Thursday, 13 December 2018

やはらかな音で脚韻

ポリスに「見つめていたい (Every Breath You Take)」といふ歌がある。
ちよつとストーカー的な内容だし、ポリスにはほかに好きな歌がいくつかある。
でもこの歌の脚韻の「eik」「ei」「eis」などのやはらかさにつひつひ聞いてしまつたりする。
最初は take, make, break, takeで、次が day, say, play, stay かな。
実にやはらかい、いい音なのだつた。

ベートーヴェンの「Ich Liebe Dich」なども、脚韻の「agen」「(b)eide」を如何にやさしくやはらかく歌ふかにかけてゐた時期があつた。
とくに最後の「erhalt uns beide」の「beide」は夢見るやうな天上の音を出せたら(出ません)と思つてゐた。

どうやらやつがれの耳は「ei」とか「ai」とかいつた音を「やはらかい」「やさしい」ととらへるのらしい。

ところでビートルズに「Yesterday」といふ歌がある。
かう書くまでもないくらゐ有名な歌だ。
この歌の脚韻は「ei」と「i」の長音との二つしかない。
この「ei」は全然やさしくない。
多分、長いこと「なんでビートルズといつたら「Yesterday」なんだよ」と不満だつたのは、この点に尽きる。

ヴォーカルのポール・マッカートニーの発音がさうなのだらうか。
そんなことはないと思ふ。
「For No One」といふ歌の「breaks」「aches」といふ脚韻のなんとやさしいことよ。
「When I'm 64」の「Valentine」と「wine」、「side」と「ride」も悪くない。うーん、でも「say」と「away」はそれほどでもないか。
さういふ発音をするタイプなのかもしれないな。

スティングのやはらかい「eik」だとか「ei」だとかを聞いてゐると、かういふ甘い発音にだまされてストーカーに追はれるやうになつてしまふのかもしれないなー、などと思つたりする。

なんぞといふことを、最近 ヘヴィー・ローテーション中の「Queen II」の「Some day One day」を聞きながら考へてゐる。
この歌の「ei」もいやといふほど甘つたるいよ。

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Wednesday, 12 December 2018

人は変態と呼ぶだらう

昨日呟いたことに「ブラームスの交響曲第四番第二楽章にあるクラリネットとオーボエとのかけあひが男女のよびかけあひにたとへられるのが納得できない」といふ旨のものがある。

クラリネットから呼びかけてオーボエが答へ、さらにクラリネットが声をかけてまたオーボエが応へる。
そんなフレーズだ。

これね、楽器から楽器への呼びかけでいいと思ふんですよ。
うつくしいぢやあないですか、楽器と楽器とのinteraction。
クラリネットもオーボエもドイツ語でいへば女性名詞で、そこに男の入る余地はない。
それでいいと思ふんだけどなあ。

といふことをずつと考へてゐるのだが、これを人に理解してもらへるやうに語る術をやつがれは持たない。
わかる人だけわかればいい。
結局さういふことになつてしまふ。

先日、「元祖水玉本舗その2」といふ本を読んでゐたら水玉螢之丞が

どーしてノンケ(オイ[汗マーク])の人つーのはみんな、人形が「人間」になりたがってるって思うかなあ、ナットクいかないなあ[汗マーク]
と書いてゐて、「そのとほりなんだよなあ」と思つた。

確かに、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーや飯田市川本喜八郎人形美術館に行つては、「ちよつとは動いてくれてもいいのよ」と思つたりはするよ。
するけれども、別に人間になつてほしいわけではない。
飯田の美術館は展示室の中が一定時間無人だと照明が消へるしかけがある。人形を保護するためだ。
かういふ時に展示室の中に入ると、中は真つ暗でしばらくして照明がつく。
一歩中に足を踏み入れる瞬間まで、人形たちはこそこそ話でもしてゐたのぢやあるまいか。
場合によつては宴の最中だつたりしたのかも。
さういふ錯覚にとらはれることがある。
ほかにもさう云つてゐた人がゐるので、どうやらやつがれだけのことではないらしい。

人形は生きてゐる。
でも人間になりたいなんぞとは思つてゐない。
もしかしたら思つてゐる人形もゐるかもしれないけれども。
そしてこちらも別に人間になつてほしいとは思はない。
なりたいのなら構はないけれども。

話がずれてきてしまつただらうか。

以前、使ひなれたフライパンがダメになつてゐるのになかなか捨てられない、といふ話を書いた。
それと似た話だと思つてゐる。
歯ブラシとかお箸にしてもさうなのだけれども、日々使つてゐて、とくに自分が世話になつたと思ふものといふのはなかなか捨てられない。
捨てられないといふよりは、捨てていいのか、といふ気持ちになつてしまふ。
だつてこんなにお世話になつたのに。
毎日汚い歯を磨いてくれて、毎日ご飯を食べさせてくれて、そんな相手を捨てられるだらうか。

まあ、捨ててるわけですけれども。

針供養などといふのもさういふところから生まれたものだと思つてゐる。
毎日毎日働いてくれて、あれもこれも縫つてくれて、ありがたう。
さういふ気持ちが供養するといふ行為につながる。

さう書きながら、やつがれほどものを大切に扱はない人間もまたゐないので、この矛盾はどうしたものだらうと思ふのだけれども。

楽器、とくに持ち運び可能な楽器を使つてゐると、不用意に楽器をなにかにぶつけてしまつたときに思はず「痛いっ」と口走つてしまふ。
多分、楽器を演奏する人は多かれ少なかれさうなのではないかと思ふ。
もしかしたら自分の周りだけのことなのか知らん。
楽器をぶつけたら壊れてゐないかどうかの心配しかしない、といふ向きの方が多いのかもしれない。

楽器といふのは日々練習するものであるし、自分の手足または口の延長にあたるものだと思ふ。
加へてやつがれの場合は「こんな下手くそにつきあつてくれてありがたう」とも思つてしまふ。
まあ、「なんでそんなに機嫌悪いんだよ」と思ふことの方が多いけどもさ。自分の腕を棚に上げて。

さう考へると、無生物にならなににでも愛着を抱くといふわけでもないんだな。
世話になつてゐると感謝を抱く一方で、うまく扱へない自分への苛立ちを転嫁する。
そんなものに対して愛着を抱いてしまふのかもしれない。
万年筆がさうだもんな。
万年筆はその日によつて、気温や湿度、気圧などの微妙な差で書き味が変はつてくる。
どんな紙に書くかにもよる。
こちらの体調や気分にもよるところもあるだらう。
気がつかないうちにインキが切れてゐることに苛立つこともある。気に入つて使つてゐても、だ。むしろ気に入つて使つてゐるペンに対する方が苛立ちは強いかもしれない。
そしてもうこれがなくては、と思つてゐるわりに大事にしない。
でも好きだし、日々使ひたいと思つてゐる。
矛盾は承知で、さうなのだつた。

ところで、昨今映画「ボヘミアン・ラプソディ」が興行成績を伸ばしてゐて、歌の方も20世紀の楽曲としては再生回数第一位になつたと聞いた。
歌の「ボヘミアン・ラプソディ」で好きなのは最後のピアノとギターとのかけあひで、ここが聞きたいがためにその前の5分30秒ばかりを聞くことになる。
ピアノがlamentとでも呼びたいやうなすきとほつた旋律を奏で、そこにギターが呼応する。
きつと、ギターは(ギタリストは、ではない)、目で合図を送つてゐるのだ。
#ギターの目がどこにあるのか、とか訊かないこと。
「うつくしい旋律。こちらも弾いていいですか」と。
ピアノは(同上)若干気を持たせる感じで、でも「いいですとも。喜んで」とやはり目で答へる。
二つの楽器は一緒に歌ひ、ピアノ、次にギターの泣きたくなるほどやはらかな音で最後の歌詞を迎へる。
そして銅鑼の音。
Perfect.

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Tuesday, 11 December 2018

極細毛糸でタティングは危険かもしれない

タティングレースのスカーフは細々つづけてゐる。
いまはこんな感じ。

Tatted Scarf in Progress

こんなバイアスでどう使ふの、と思ふが、なんとなくバイアスにしたかつたのだ。

盛本知子が「最近の極細毛糸はタティングに向かない。切れてしまふから」と語つてゐた、といふ話はここに幾度か書いたと思ふ。
そのときは、ベビー用の毛糸の話をしてゐるのだと思つた、とも書いた。
その時点でPuppy New 4Plyでタティングレースのスカーフを作つたことがあつたからだ。
藤戸禎子が出産祝ひのベビー用極細毛糸でタティングレースのショールを作成して受賞したことがあるのはつとに有名だ。
そのショールを前にしての発言だつたので、「ベビー用毛糸の極細ではさういふこともあるのかもしれない」と思つた。

といふのも、先日たうとう糸を切つてしまふといふ事態に直面したからだ。
毛のもけもけしたものが絡まつて、それで糸が太くなつてしまつて引けなくなり、切れてしまつた。
いままでももけもけが絡まつて糸が太くなつてしまふことはしばしばあつたのだが、それでもなんとか糸は引けてゐた。
今回は糸が太くなりすぎてしまつたんだなあ。
毛のもけもけは多少のことなら引けば細くなるのでいままでは引けてゐたのだつた。
限界を超えてしまつたことに気づかなかつたんだな。
反省。

やはり極細毛糸はタティングに用ゐると切れることもある。
作品によつてはより切れやすくなることもあらう。
いま作つてゐるモチーフについては、以前もおなじものでスカーフを作つてゐるので比較的切れにくいと思つてゐる。
毛のもけもけができづらいともいへやう。

あるいは各人の癖のやうなものによつても切れやすくなることもあるのかもしれない。
もしかすると自分のタティングの仕方はそんなに毛のもけもけができないタイプの流儀なのかも。
無手勝流ですけどね。

この先何ヶ月かはタティングについてはこれにかかりきりかなと思ふ。
そのうち暑くなつてどうにもならなくなつたりするのかもしれないが、そのときはそのときだな。

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Monday, 10 December 2018

寒くならないとわからない

突然冷えてきた。

そんなわけで、編みかけの袖なし羽織を膝の上にのせてみる。
いままではあたたかく感じたのに、昨日はそれほどでもなかつた。
それでものせてゐるとゐないとでは大違ひで、一度のせるとおろせなくなる。
それですこしだけ編み進む。

実際に冬の気温になつてみないと、どれくらゐあたたかいのかとかわからないものなんだなあ。

五月ごろ、夏ものを出すときにもいつも思ふ。
大抵は連休のころに衣替へモドキをする。
このときに麻や麻混の糸でできたものを羽織ると、まだまだ涼しい。
ああ、麻つて、ほんとに涼しいんだな。
つくづくさう思ふ。
ところが実際に夏になつて羽織るとちやんと暑いんだな、これが。

世の中さうしたものなのだらうか。

それにしても、混紡でもあれだけ涼しい感じがするのだから、冬に麻なんぞを着ても、また重ね着しても、全然あたたかくならないんだらうなあ。
昔の人はどうしてゐたのだらうか。
平安時代末期はとても暖かい気候だつた、平清盛の熱病はマラリアだつたのぢやあるまいか、なんぞといふ話があるけれど、庶民は麻くらゐしか着るものがなかつたとしたらさうでないと暮らしていけなかつたんぢやないかといふ気がする。

もつとも、江戸時代には寒かつた時期もあるといふ話だからなんともいへないが。

それにしても重ね着をしたくらゐではまつたくあたたかくならない。
困つたものだ。
これつて、次第に寒くなつてきてゐたら気にならないくらゐの気温の低さなんだらうかなあ。
先日夏日があつて、急激に気温が下がつたからよけいに寒く感じるのぢやあるまいか。

などと、毛糸に囲まれながら考へることができるといふのはなんといふ贅沢なのだらう。

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Friday, 07 December 2018

芝居見物 楽しかつたりさうでもなかつたり

まだふり返るにはすこし早いのだが、今年見た芝居の話を少々。

今年は一月歌舞伎座の高麗屋三代同時襲名披露興行にはじまつて、全部は見てゐないけれど毎月のやうに歌舞伎を見てはゐる。
文楽は東京の公演は九月の国立劇場をのぞいては見てゐると思ふ。
そのほかに劇団☆新感線の「髑髏城の七人」の下弦の月と修羅天魔、「メタルマクベス」のdisc 1〜3。
コクーン歌舞伎とNaruto。
それと東京芸術劇場の「贋作 桜の森の満開の下」といつたところか。

今年のはじめは、とにかく歌舞伎が全然おもしろいものに感じられなかつた。
お正月には去年十一月の定九郎がいまひとつで「ほんたうにこれで幸四郎になるのだらうか」と思つてゐた染五郎が、「車引」の袖からの声だけで「松王丸の声だ!」と思はせ、さらには「勧進帳」の弁慶で大きな成長ぶりを見せてくれたにも関はらず、だ。
そしてその「勧進帳」の富樫が吉右衛門であつたにも関はらず、だ。
さらには四月には愛してやまない鶴屋南北の「絵本合法衢」がかかつたにも関はらず、だ。

なんか、もう、歌舞伎、楽しくないのかも。

さう思つてゐたはずなのに、九月の歌舞伎座で「俊寛」を見て、なにかひどく心打たれたのだつた。
「俊寛」はもともとそんなに好きな芝居ではない。
泣けるといふことでいへば「平家物語」の俊寛の話の方がずつと泣ける。
さう思つてきたし、いまでもさう思つてゐる。
でも、あれはちよつとなにか特別だつたな。
芝居に使ふことばではないかもしれないが、「適材適所」といふ感じ。
これ以外ない配役、これ以外ない床、これ以外ない道具等々。

芝居は、たとへひとり芝居であつたとしても、芝居を構成するすべてのものがかつちりとかみあつたときに最高になるのであつて、ひとりだけとか主役陣だけよければなんとかなるものぢやあない。
好きな役者が出てゐればいいといふものではない。
#すくなくともやつがれにとつては、ね。
その後「メタルマクベス」のdisc1〜3を見てさらにその思ひを強くした。

あらためて考へると、九月の「俊寛」には前段があつた。
八月の歌昇・種之助の勉強会「双蝶会」の「関の扉」がそれである。
歌昇の黒主に児太郎の小町姫・桜の精が大変によくてねえ。
なにがいいのかと問はれるとよくわからないのだが、これまでこの会では背伸びしてゐるやうにしか見えなかつた(そしてそれが悪いわけではない)歌昇にどこか余裕が見え、児太郎の方はといふと品があつてはかなげでそれでゐて立女方の強さも見せてゐたやうに思ふ。
多分、この芝居が今年の転換点だつた。

以降は見る芝居見る芝居楽しく、十月は名古屋でこれ以上の江戸の若旦那はまづゐまいといふやうな梅玉の与三郎が見られたかと思つたら翌月は京都で極上の上方の若旦那、遊蕩に溺れた忠兵衛を仁左衛門で見られるといふ、「なに、これ、なんのご褒美?」的な日々を送つてゐる。
歌舞伎座では何年ぶりだらう、吉右衛門と時蔵とが一緒に芝居してたしね。
それも吉右衛門演じる白蓮が時蔵演じる十六夜を腕にして「悪かあねえなあ」だよ。
うわー、かういふのが見たかつたんだよ!

といふわけで、来年も芝居通ひはつづきさうな予感がする。

ところで、「もう歌舞伎見ないかも」と思つてゐた時期に一番楽しかつたのが、歌舞伎座三月の「於染久松色読販」だつた。
通常は「お染の七役」といつてお染を演じる役者の早変はりを見せる芝居だが、この月は土手のお六の強請場だけが出た。
それつてどうなのよ、と思つたが、これが案に相違の楽しさでなあ。
とにかく、出てくるもの出てくるもの、すべてムダになるものがない。
ちよつとした小道具でさへ、あとでちやんと芝居の筋にからんでくる。
すごいよ、南北先生、すごいよ。
いつもは、早変はりは一休みの幕といつた感じで見ていたから気づかなかつたけれど、こんなによくできた芝居だつたとは。

好きな役者はゐるけれど、それだけで見てるわけでもない。
むしろ、それ以外のところで芝居を見てゐるのかもしれない。
そんな気がした平成最後の戌年だつた。

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Thursday, 06 December 2018

メモ魔 Wanna-bee

メモ魔ではない。

まれに猛烈に「あれもこれも記録しておかなければ」といふ気持ちになつてあれやこれや書き付けるけれど、大抵の場合はなにごとにつけ「それは書き留めるには及ばないこと」「書かなくても大丈夫でせう」と思つてゐる。
ムラが激しい。

世の中にはメモ魔な人がゐて、うらやましいなあ、と思ふ。
始終メモ帳などを持ち歩いてなにかにつけ書きつけてゐる人とか。
最近だとスマートフォンに記録するのだらうか。たとへば音声入力とかで。
携帯電話やスマートフォンのおかげで写真や動画も撮りやすくなり、記録したい人にはますます記録しやすい状況になつてゐる。

メモをよく取る人の「書き付けなければ」といふ気持ちはどこからくるのだらう。
「しなければ」ぢやないのか。「書きたい」といふ動機か。

四年前、劇団☆新感線の「五右衛門vs轟天」といふ芝居を見て、「一演目一鑑賞」を掲げてゐるこのやつがれがはじめて三度も見に行くほど入れあげたことがあつた。
#二度見に行くことはときにある。

「見たことを忘れたくない!」とばかりに、覚えてゐることを片端からノートに書き付けはじめたのが、千秋楽から四日後のことだつたと思ふ。
当時、満寿屋のMONOKAKI B6を使つてゐて、残りが30ページくらゐあり、「これくらゐあれば余裕で書き終はるだらう」と思つて書き始めた。

終はらなかつた。

仕方がないのでおなじノートを買つてきて、続きを書いて、多分80ページくらゐ書いて終はつた。

斯様に書きたいときもある。

歌舞伎座ギャラリーの歌舞伎夜話なんかもさうかな。
聞いてきて、三、四日かけて覚えてゐることを全部書き出すときもある。
四日もたつとさすがにもう記憶が曖昧で、書くこともなくなつてくる。
それでだいたい一度にシステム手帳のバイブルサイズに10ページ前後かな、書くのは。

その場でメモを取ればいいとも思ふのだが、まあせつかく話を聞きにいくのに役者のやうすや表情を見ないのももつたいないと思つてしまふ。
今後歌舞伎夜話に行くことがあつたらその場でメモを取つてみるかなあ。

つねにかうならいいのだが、どうもさうはならない。
ずぼらなのだらう。
なまけものともいふ。

ほかに、「仕事のことを手帳に書くのは筆の汚れだ」と思つてゐたこともあるから、といふのもある。
お気に入りの手帳にお気に入りのペンで仕事のことを書くなんて、なんだか許せなかつたのだ。
それで勢ひ手帳に仕事のことを書かなくなる。
紙の手帳のことだけではない。
Apple Newton MessagePad を使つてゐたときもさうだ。
仕事の予定なんて入力するのはPDAの汚れ。
さう思つてゐた。
PDAについては、PalmPilotにはさうした気持ちを抱くことがなかつた。
PalmPilot自体がとても事務的なディヴァイスだつたからかもしれない。

いまも「仕事のことを書くのは筆の汚れ」と思つてゐる節があつて、せつかくの手帳に仕事のことを書き入れないこともある。
また最近では仕事のことを書いたノートなどは仕事が終はつた際に廃棄しろ、といふ話もあるので、とつておきたいノートには書かない方がいいといふこともある。

それにしても、なぜ自分はメモ魔にはなりたいのだらうか。
なんとなく、片手に手帳を構へてなにやら字を書く姿にあこがれがあるんだらうな。
実際そんなことをしたら自分の悪書ではとてもとても読めたものではないのだが。

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Wednesday, 05 December 2018

好きなことについて口をつぐむとき

昨日は、「この世にあまり知られてゐないやうなことを好きだつたら、どんどん人と語らう」といふやうなことを書いた。

きつかけは、"It's Time to Throw Away the Dickensian Culture of Math Education" といふ記事だ。
この記事では、とある教師が生徒たちに数学について会話をするやうし向けるといふ話が出てくる。

まづは他人と話すこと。
他人と話題を共有すること。
好きなものを広めるには他人との会話が重要なのだ、といふことだらう。

以前、坂東三津五郎が八十助だつたころに語つてゐるのを読んだことがある。
喫茶店に入つたら、みんなが歌舞伎について語つてゐるやうな、そんな世の中になつたらいいな、といふ趣旨のことを。

今月見た芝居の話や、贔屓の役者の話、こんな演目が好き、この役者のこんな役、あの芝居のあんな配役が見てみたい。
話題はいくらでもある。
喫茶店でコーヒーを飲みながら、いつ尽きるとも知れぬ芝居の話に興じる人々。
それが常態になつたら歌舞伎の人気もほんものだな、と、さういふ話なのだらうと思つてゐる。
まあ、世の中、さういふ風にはなつてゐないけれども。

それでも同好の士となら芝居の話でも盛り上がれるが、さうでない相手とはどうだらうか。
芝居をあまり知らない、歌舞伎役者の見分けもつかないやうな相手に歌舞伎の話をしていいものだらうか。
さう考へると、あまりできるとも思へない。

でもどうしてもしたい、となつた時に、どう話すかといふと、三森ゆりかの提唱してゐる「言語技術」にたどりつく。

欧米では(と、広く云ふが)、「言語技術」の教育が盛んで、幼いころから「他人に如何にことばで伝へるか」といふことを教へこまれるのだといふ。

たとへば、こどもへの教育として、三森ゆりかの本には、まづ好きなことについて語る練習が登場する。
「わたしは何々が好きです。それはこれこれかうだからです。だからわたしは何々が好きです」
といふフォーマットで、自分の好きなものについて語る練習だ。

好きな対象はなんでもいいし、理由の部分も好きに語つていい。
聞く方は理由に不明な点や疑問点があつたら質問する。
話す方はそれにきちんと答へる。
そんな感じだらうか。

この練習は、やりやうによつてはすごくイヤな感じになる。
とくに、理由の部分を掘り下げていく過程で、「どうしてそんなに根ほり葉ほり訊くんだよ」といふイヤな気分になることがある。
でも(敢て広い範囲で云ふが)欧米ではそれがあたりまへで、さうやつて他人との意思疎通をはかれるやうになるのださうだ。

この方法のいいところは、自分の好きなものについてなぜ好きなのかさへ語れれば話になる、といふ点だ。
世の中にはどうも「好きなら知つてゐて当然」「好きなら知識豊富なはず」といふ偏見がある。
もちろん、好きなことについては自然と知識が増えるといふことはある。
だつて好きなんだもの、いろいろ知りたいぢやあないか。
だが、好きだからといつてあれもこれも知つてゐるとはかぎらないし、知つてゐる必要もない。
好きといふだけで十分ではあるまいか。

それだと他人と意見を交はすことができない。
でも自分はなにが好きでどう好きでなぜ好きなのかを語れれば、話になる。
言語技術。
いいんぢやあるまいか。

だが、これだと弁論術でいふところのエトス・パトス・ロゴスのロゴスの部分しかない。
好きな理由だからパトスもあるかもしれないけれど、どうもパトスは伝はりにくいやうに思ふ。
まあ、語りやう次第ではあるけどもさ。

さうすると、「わたしは何々が好きです。なぜならこれこれかうだからです。だからわたしは何々が好きです」とフォーマットにしたがつて語るより、「きゃーっ、何々、ステキーっっ!」だとか、「可愛いよ、何々、可愛いよ」だとか、「何々……尊い」みたような話し方の方が、相手に伝はるんぢやないだらうか。
そんな気がしてくる。
この話し方ならパトスは間違ひなく伝はるだらう。
そしてパトスが伝はつた結果、エトスもまた生じるやうな気がする。

ロゴスからもエトスは生じるだらうが、「好きなこと」のやうな感情の関与するところが大きいものの場合は、ロゴスよりもパトスの方が重要なんぢやあるまいか。

でもさうすると、やつがれのやうに長いこと軽佻浮薄のものを遠ざけてきてミーハーとは相容れないと思ひこんできた人間には、好きな話はできなくなつてしまふんだよなあ。
「きゃーっ、何々、ステキーっっ!」つて、それ、思考停止でせう。
さう思つてしまふからだ。
いまはだいぶ変はつてきて、「きゃーっ、何々、ステキーっっ!」もありだと思つてはゐるけれども、長年の習慣といふものはなかなか落とし難いものなのだつた。

言語技術もダメ、パトスにも訴へられないとくると、あとはもう知識勝負しかなくなつてくる。
さうして、好きなことについては口をつぐんでしまふのである。

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Tuesday, 04 December 2018

好きなことの話をしやう

普段「タティングレース」と口に出して云ふことがあるだらうか。

数へてゐるわけではないからわからないけれど、最低週に一度は「タティング」と云つてゐるのぢやあるまいか。
或は月に一度。
年に一度といふことはないと思ふ。

といふのは、こんな記事を読んだからだ。
記事の冒頭で、ある教師が生徒に対して気がをかしくなるほどむつかしい数学の問題を出すことがあつた、といふ。
ほかの数学教師に助けを求めてもいいし、学外の人に訊いてもいい。ただしこの教師自身にはなにも訊いてはいけない。
さういふ条件つきだつたさうな。

この教師の目的は、問題を解かせることではなかつた。
数学について教室の外で人と話をすること。
それが目的だつたのだ、と記事にはある。

おそらくは数学のよくできる生徒相手のことだ。
その生徒が手こずるやうな問題を、数学のわからない相手と会話することがあるだらうか。
さう考へると、この教師のやらうとしてゐたことは、「まづは話すこと」だつたのだらう。

この記事を読んで、なんだか突然蒙を啓かれた気がした。
自分は自分の好きなこと、好きだけれどもそれほど世に広まつてゐるとは思へないことを他人と/に話すことがあるだらうか。
ないな。
ない。
同好の士とはあるけれども、それ以外の人とはまづない。
家族ともしない。
それがあたりまへだと思つてゐる。

通じない人間と話をしても仕方がない。
相手にも失礼だらう。
頭の中でさう思つてゐる。
実際、失礼なこともあらう。
自分のまつたく知らない話をされて怒る人間はいくらもゐる。
世間の人はそんなに悠長な暮らしを送つてゐるわけではない。
それでなくてもネットで自分の興味のある範囲しか見ない人間が増えてゐるといふ。

そんなときにタティングの話?
ないわなー。

そもそも自分の好きなことについて話したくない。
話してわかつてもらへるとも思へない。
わかつてもらへるやうに話をしないからだ。

昨日実は「これがほんたうに好きなんだ」といふことを呟いた。
当初、まつたく反応がなかつた。
その他のことにまぎれるやうに呟いたのもいけなかつたのかもしれないけれど、
「ああ、やつぱり同好の士のゐないやうな些事でほんたうに好きなことつて、伝はらないんだなあ」
と、しみじみさう思つた。

伝はらないかもしれないけれど、世界に向けて発信する。
可能なかぎり伝はるやうに発信する。
好きなことを絶やしたくない。
好きなことには長くつづいてほしい。
さう思つたら、さうするしかないのかもしれない。

ところでタティングレースについていふと、自分が云はなくても人気が出てゐるやうではある。
本屋で本を見ればわかる。

ただそれも一過性のことかもしれない。
やはり呟くしか?

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Monday, 03 December 2018

毛100%と化繊

寒くなつてくると袖なし羽織が進む。
膝の上においてゐるとあたたかいからだ。
糸はローワンのフェルテッド・ツイードで化繊混だつたと思ふのだが、思ひのほかあたたかい。
毛糸は化繊や化繊混よりも毛100%があたたかいといはれてゐる。
実際、体感してみるとさうだな、と思ふ。

たとへばヨガソックスだ。
これまでヨガソックスは化繊混のソックヤーンで編んでゐた。
それでも十分あたたかいと思つてゐたが、今年、パピーのブリティッシュファインで編んでみて、こちらの方が断然あたたかいことを身をもつて知つた。
いづれも中細毛糸であるといふ点は変はらない。
ブリティッシュファインで編んだものの方が若干ふつくらとした編み地になつてはゐるけれど、履いてしまへば厚さはほぼおなじだと思ふ。

さうか。
やはり毛100%はあたたかいのか。

と思つてゐたところにフェルテッドツイードだ。
これはほかに比べるものがないものの、ちよつと肩に羽織つてみたときなど、圧倒的にあたたかい。
だからひたすらガーター編みでときに飽きることがあつても編み続けてゐられるのだ。
仕上がつた暁には、とてもあたたかい袖なし羽織になるだらうからだ。

ところで毛にもいろいろあつて、カシミヤの毛は羊毛よりあたたかいといふし、麝香牛の毛はさらにあたたかいといふ。

でも、世の中、それほどあたたかくなくてもいいつてこともあるんだよね。
さういふときは化繊混の出番なのかもしれない。

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Saturday, 01 December 2018

11月の読書メーター

11月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:1593
ナイス数:16

英語とは何か (インターナショナル新書)英語とは何か (インターナショナル新書)感想
大学入試の英語民間試験導入の行く先はさらなる格差社会なのかな、とこの本を読んで思った。
読了日:11月04日 著者:南條 竹則
Through the Language Glass: Why The World Looks Different In Other LanguagesThrough the Language Glass: Why The World Looks Different In Other Languages感想
チョムスキーとか知らなくても読めるけど、知っていたらもっと楽しいだろうな。この本を読むと、古典作品でいろんなものの色をどう表現しているか気になってくる。この本に出てくるのはホーマーだから中国古典だったら比較対象になるものがあるだろうか。今後読むことがあったら色の表現を気にしながら読んでみたい。
読了日:11月11日 著者:Guy Deutscher
翻訳地獄へようこそ翻訳地獄へようこそ感想
女の人のセリフの語尾に「だわ」「なのよ」などをつけることを反対する意見の多い中、ホモセクシュアルの男の人のセリフはオネェ言葉に翻訳する、といふのはどうなのだろうか。ことばだけしか手がかりがなければこういうご時世でもそうするしかないのかな。
などと思いつつ、紹介される書籍には興味深いものも多いし、よく読むとはどういうことか考えさせられる。
読了日:11月14日 著者:宮脇 孝雄
乞食王子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)乞食王子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)感想
著者の本にしては一文が短く、読点が多くて読みやすい。エッセイだと思うのにどこまでがほんとうでどこからが作りごとなのかわからないところがいい。のちの「酒宴」や「金沢」につづく感じかな。沖縄のことについて通常よりストレートで語気が荒いように思う。ちょっと意外でそういうところもいい。
読了日:11月18日 著者:吉田 健一
新しい1キログラムの測り方 科学が進めば単位が変わる (ブルーバックス)新しい1キログラムの測り方 科学が進めば単位が変わる (ブルーバックス)感想
「ほんとうに大切なことは目に見えないんだよ」ってこういうことだったのか。
読了日:11月22日 著者:臼田 孝
悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)感想
悪徳を楽しむにはいろいろ云い訳が必要という風にも読めるし、考えてしまう人間には世のしきたりのようなものには従えないといふ風にも読める。
読了日:11月29日 著者:マルキ・ド サド,マルキ・ド・サド

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