Wednesday, 22 May 2019

クリシェを遣はう

クリシェは遣はないやうにしませう。
世の人はさう云ふ。

クリシェには「常套句」といふ訳語が当てられてゐる。
意味としては「遣ひ古された表現」「手垢にまみれた表現」といつたところか。
音楽でもクリシェといふことばを似たやうな意味で遣ふ。

しかし、ここでぱつとクリシェの例が出てこない。
「遣ふな」と云はれてゐるからだ。
「遣ふな」と云はれて正直にしたがつてゐるとかうなる。
遣はないんだから忘れてしまふ。
そして、そんなことばがあつたこと自体も忘れられてしまふ。

もしかすると、風俗研究などで流行したものをいろいろとあさつてゐれば出てくるのかもしれない。
正式な文書などには決して出てこないし、記録としても残らない。
あつたはずなのに。
「常套句」などと云はれるくらゐだから、一時的にせよ大変に広く遣はれてゐた表現のはずなのに。

誰の書いたものだつたかは失念したが翻訳家の書いた本に、とある先輩翻訳家の話があつた。
その先輩は、本を訳すときに必ず一カ所、もう遣はれなくなつた古い表現を入れる、といふのだ。
著者はそれは翻訳家の姿勢としてまちがつてゐる、といふ。
そのとほりだと思ふ。
その遣はれなくなつた古い表現が訳語としてぴたりとはまるのだつたらかまはない。
だが、忘れられていくことばをとどめやうとして翻訳に遣ふのは間違つてゐる。
そんなやうな主張だつたと記憶してゐる。

翻訳家に限らず、小説家はともかく(時代や登場人物を描くのに必要なこともあるだらうから)、文章を書くことを生業としてゐる人はクリシェを避けるだらう。

だつたら、自分のやうな、単に好きで書いてゐるだけの人間は、むしろ積極的にクリシェを遣つてもいいのぢやあるまいか。
だつて、さういふ表現があるんだしさ。
しかも、常套句になるくらゐみんなが遣ひたがつた表現なわけでせう。
手垢にまみれた表現だからといふので遣はなくなるのは、なんとも惜しい。

さう云ひつつも、いまここで「クリシェとはこんな感じ」といふ例がすらりと出てこないといふ状態ではあるのだが。

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Tuesday, 21 May 2019

技術が自分か

「絵がうまくなりたいのか」「絵のうまい自分になりたいのか」といふ呟きが、先日TLに流れてきた。

前者ならいいけど、後者はね、といふ呟きだつた。

自分はどちらなんだらう。
「あみもの/タティングがうまくなりたい」のか。
「あみもの/タティングのうまい自分になりたい」のか。

なんとなく後者な気がするんだよなあ。
ヤバい。

ここにも何度も書いてきたやうに、これまで生きてきて自分より不器用な人間を見かけたことがない。
こどものころから親にも教師にもずつと「不器用だ」と云はれつづけてきて、自分でもさうだな、と思ふ。

あみものとタティングとは、もう長いことやつてきてゐることもあつて、人並みにはできるんぢやないかと思つてはゐるが。
問題は、周囲にあみものやタティングをする人がゐないので比較対象が存在しない。
ゆゑにできてゐると思ふことに根拠は存在しない。

「比較対象」とか云つてゐる時点でダメだ。

たぶん、うまく編めるとかうまく結べるといふことは、他人との比較ではない。
以前よりうまく編めるとか前よりうまく結べるとか、さういふことなのだと思ふ。
でも、うまく編めたりうまく結べたりしたとき、どううれしいと思ふだらうか。
「前よりうまくなつたなあ」か。
「前よりうまい自分になつたなあ」か。

やつぱり後者な気がするんだよなあ。

斯様に「不器用」と云はれつづけた経験は大きい。
事実不器用だから仕方がないのだが。
不器用な自分を受け入れられずにゐるんだなあ。
いろいろめんどくさい。

そんな中、久しぶりにはじめて作つたドイリーに用ゐたモチーフを作つてみた。

Tatted Rosetta Motif

藤戸禎子の「華麗なるレース タッチングレース」に掲載されてゐた初心者向けのドイリーだ。
モチーフはよくあるロゼッタである。
はじめてシャトル一つと糸玉一つを使つて作ることのできたタティングレースのドイリーだつた。

うーん、いま作つても今一つだ。
でも当時はもつとひどかつた。
なにしろほぼはじめてだつたしなあ。
でも前よりはうまくなつてゐる。
そしてまだまだ改善点がある。

さう前向きになれればいいのだが、なかなかむつかしいな。

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Monday, 20 May 2019

好きなものはすぐわかる

かぎ針編みのヴェストを日々ちまちまと編んでゐる。
だが、全然進んでゐるやうには見えない。
前身頃と後ろ身頃ろとをつないで編んでゐるからだ。
しかも、毎段増し目がある。
増えないよな、そりや。

しかし、毎日編んでゐればいつかはできあがる。
さう信じてちまちまちまちま編んでゐる。

ところで、今年の夏号の「毛糸だま」にブリューゲルレースの作品が掲載されてゐると耳にした。
本屋に行つたをり、ちらつと中を覗いてみた。
夏号の特集はウェディングドレスだ。
結婚式に着たり身につけたりするものが冒頭に掲載されてゐる。
花嫁用がメインだが、披露宴に出席する人用のものもいくつかある。
中でもちいさな女の子が着るドレスが可愛かつたなあ。モデルが可愛いのかもしれないが。
あと、新婦の父の着るヴェストなんかもちよつとよかつた。
絶対使はないけど、レースの指なし手袋にも編み心をそそられる。

ほかのページもざつと目を通して、「あー、これいいなあ」と思つたストールがブリューゲルレースだつた。
うむ。
好きなものはちらつと見ただけでわかるんだな。

ブリューゲルレースとは、かぎ針編みで細くテープ状のものを編んで、ところどころ脇に作つたループなどをつないでカーヴを作るのが特徴かと思ふ。
何段編んだらいくつのループをつなぐのか数へ間違ふことも多いが、なんとなく好きなレースの種類のひとつだ。

昔はブリューゲルレースだけで一冊レースの本が出てたんだがなあ。
最近とんと見かけない。

「毛糸だま」、買つてみるかなあ。

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Friday, 17 May 2019

Bullet Journal の続くわけ

公式サイトのblogで、「InstagramでLikeがつかなくなつたから Bullet Journal をやめた」といふ人の話を見かけた。
その人は人目を引くやうなすてきな Collections やレイアウトで有名だつたといふ。

Instagram などを見ると、美麗なイラストやレタリングを配したページの写真がいくつもいくつも並んでゐる。
さういふものにあこがれて、Bullet Journal をはじめる人もあらう。

自分はなぜ Bullet Journal をつづけてゐるのか。

Bullet Journal のことを調べてゐて最初に出会つたのが公式サイトだつた。

「Rapid Logging」。

まづそれに惹かれた。

書き留めることこそが大事。
それにはスピードが必要だ。
文章として書くのではなく、ひとまづは箇条書きで書き留めやう。
「Rapid Logging」とはさういふことだと理解してゐる。

公式サイトでノートの写真を見ると、実に簡素だ。
そして見やすい。
実際にはじめてみて自分の字の見苦しさに辟易はするものの、そして、基本的にはだらだらと文章を書くのが好きではあるものの(このblogを見れば一目瞭然だ)、なるほど、「Rapid Logging」とはいいものだ。

また、Future Log や Monthly Log、時に Weekly Log に書き留めておいた予定やタスクを、日々 Daily Log に落とし込むことで予実管理ができる。
タスクはわりといつ達成したのかわからないことが多い(やつがれは、ね)。
それが記録として残る。
すばらしい。

といふわけで、やつがれにとつて Bullet Journal とは「Rappid Logging」を実践するものであり、予実管理がしやすいもの、だ。
それでつづいてゐるのだらう。

色とりどりのイラストやうつくしいレタリングにもあこがれる。
でもまあ、できる範囲でいいんぢやないかと思つてゐる。
といふわけで、まづは字の練習からだらうか。

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Thursday, 16 May 2019

記録を捨てる世の中に

のどが痛い。
一昨日は血痰が出た。
鼻をかんでもティッシュペーパーが赤くならないので、のどから出た血だらう。

姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉を吐く
とか洒落てゐる場合ではないのだが、つひ。

記録を見ると、どうも一年のこの時期、連休からその後一、二週間くらゐはのどが痛いらしい。
連休に入つたとたん風邪を引いて寝込むことがあるので、そのあふりでのどもやられてしまふといふこともある。
今年は寝込むこともなく連休を迎へたから、あたたかくなつてきて油断してしまつたのかもしれない。
この時期乾燥してくるからといふのもあるかな。

血痰は別段変はつたことではなく、通常運行だ。
記録のおかげでさういふことがわかる。

時々、「いつたい自分はなぜこんなことを手帳に書き付けてゐるんだらうか」と不思議になることがある。
やめちやへばいいのに。
やめたところで困りはしないのに。
だいたいいまは、国の大事な記録でさへ廃棄しちやふ世の中だ。
#「廃棄しました」と口では云つてとつておくのがほんたうなんぢやないの、と思ふが。

しかし、やめられないのだつた。
たまに疲れきつてしまつて、「記録記録」といふ内なる声に耐へきれなくなつて、なにも書かないこともある。
でもいつのまにか再開してゐる。

長いことスケジュール帳にも予定より実績を書き込むことの方が多かつた。
以前の手帳などを見ると、著名人の訃報だとかニュースで気になつたこと、読んだ本、見た芝居、聞いた噺のことばかり書いてあつて、肝心の予定のことはあまり書き込まれてゐない。
予定を立てるのが苦手なのだ。
書いたらやらねばならないといふ強迫観念がある。
また、順序だててものごとを成し遂げていくといふことが苦手だ。

ほぼ日手帳は自分にぴつたりの手帳だつた。
ほぼ日手帳はほぼ十年間使つてゐて、基本的には日誌だつた。
予定も書き入れるけれど、主たる内容は実績だつた。

ちよつとした気の迷ひで Smythson の Panama を手に入れてスケジュール帳として使ふやうになつて、すこし意識が変はつたやうに思ふ。
あひかはらず実績も書くけれど、日々持ち歩いて備忘録のやうに「あれをしなければ、いつまでにこれを終はらせなければ」といふことを書き込むやうになつた。
さうなつてくるとほぼ日手帳はかさばるやうになつて、あまり使はなくなる。

こんな調子なら予定を立てていけるのかもしれない。
SCHOTT'S MISCELLANY DIARY が発売されなくなつて途方にくれて手帳ジプシーをしてゐたとき、Bullet Journal に出会つた。

が、それはまた別の話。

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Wednesday, 15 May 2019

能力とはコミュニケーション能力のこと

自分はとにかくダメな人間で、かんたんにまとめると、対人能力がない。
コミュニケーション能力に欠けるともいふ。

対人能力に欠ける人間は無能である。
最近自分のTLをにぎはせた話題で、みづからの無能を云ひつのるblogの話があつた。
blogを書いた人はまつたく無能ではない。
おそらく、人並みはづれて有能なはずだ。
ただ惜しむらくはコミュニケーション能力に欠けるか本来その能力を持つてゐるのに使ひ方を知らずにゐる。

世の中では、対人能力に欠ける人間は無能と見なされる。
ほかにどんなすぐれた能力があつたとしても、他人にそれとわかつてもらへなかつたらその能力を発揮しやうがない。
真偽のほどは知らないが、ゴッホが生前評価されなかつたのは画商とうまくいかなかつたからだ、といふ説がある。
著名な画家には支援者がゐたり、大きなアトリエをきりもりして大勢の弟子を抱へてゐたりするものがゐる。
さう考へるとゴッホの説もあながち誤りとはいへない気がする。

世の中には対人能力の必要ない職業など存在しない。
職についてゐなくたつて、周囲の人々とはつきあつていかなければならない。
対人能力の強化をあきらめるといふことは、なにごとも「最低限でいいよ」とあきらめることと同義だと思つてゐる。
自分は無能だと認めるといふことだ。

その場合、ほんたうに「無能だけど生きてゐていい」と思へるだらうか。
いまは死んだ方が迷惑をかけるかもしれないから生きてゐる。
そんな感じになるのではないか。

さう云ふと、「ぢやあ無能な他人は生きてゐてはいけないつていふこと?」といふ反論もあるだらう。
でも、大抵の場合世の中の人には対人能力に欠けるところがあるとは思へない。
少なくともやつがれの周囲の人はそんなことはない。
たまに大勢の中にはふりこまれたり、親戚一同で集まつたりすると、自分の気遣ひのなさ、機転のきかなさ、自己中心的な言動につくづくイヤになる。

先月のはじめ、急に思ひたつて、自己肯定感といふものを持つてみることにした。

とはいへ、いきなり持てるものでもないので、とりあへず「自分は生きてゐていいのだらうか」的な考へ方をしないやうにした。

一ヶ月ほどたつて、ちやうどゆり戻しの時期なのかもしれない。
とはいへ、やつぱり、自分はダメだなーと思ふし、かういふ人間を肯定しちやダメだらう、と思ふのだつた。

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Tuesday, 14 May 2019

質も大事

極細毛糸のスカーフは停滞してゐる。

連休前にひさしぶりにレース糸でタティングしてみたら、えらく下手になつてゐた。
毛糸でばかり結んでゐたからか知らん。

ショックだつたので、しばらくレース糸で練習ばかりしてゐる。
シャトルやボビンにあまつた糸で小さいモチーフや短いエジングを作つたりね。

以前、ここに「質より量」といふやうなことを書いた。
まさにそれを目指してゐたのだけれど、でもなにかが違ふ気がして仕方がない。

質より量は確かだけれど、やはりなにか「作品」となるものを作らないとダメなのではあるまいか。

小さいモチーフや短いエジングも作品といへばいいのかもしれないが、どうも自分ではさういふ気持ちにならない。
「練習」と思つてゐるからいけないのかもしれない。
「本番」と思つて作ればいいのかも。

とはいへ、小さいモチーフとか短いエジングはどうもサンプルといふ感じがして、あまり「本番」といふ気にはならないんだよなあ。
なにかもつと「作つた!」といふ気持ちになるやうなものを作るべきぢやらうか。

でもそろそろ極細毛糸にも戻らないと先に進まないし。

ときどき阿修羅くらゐ腕があればな、と思ふよ。

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Monday, 13 May 2019

とじはぎ考

「美しいかぎ針編み 春夏27」に掲載されてゐるかぎ針編みのヴェストをちまちま編んでゐる。

全体をネット編みで編むもので三目のネット編みと五目のネット編みとの密度の差と、その切り替への部分がおもしろい作品だ。

後ろ身頃のヨーク部分から編み始めて、そのあと脇と前身頃をつけ足して裾まで編んでいく、といふとわかるだらうか。

現在、まだヨーク部分を編んでゐる。もう少し編んだら脇と前身頃をつけ足せるんぢやないかな。
問題は、付け足したらどんどん編み地が重たくなつていくといふことだ。

セーターなどを編むとき、後ろ身頃と前身頃と袖とを分けて編むのには意味があると思つてゐる。
編むときに編み地が重たくならないやうな工夫だ。

セーターを輪に編むと、編み進むにつれどうしても自重で編み地がのびてくる。
無論、そのころには編み地を膝の上におけるやうになつてゐるだらうから実際にはそれほどのびない。
それでも手や肩にかかる重さが気にかかるやうになる。

後ろ身頃・前身頃と分けて編めば、重さは若干軽減される。

あるいは仕事としてあみものをしてゐる場合、分業制なんてなこともあつたのかもしれない。
一人が後ろ身頃と肩袖、一人が前身頃ともう一方の袖を編む。
手が違ふから大きさが揃はないなんてなこともあるかもしれないけれど、熟練工が編めばさうでもないのかもしれない。
Elizabeth Zimmermann がお嬢さんと二人で向かひあつて一つのものを編んでゐる、なんてな写真がどこかにあつたやうにも思ふし。

しかし、さうやつてセーターをパーツに分けて編むととじ合はせなければならない。
これが苦手でなー。
それで勢ひとじはぎのない全体を一度に編む方法に走つてしまふわけだ。
今回のヴェストもそんな感じである。
もちろん、編んでみたいと思つたのが先だけど、でもその編んでみたいと思つた理由がとじはぎが少なさうだからなのではないか、といふ気もしてゐる。

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Friday, 10 May 2019

辞書を引く

辞書は信用しない。
人間の作つたものだもの、必ずやどこかに誤りがあるはずだ。

辞書を引かない人間は信用しない。
思ひ込みは誰にでもあるし、出身地のことば、または各家庭独自のことばといふものもある。
それに疑ひを持たない人物を信用できるだらうか。

自分を信用しない。
辞書は信頼できないと云ひながら辞書を引き、他人についてあれこれ云ふだなんてどうかしてゐる。

だから今日も辞書を引く。

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Thursday, 09 May 2019

寝た甲斐がない

連休中は、睡眠第一の生活を送つてゐた。

できるだけその日の内に就寝し、規則正しい生活をする。
二日ほどその日の内に布団に入れなかつた日もあつたが、それでも十二時をちよつと過ぎたくらゐには入つてゐた。
就寝時間と起床時間とは十日間のあひだ、ほぼ一定で、睡眠もきちんととれてゐたやうに思ふ。

それでものどの痛みは去らず、痰が絡んだやうな感覚がつづいた。
連休終盤はちよつとしたことでうつかり泣きさうになつたりするほどだつた。

ちよつとしたことといふのは、「ユリイカ」の橋本治特集号をぱらぱらと見てゐるときに、「歌舞伎の魅力は古怪です」といふ一文を目にしたことだ。
はらはらと涙がこぼれる、と思つた寸前で阻止したが、いまもつてなぜそんなことで泣けさうになつたのかよくわからない。

睡眠が足りてゐたら情緒は安定するものなのぢやあるまいか。
十日間ほどではこれまでの不摂生を清算することはできないといふことか。

もしかしたら、睡眠が足りてゐると、刺激に敏感になるのではあるまいか。
ちよつとしたことにも心動かされる、つまり、感受性が豊かになるのではないか。

「歌舞伎の魅力は古怪です」なんて、もういまどき云ふ人ゐないよ、橋本治くらゐだよ。
と、おそらくあのときさう思つた。
でもその橋本治はもうゐない。
それで泣きさうになつたんぢやないかなあ。

芝居や映画を見たり本を読んだりしても泣くことがない。
「いやー、昨日の芝居は泣けたなあ」と云ふとき、実際には全然泣いてゐない。
人はかういふとき泣くだらうし、たぶん、自分も人目がなかつたら泣いてゐるんぢやないかな。
さういふときに「泣ける」とか「泣けた」とか云ふ。
ほかの人だつたら泣くと思ふけど自分は泣かない、それと「泣けた」とは同義なのだ。
自分の中では。

それつて、もしかして不摂生のせゐで感受性が鈍つてゐたからなんぢやないの。

情緒の安定と感受性の鋭さとはどう関係するのかよくわからないがな。

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