしまふこともあるが、また翌日からはつづけられてゐる。

なんだ、できるんぢやん。
自分にもひとつのことをずつとつづけることができる。
気がつかなかつたなー、いまのいままで。

そんな感じで気をよくしてゐたのだが、ただひとつできないことがある。
それは、睡眠時間を優先すること、だ。
一番重要だな睡眠時間の優先ができてゐない。

以前よりましになつてゐるのは確かだ。
以前は睡眠時間を削るやうにしてあみものやなにやらをしてゐた。
さうする以外に編む時間を捻出することができないからだ。
始発で出かけて終電で帰宅して、それでもあれこれやつてから寝てゐた。

朝起きて出勤して帰宅して夜寝る。
それだけの暮らしになんの意味があらうか。

当時はさう思つてゐた。
いまでもさう思つてゐる。

でもしたいことをするには気力や体力が必要だ。
睡眠が不足してゐてはしたいことも碌々できない。

そのことに気づいて、矛盾してゐるやうではあるけれどもしたいことをいろいろあきらめて睡眠時間の確保に汲々としてきた。
さう、汲々としてゐる。
睡眠時間の確保に。

一説によると、就寝時間がずるずると遅くなるのは、「やりきつた」といふ思ひがないからだ、といふ。
その日一日、したいことを思ふ存分してゐれば、なにもいつまでも起きてゐる必要はない。
ちやつちやと寝て、明日にそなへればいい。
そして明日、またしたいことを思ふ存分するのだ。

これには一理ある気がする。

確かに自分には「やりきつた」といふ感覚があまりない。
まつたくないと云つてもいいかもしれない。
最近だと京都に行つたときかな、「やりきつた」感を得ることができたのは。
それ以外は毎日したくもないことをこなすのに精一杯で、したいことなどほとんどできてゐない。
だから未練が残つてなかなか布団に入ることができないのだ。

では、たとへば今日K.ITOYAのやうな店が開業するとして、帰宅時に立ち寄るか、といふと、おそらく立ち寄らない。
立ち寄るとそれに時間をとられて睡眠時間がすくなくなるからだ。
立ち寄つた分の時間は、ほかのことで吸収しろよ、といふ話もある。
でも日々自分の行動を計測した結果、削れる時間はもう夕食の時間か入浴の時間しかない。
夕食を削つて文具店に行くか。

「やりきつた」といふ達成感を得るためには、睡眠時間を犠牲にする必要がある。
勤務時間や通勤時間はこれ以上削れないしね。

さうすると、毎日「今日もなにもできなかつたなあ」といふ未練ばかりがたまつていつて、それで就寝時間もどんどん遅くなつていく。
この達成感のなさをのりこえて布団に入るしかないのか。
さうするしかないとわかつてはゐて、でもやつぱりできないんだよなあ。

残る選択肢は、仕事をやめる、だが。
それをしてしまつては生計がたたなくなる。
わりきるしかないんだらうな。

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Wednesday, 22 February 2017

きもちの問題

鎮静剤を求めるかカンフル剤を求めるかと訊かれたら、カンフル剤を求めるたちである。

その昔、小田晋はかう云つてゐた。
「かつての日本人はコカイン系より覚醒剤系を好んだ。
ぼーつとだらけた状態よりもヒロポンを打つて冴えた頭で遊んだり働いたりする方を求めた。
ところが最近はコカイン系が好まれつつある」

「最近」といふのは三十年前のことだ。
ニュースで耳にするのはあひかはらず覚醒剤の方が多いやうに思ふ。
実際のところは知らないけれど。
案外人の嗜好といふのはおほきくは変はらないものなのかもしれない。

ここでいふ「鎮静剤vsカンフル剤」と「コカイン系vs覚醒剤系」とは相似の関係にはない。
おそらく、世の中の人はカンフル剤より鎮静剤を求めてゐる。
「癒し」とか「癒される」とかいつてゐるのがさうだ。
神経を興奮させるよりなだめたい。
ぼーつとしたい、といふのは云ひ過ぎか、ほわほわといい気分になりたい。
さういふ人の方が多いやうに思ふ。

覚醒剤など摂取しなくても日々キリキリと過ごしてゐる人にはカンフル剤よりは鎮静剤の方が必要なのだらう。

自分に癒しは必要ないと思つてゐる。
別段病んでもゐないし傷ついてもゐない。
慢性的に疲れてはゐるが、それは睡眠不足たからで、それさへ解消されればかなり元気になれる自信がある。
解消されることがないので実際はどうなのかわからないが。
ゆゑに必要なのは十分な睡眠と、十分な睡眠をとるに足る環境といふか状況であつて、癒しではない。

だいたい、好きになるものがどちらかといふと神経を興奮させるもの、させがちなものばかりな気がする。

ソナタ形式でいふと第二楽章が比較的好きになるのは落ち着きたい系なのかもしれない。
それくらゐかなあ、ぱつと思ひつく「鎮静剤系」で好きなものといつたら。
囲碁とか将棋とかは一見落ち着いてゐるやうに見えて、あれはいくさだからね。
見た目ほど「鎮静剤系」ではない。

歌舞伎に出てくる登場人物で好きなのは仁木弾正だ。
好きな演目は「寺子屋」。
映画やTVドラマもどちらかといふとわーつと盛り上がる方が好きで、穏やかな日常生活の一コマを切り取りましたといふやうなものは自分には関係ないと思つてしまふ。

日曜日も新文芸坐で「赤穂城断絶」と「柳生一族の陰謀」とを見てかーつとなつてきたところだしね。

ふだんからぼーつとしてゐるからだらうな。
常態がぼんやりしてゐるので、これ以上鎮静剤は必要ない。
摂取したところで効きめもないのだらう。

カンフル剤を求めるのは理にかなつてゐるわけだ。

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Tuesday, 21 February 2017

出不精なのにノマド向きのものを好むわけ

タティングレースのモチーフつなぎは12枚つないで、現在13枚めのモチーフを作つてゐるところだ。
モチーフは Mary Konior の Masquerade。
使つてゐる糸は Lisbeth #40 だ。

昨日、つないではいけないところをつないでしまつた。
しかも、そのあとダブルスティッチを8目も作つてしまつた。
あーあ。

といふわけで、ひたすらほどいてゐた。
これくらゐならほどくのである。

いま使つてゐるシャトルが GR-8 Tatting Shuttle なので、ほどくときには先についてゐるかぎ針を使ふ。
GR-8 Tatting Shuttle のかぎ針は先が鋭くない。
ゆゑにほどきにくいこともあるけれど、糸を痛めにくいと思つてゐる。
ほんたうならクロススティッチ用の針を使ひたいところだ。

さう思ふのは、三ヶ月ほど通つてゐたボビンレース講座の先生がさう云つてゐたからだらう。
先生は、間違へたところをほどくときにかぎ針を使つてはならないと教へてくれた。
糸が弱くなるからださうな。
かぎ針でひつかけたりして、糸がよれたりわれたりするのだとか。

ボビンレースの糸はあまり撚りが強くないのかな、とそのとき思つた。

ボビンレースはつづかなかつたなー。
ひとつには、通つてゐた講座の開催地が遠くなるからだつた。
ひとつとなりの駅のそばだつた開催地があんまりなじみのない場所に変はることになつてゐた。

それだけだつたらつづけたらうと思ふ。
おそらく一番の理由は、お道具が大きいからだ。
クッサンと呼ばれる円形の平たく大きな台を使はねばならない。
講座だけではたいして作れないので道具を持つて移動する。
これがなかなか苦痛でね。
しかも、移動できはするものの、出先でできるやうな手芸ではない。
する人もゐるのかもしれないけれど、その場合はかなり広いスペースが必要になる。
そして、お道具の出し入れに気を遣ふ。

向かないなー。

ボビンレースのやうな織りのレースに対するあこがれはある。
でも自分向きぢやないんだなー、すくなくとも今は。

いろいろやつてつづいてゐるものは、持ち歩けるもの、道具が比較的ちいさいものばかりだ。
あみものにしろタティングレースにしろ。
モバイルでないとつづかない。
Nina Libin いふところの nomad 向きの手芸しかつつかない。

nomad つて、出不精のくせに、といふ向きもあらう。
やつがれもその点が長いこと不思議だつた。
こんなに出かけるのが嫌ひなのに、なぜ手芸などはモバイルなものでないとできないのか。

出かけたくないから、なにか自分と外界とを遮断するものが必要なんぢやあるまいか。
一番いいのはヘッドフォンやイヤフォンをして音楽を聞きつつ外出することだらう。
でも、これがちよつと苦手だ。
ヘッドフォンならまだいいけけれど、イヤフォンは耳がかゆくなつてしまふのだつた。
かといつてヘッドフォンだとかさばる。
それに、歩いてゐる最中に音楽など聞いてゐたらなにか事故にでもあつたときに責任問題になる。
リスク回避なわけだ。

ほかには本や最近ではスマートフォンが自分を外界とへだててくれる手だてとなる。
本はともかく、スマートフォンにかかりきり、といふのもやつがれはとらない。
なんとなく、うつくしくないからだ。
いや、まあ、うつくしさはそんなに求めてないけどさ。
所詮自分のすることだし。

あみものやタティングレースが外界と自分とをへだてるものとしてうつくしいか、といふと、実のところあまりうつくしくはない。
一番まともなのは読書だらう。
自然な感じがするからだ。
あみものはまだしもタティングレースはしてゐる人がすくないからね。
なんとなく奇異な感じがする。
でも持ち歩きやすいからタティングにたよりがちではある。

そもそも、外出するのに外界と自分とを遮断するものが必要である、といふことがすでにうつくしくない。
わかつてはゐるのだが、持たずには出かけられないのだつた。

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Monday, 20 February 2017

速く編めるやうになりたいか

袖なし羽織をちまちまと編んでゐる。

ストールのやうなサイズなので「ちまちま」といふ感じでもないのだが、やつてることはちまちましたことだ。

ギネスブックで世界一速く編めると認定されてゐる人の編んでゐるやうすを YouTube で見たことがある。
一目を編む動作がひとつに見える。

自分の場合は、一目を編む動作はふたつかな。
1. 針を編み目にとほして糸をひつかける
2. 糸をかけたまま針を編み目から引き出す

人によつては1.の動作がふたつになつて、全部でみつつといふ場合もあるかもしれない。

どうしたらこの動作をひとつに感じられるやうにできるのだらうか。
これができたらもつと速く編めると思ふんだよね。

速く編みたいのか。
そこはちよつと問題ではある。
速く編めるにこしたことはない。
速く編めればそれだけ多く編むことができる。
その一方で「速く編むことが目的ぢやないでせう」といふ話もある。

「Domino Knitting」に書いてあることばだ。
ドミノ編みは時間のかかる編み方である。
でもそれがなんだといふのか。
楽しむために編んでゐるんでせう。
だつたらいいぢやない。

かつては、あみものが生活を支へてゐることもあつた。
以前職場にゐた人の話に聞いた。
その人の親戚は米国に移住してゐて、家計の一部をかぎ針編みで支へてゐる、といふことだつた。
なぜかぎ針編みなのかといふと、棒針編みだと機会で編んだものと違ひがわからないからだといふことだつた。
親戚の人々は、ものすごく速く編むのださうだ。

編んでいくうちに自然と手は速く動くやうになる。
さういふ速さならいい。
速くならうとして速くなるのは、なんか違ふ気がする。
スポーツぢやないわけだしさ。

とはいへ、袖なし羽織を作るには、もつと速く編めたらいいのになあと思はずにはゐられないことも確かなのだつた。

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Friday, 17 February 2017

努力をしない云ひわけ

もつときれいに字が書けたら。

ときたまさう思ひつつ、きれいに書けるやう努力することはしない。

あみものやタティングレースにしてもさう。
もつときれいに編めるといいのに、とか、もつと速く結べるといいのに、と時折思ふが、さうできるやうにならうとはしない。

あみものやタティングレースは、数をこなしていくうちにだんだん目もそろふやうになるし、ある程度は速く作れるやうになる。
数を作ればコツがわかつてくるので、やつがれの場合はくつ下であればほぼ自分の足にぴつたりのサイズに編むこともできる。

でも、それは数をこなしていくうちに自然とさうなつたのであつて、「さうしやう」だとか「さうならう」と思つた結果ではない。

だから数をこなすことつて大切なんだよね、といふのはまた別の話である。

なぜきれいに書けたりきれいに作れるやう努力をしないのか。
所詮自分にそんなことができるやうになるわけがないからだ、とあきらめてゐるからだ。

こどものころから不器用であると云はれつづけ、自分でも学校などで周囲とおなじことをしてゐるつもりが全然できてゐないことをいやといふほど経験してゐる。
自分にはムリなのだ。
自分にはできつこない。
やるだけ時間のムダだ。
さう思つてゐるからだ。

それは逃げではないのか。
やつてもみずになにを云ふ。
さう云ふ人もあるだらう。

字にしても、自分ではかう書かうといふ気持ちはある。
理想とする字といふかね。
でも手がさうは動かない。
必ず妙な動きをする。
自分で手の動きを制御できない。
だから不器用なのだらう。
気をつけて途中まではうまく書けても、最後までそれがつづかない。
なんでかね。
我ながら不思議である。

字がきれいなのがいいと思ふのは、その方があとで自分の書いたものを読み返しやすいからだ。
書いたものからなにか探すにしても、きれいな方が見つけやすい。
わかつてはゐるのだ。

わかつちやゐるけどできないんだよねえ。
それで時々なにもかもイヤになつて、もういつそメモの類は全部スマートフォンやポメラにまかせてしまはうか、と思つたりするわけだ。
デジタルにしてしまへば検索は容易になるからね。

でもポメラのテキスト形式はともかく、スマートフォンはいつまでもつのかわからない。
次に出てくるものが出回つたらあつといふ間に入手できなくなつてしまふかもしれない。
入手できなくなつたうへ、ためてゐた情報にアクセスできなくなる可能性もある。
なんだかわからないが次に出てくるものに移行できればいいけれど、さうかんたんには移行できないやうな予感もする。

テキスト形式にしても、たまたまここ何十年か使へてゐるといふだけで、この先も使へるとはかぎらない。
……うーん、まあ生きてゐる間くらゐは大丈夫かな。

それを考へると紙にペンで字を書いた方が確実な気がする。

とはいへ、そんなに一生懸命なにを残すのか、といふ話はある。
なぜ?

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Thursday, 16 February 2017

他人に見てもらふといふ動機

三年くらゐ前だらうか、ある人が旦那さんの作つたガンダムのプラモデルの写真を Twitter で公開したことがあつた。
作つても自分しか見る人間がゐないのはもつたいないと思つて、とのことだつた。
プラモデルの出来が大変すばらしく、絶賛されてゐた、と記憶する。
でも件の旦那さんはとくにblogなどはじめるつもりもなく、これからもブラモデルを作りつづけると云つてゐる、といふ話だつたやうに記憶する。

かういふ人つて、実はたくさん存在するのぢやあるまいか。

ヘンリー・ダーガーのやうにひとりで延々と誰読むこともない小説を書き続けてゐる人とか。
小説とはかぎらないか。
まんがとか詩とか曲とかといふ場合もありうる。
絵を描きつづけてゐるとか、彫刻を作りつづけてゐるとか、手工芸系のものもあるだらう。

やつがれはあみものやタティングをする。
できたものや、できてゐない中途のものもこの blog などで公開してゐる。
作る動機のひとつに、さうやつてほかの人に作つたものを見てもらふといふのがある。

公開するすべがなくても作りつづけはするだらう。
公開しないものもあるわけだし。
でも blog で公開しないとなつたらどうかなあ。

ひとつ試してみるかなあ。

自分しか読まないかもしれないメモを延々と書き続けてゐる、といふのもある。
ひたすら未来の自分が読んだらおもしろいかもしれないといふものを書き続けてゐる。
といふのはウソか。
そのとき忘れたくないものとか、とにかくなにか書きたくて書いたものとかもある。
なかには blog の元になるものもあるけれど、大半はならない。

作るだけ作つて人に見せることはしないといふのはよくわからないな、と、冒頭のガンダムのプラモデルの話を読んだときは思つた。
作つたらやつぱり人には見せたいぢやん。
この人にとつては Twitter に「みんなも見て」と投稿してくれた奥さんがいい観客なのだらうといふ気がする。
作ると、「わー、すごいねー」とか「ここんとこ、よくできてるよねー」とかいふリアクションがあるのではあるまいか。
リアクションがないとしても、世に聞く旦那さんのプラモデルを全部燃えるゴミに出してしまふなんてなことのない奥さんなのだと思はれる。

それだけでも作る気持ちの支へになるのではあるまいか。

と書いてゐて、これもウソだな、といふ気がする。
だとしたら、やつがれが延々と書いてゐる自分しか読まないメモはどうなるのか、といふ話になるからだ。
書いたものはそのまま廃棄される。
自分でするかほかの人がしてくれるのかはわからないが、行く先は資源ゴミのゴミ捨て場だ。
それとわかつてゐても書いてしまふ。
心のどこかで「それでもいづれ日の目を見ることがあるかもしれない」と思つてゐるからか。

うーん、まつたくないとはいへないが。
でもあるとも思へない。

なんで書いてゐるのかね。
好きだから?
まあ、それはさうかもしれない。

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Wednesday, 15 February 2017

古典インクが使へるといふことは

プラチナ萬年筆の古典インク六色を、わけてもらつた。
俗にいふ「タミつてもらつた」といふところだ。

別件で買つてきてもらつたくまもんのパイロットのカクノの細字と、家で眠つてゐたカクノの細字にインキを入れてみた。
入れてみたのは、シトラスブラックとラヴェンダーブラックとである。

シトラスブラックを使用した感じは、Twitter で画像を見てゐた。
書いたそばから色が変はつていく。
最初は文字どほりシトラスを思はせるやうな淡いきれいな黄色でありながら、時間がたつにつれてだんだんカーキのやうな色になる。

実際に書いてみたところ、想像してゐたほど色の変化が見られないやうな気がした。
ところが写真に撮つてみると、これがかなり変はる。

プラチナ萬年筆の古典インク

うーむ。

シトラスブラックを入れたカクノは、かなりインキフローの渋い細字だつたので、それであんまり変化を感じることができなかつたのかなあ。

ラヴェンダーブラックの方のフローは普通で、こちらは書いてゐて明るい牡丹のやうな色から暗い紫に変はつていくやうすがよくわかつた。

が、こちらは写真に撮つてみると、違ひがよくわからない。

プラチナ萬年筆の古典インク

むむむ。

さういふものなのかなあ、人間の眼つて。
あるいはカメラつて。

気になつてゐた Moleskine にも書いてみた。

プラチナ萬年筆の古典インク

おおー、にぢまない。
細字で筆圧が低いせゐもあるかと思ふが、裏写りもしないし裏抜けもない。
たうとう Moleskine でも万年筆を使ひわけられる日がやつてきたか。
感慨深い。
以前も何度か書いてゐるやうに、はじめて Moleskine を使つたときは、いろんな万年筆にいろんなインキを入れて書いたものだつた。
おもに使つてゐたのはDr.ヤンセンのシェークスピアとモンブランのボルドーとだつた。
プラチナの古典インクにはセピアブラックがある。だいぶ暗くなりさうな印象があるが、なに、カーキブラックだつてある。
シェークスピアの代はりになりさうな予感がする。
ボルドーの代はりはカシスブラックだらう。
いいぢやあないか。

スライド手帳にも書いてみた。

プラチナ萬年筆の古典インク

スライド手帳は紙が薄いせゐもあつて、裏写りは多少するものの、写真ほどには気にならない。
一部裏抜けしてゐるやうに見えるのは、書き損じをごまかさうとしたところだ。

いいぢやあないか。
使へるぢやないか、プラチナの古典インク。

Moleskine もスライド手帳も、もつと太いペン先で書いたり筆圧の高い人が書いたりすると裏抜けするのかもしれない。
Moleskine には中屋万年筆の中軟にプラチナのブルーブラックを入れたペンで書き込むこともあるが、裏抜けしたことはない。
なにも考へずにつらつらつらーっと書くせゐかもしれない。

ところで、タミヤ、いいね。
まさかこんな形でタミヤに出会ふことがあらうとは思つてもみなかつた。
こどものころプラモデル作りにあこがれた時期がある。
不器用だつたので、買つたところでお金の無駄とあきらめてゐた。
生きてゐると、いろいろなことがあるものだ。

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Tuesday, 14 February 2017

モチーフをつなぐとできる模様

タティングレースのモチーフつなぎは三列×四列になつた。

Masquerade

Mary Konior の Tatting With Visual Patterns ではこのモチーフ Masquerade の三列×四列の写真が掲載されてゐる。

このモチーフは四角い。
四枚を正方形になるやうにつなぐと、真ん中にモチーフとは別の模様ができる。
これが好きでねえ。
三列×四列だと六つできる。
三列×三列だと四つできて、それで結構満足してゐた。
でも、多い方がいい。

この先はやつぱり四列×四列になるやうにモチーフを足して、あはよくば四列×五列になるやうにしたいなあと思つてゐる。
モチーフ二十枚。
作れるかなあ、残りの糸で。
あと八枚くらゐはいけるだらうか。

できあがつてどうする、といふあてはない。
白や生成ならともかく、紫なんてどこに飾つたものやらといつた色だし。

最近とみに思ふのだが、作つて仕上げるといふことが大切なんぢやないかな。
仕上げないといつまでたつても上達しない気がする。
上達はしなくてもいいかなとは思ふ。
でも、コツをつかむには、数多く作るしかない。
さう思ふんだよね。

タティングレースなんてそんなにさくさく作れるものでもないと思ふのだが。
すくなくともやつがれはさうなのだが。
#世の中にはものすごく速くタティングする人々がゐることは認識してゐる。

日々ちよこちよこ作つてゐれば、いづれできあがる。
その日を待つて今日もちよこちよこ作るのだらう。

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Monday, 13 February 2017

色合はせに悩む

袖無し羽織は、片方の身ごろがわりといい長さになつてきてゐる。

Rowan のフェルテッドツイードを六号針で編んでゐて、四玉目を使つてゐるところだ。
もう一玉でいい感じの長さになるんぢやないかと踏んでゐる。
思つてゐたより進んでゐるな。

問題は、次に追加する糸のことだ。
ここまで、深緑色からはじめて、紺、紫ときて、いまはくすんだサーモンのやうな色で編んでゐる。
手持ちの毛糸の色はこの四つと、あとくすんだオレンジとくすんだ黄緑とがある。

サーモンと紫との相性はいい。
問題は、サーモンとその他の色との相性がいまひとつといふことだ。
くすんだオレンジ、かなあ。
ほかの色だとコントラストが大きすぎる。
毛糸だまを並べてみるとさう思ふ。

ここまで、色を変へるときは二段おき(ガーター編みなので一段おきに見える)にしましまにして、変はり目が目立たないやうにしてゐた。
「目立たないやうにしてゐた」といふのは、自己満足ではある。
遠くから見たらさう見えるかもしれないが、近くで見たら単にしましま模様があひだにはさまつてゐるだけにしか見えない。
とはいへ、馴染みのよい色同士を合はせてゐるつもりなので、そんなに唐突に色が変はつたやうには見えないんぢやないかな、とも思つてゐる。

ところが、サーモンには馴染みのよい色がない。
紫くらゐしか。

ここで紫に戻るか。
それとも冒険してみるか。
冒険したところで「これはちよつとなー」と思つたらほどけばいいんだから、冒険してみるかな。

ところで、「袖無し羽織」と書いてゐるものの、脇をはがなかつたらポンチョだよね、とも思つてゐる。
ポンチョの方が遣ひやすいかなあ。
これも考へてみるか。

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