Friday, 22 March 2019

座りつぱなしとポモドーロテクニック

一時間座りつぱなしだと二十二分間寿命が縮む。
二時間縮むといふ話もある。

人により寿命は異なり、それを割り出す方法はないと思つてゐる。
したがつて、「二十二分縮む」だとか「二時間縮む」と聞いても「さういふこともあるだらうが、結果として自分にはなにが原因だつたのかわかるまい」とも思ふ。

ポモドーロテクニックといふものがある。
二十五分間作業をして五分間休む。
四回目には三十分休む。
さういふ働き方をするものだ。

このポモドーロテクニックを試してみたことがある。
感想は、「五分間の休みになにをしていいかわからない」「職場で三十五分間の休みをとるのはちよつと無理」といふことだ。

自分の座席に座つてゐてナンボといふ仕事をしてゐるとかうなる。
五分間の休みにただぼーつと座つてゐるだけでは、あまり休息したことにはならない。
もつと積極的に休みをとりたいが、それもままならぬ職場環境にゐる。

五分でもそれだ。
三十五分ならなほさらではあるまいか。

ポモドーロテクニックでは、仕事にとりかかる前に二十五分間で終はるやう作業を分ける必要があるといふ話もある。
分割作業も二十五分間で実施するのだらうか。
悩みはつきない。

いづれにしても、職場の人の理解がないとポモドーロテクニックを実施することはむつかしい。
それに、芝居でも見に行けば一幕一時間半、ときには二時間座りつぱなしといふことはいくらもある。
劇場や映画館では座席と座席とのあひだにある仕切に腕を置くことは基本的には許されない。
片方の座席の人が肘を載せたらもう片方の人は載せられなくなつてしまふ。
あれは肘掛けではなく、あくまでも仕切といふだけの存在のはずだ。

しかし、あの間仕切りに肘をかける客は後を絶たない。
どうも、長時間正しい姿勢で座つてゐるだけの体力がないやうに見受けられる。
座ることにも慣れが必要といふことだ。
それを考へると、「ただ座つてゐるだけ」とバカにしてもゐられない。

とはいへ、やつぱり座りつぱなしは躰によくないだらうな、とは思ふ。
なのでいまは仕事中は一時間に一度は座席を離れるやうにしてゐる。
根拠はない。
敢て云ふと、さうしないと座りつづけてしまふから、かな。

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Thursday, 21 March 2019

わかつちやゐるけどやめられない

なにかを決定するといふことができない。

などと云ひつつ、まづ「なにかを決定するといふことができない」といふ文章ひとつ打つにもさう打たうと決定してから打つてゐるわけだから、まつたくできないわけではない。

それはわかつてゐるが、でもやはり、決断をせまられると躊躇してしまふ。

食事につれて行かれるとしやう。

「どこで食べたい?」と訊かれても「どこでも」と答へてしまふし、店が決まつて中に入り「何が食べたい?」と訊かれても即答できない。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」の人気のためか最近はクイーンの逸話などがあちこちで語られるその中に、ブライアン・メイの決められないエピソードといふのがある。

「コーヒーにするか紅茶にするか二十分悩んだ」といふのがそれだ。

ブライアン・メイが決められなかつたのは、飲み物を用意してくれる人に配慮してのことだといふ。

どちらにしたら相手の手間を省くことができるのか悩んでゐるうちに二十分たつてしまつた、と聞き及ぶ。

自分の場合はさうではない。

相手に配慮するがゆゑに決められない、などといふ心配りが原因ではない。

決断すると責任が生じる。

それがゆゑに決めかねてしまふのである。

思へば、これまでとにかく責任から逃れやうとしてきた。

無意識のうちにさうしてゐる。

さういふ意味では自分はとにかくスキゾで、すべてのものから逃げたい。

庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」だつたかその続篇だつたかに、主人公のお兄さん(だつたと思ふ)が、とにかく逃げろ、なにもかもから全速力で逃げろ、と云つてゐた、といふ話が出てくる。

主人公である薫くんは「でも逃げきれなかつたらどうなるんだらう」と考へてゐたやうな気がする。

自分がさう疑問に思つたのかもしれない。

逃げて逃げて逃げて、でも逃げ切れなかつたらどうなるのか。

かへつて責任は重たくなるのではあるまいか。

最初のうちにこなしておけばかるく済んだ責任も、逃げてゐるうちにどんどん、それこそ雪だるま式に重たくなつてゆくのぢやあるまいか。

さう思ひつつも、つひ逃げてしまふ。

どこで食べるかなにを食べるかなんて些末なことぢやあないか、といふこともある。

それで死ぬわけぢやないし、なぜ決断を迫られなければならないのか。

そんな細かいことで、有限であると云はれてゐる決断力を消費することはない。

さうして人に迷惑をかけるわけだ。

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Wednesday, 20 March 2019

自意識過剰の「エリーゼのために」

ピアノを習つてゐたころ、「エリーゼのために」を練習しに行つて、先生に云はれたことがある。

「有名な曲を弾いてるんですつて感じがする」、と。

それがどうしても抜けなくて、その後さらふこともなく結局「エリーゼのために」は仕上げることができなかつた。

このことは今でもずつと尾を引いてゐる。

自意識過剰だつたのだらう。
また、いま思ふと承認欲求のかたまりだつたのではないかとも思ふ。

自分は世に知られた名曲を弾いてゐる。
その名曲を弾いてゐる自分を見てほしい。
さうひけらかしてゐるやうだつたのではないか。

いまとなつてはわからないけれど。

ピアノに限らず、なんにしてもそんな感じだ。
如何に「うまく」こなすか。
否、如何に「うまく」こなしてゐるやうに見せかけるか。
さうしたことに腐心してしまふ。

なんのために「うまく」こなすのだらう。
自分のためではない。
「「うまく」こなしてゐると他人に認められたいから」だ。
いやらしい。
いやしい根性だ。

それを捨て去るにはどうすればいいのか。
自分のために「うまく」できるやうにすればいいのかもしれない。
たとへば字にしてもさうだ。
自分が見て「読みやすい」とか「形が好き」と思ふやうな字が書ければそれでよしとする。
かうして書いてゐるblogの記事も、自分が読んで楽しいと思へばそれでいい。

わかつてはゐるんだけどな。

「エリーゼのために」に関しては、その後弾くと喜んでくれる人がゐて、すこしだけ和解した気分になれた。
「エリーゼのために」とね。

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Tuesday, 19 March 2019

糸が足りない

なんだかひどくのびのびとした気分になつて、思はずタティングで栞を作りはじめてしまつた。

Mary Konior の「Tatting With Visual Patterns」から大きい十字架の栞に着手した。

のびのびとした気分だからだらうか、なんだか楽しく作れるぢやあないか。

楽しく作れはするものの、目が揃はないし、リングの大きさもまちまちで、ちよこちよこ気分をそがれながらも、あと少しといふところまできた。

のこりクローバー1と2/3といふところで、シャトルに巻いた糸がなくなつてしまつた。

どうしたものだらう。

シャトルに糸を足して完成させるか。

それとも目も不揃ひでリングの大きさもさまざまなものなど、途中でやめてしまふか。

やめちやはうかな。

さう思ひつつも、完成させることに意義があるとも思ふ。

なぜやめてしまはうかと思ふかといふと、糸を接ぐのがめんどくさいからだな。

実際はスティッチを作りながら糸端を始末していくのだからそんなに手間ではない。

どちらかといふと、残りどれくらゐ糸が必要かといふ方が問題かもしれない。

あまりシャトルに糸を巻きすぎても残ると始末に困る。

といふのはすべて云ひ訳で、えうはもうやりたくないのかもしれない。

完成させることがめんどくさいといふか。

といふことは、やらなければ、といふことだな。

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Monday, 18 March 2019

どこの誰かは知らないけれど

昨日「いだてん」を見ながらアイリッシュ・クロシェットの薔薇のモチーフをちよこちよこと編んでゐた。
不思議だよねえ。
くるくる編んでゐるだけで花の形(薔薇の形とはまたチト違ふのだが)になるつて。
これ、考へた人、天才だよね。

だがその天才の名前は残つてゐない。
あるいは残つてゐるのかもしれないが、やつがれは知らない。
知らないけれど編んでゐる。

酒見賢一が「泣き虫弱虫諸葛孔明」で書いてゐる。
ほんたうに偉大な発明といふのは、その発明者の名前が知られてゐないものである、といふやうなことを。

さうかもしれない。
船を発明した人の名前をやつがれは知らないし、織物を発明した人も同様だ。
糸を紡ぐなんて誰が考へ出したのだらう。
調理したらおいしくものが食べられるといふことも、誰か見つけた人がゐるはずだ。

名前は知らないけれど、その発明・技術は脈々と受け継がれてゐる。
なかには途絶へてしまつたものもあるだらう。
いままさに途絶へんとしてゐるものもある。
あみものとかタティングレースとか、さうした「いままさに途絶へんとしてゐる」といふやうな状況に陥らないやうにつづけてゐるのかもしれないなあ。

などと書きつつ、普段はそんな大仰なことはまつたく考へてゐなくて、楽しいから編んでゐる。
楽しくなくなつたら編まないだらう。

Hell's Grannies Hat はあひかはらず整形はできてゐない。
いつそのこと水通しして形を整へたらそのまましばらく放置しておかうか、と思ふくらゐだ。
それが一番いいかなあ。

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Friday, 15 March 2019

「怪奇大作戦」最終回から五十年

先週の土曜日が「怪奇大作戦」の最終回「ゆきおんな」の放映から五十年の日だつた。

三年前は「ウルトラマン」、一昨年は「ウルトラセブン」放映五十周年といふことで、あちこちでもりあがつてゐたやうに思ふのだが、去年の「怪奇大作戦」五十周年はあまりもりあがつてゐなかつたやうな気がする。

八月にポプリホール鶴川でセレクト上映会があつたくらゐなんぢやあるまいか。
単に情報不足で知らなかつただけなのかなあ。
それは残念だ。

落語では三年前は「ウルトラ落語」、一昨年は「ウルトラセブン落語」があつたが、去年は「怪奇大作戦落語」はなかつた。
もしかしたらどこかの落語会で誰かが「怪奇大作戦」的な噺をかけたかもしれないが、自分が行けた限りなく狭い範囲ではなかつた。

去年はなぜか「ウルトラセブン落語」がまたあつて、その席でお囃子の恩田えりが「怪奇大作戦」好きといふことで「恐怖の町」を弾いてくれた。
落語界には柳家小はだといふウルトラ好きな(ゆゑにまことに前途有望な)前座がゐて、この落語会の太鼓などはすべて小はだがたたいてゐたのだが、「恐怖の町」のときだけは柳家喬太郎が代はつてたたき、とてもノリノリだつたことを覚えてゐる。

この落語会は「怪奇大作戦」放映開始五十周年の翌日だつたかで、恩田えりが五十周年記念のその日に家で「怪奇大作戦」を見た、といふ話をしてくれた。
ほんとは全話見たいけれど時間もないので第一話である「壁ぬけ男」と「京都買います」とを見た、とその場では話してくれた。
「死神の子守唄」も見たとあとで知つた。

うーん、なんで「怪奇大作戦」五十周年イヴェントはないのでせうね。
リメイク作品だつてあるくらゐの番組なのに。

と思つてゐたら、つひ先日「怪奇大作戦の挑戦」といふ書籍が発売されたのだといふ。
まだ実物を見てゐないが、もちろん求めるつもりだ。
求めるつもりだが……表紙からしてちよつと怖いよね。「呪いの壷」の統三さん。まあ「狂鬼人間」の大村千吉よりはマシだけれども。

さう、怖いから「怪奇大作戦」は全話を見てはゐないのだ。残念ながら。
だつて「壁ぬけ男」がすでに怖いもの。キング・アラジン。
「青い血の女」とかも絶対無理。まづ無理。
さう云ひながらちよこちよこ見てもゐるわけだけどさ。

でもなんとなくこー、不条理な話が好きな所以は「ミステリーゾーン(Twilight Zone、ですな)」とか「怪奇大作戦」のせゐなのではないかといふ気がするのだつた。
恐がりなのにねえ。

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Thursday, 14 March 2019

通し観劇をやめたい

歌舞伎座での歌舞伎公演は大抵の場合一日二部制で、昼の部と夜の部とがあり、それぞれ異なる演目を上演する。
昼の部は十一時からだいたい十五時半くらゐまで、夜の部は十六時半から二十時半、ときに二十一時過ぎまでといつたところか。

一日に昼の部と夜の部とを通してみることを「通し」と俗に云ふ。

この「通し」をやめたい、と常々思つてきた。
なぜといつて、まづ体力がもたない。
かならずどこかで睡魔に負けてしまふ。

受け取る能力にも限界がある。
先日、国立劇場の小劇場で芝居を見てきた。
演目は「元禄忠臣蔵」から「御浜御殿綱豊卿」と、「積恋雪関扉」の二つだ。
見た後、感想めいたことを手帳に書き留めてゐたところ、いつもより書けることに気づく。

たまたま今、さういふ時期なのかもしれない。
バイオリズムのやうなもので、書ける書けないにも波がある。
今は書ける状態の時、といふことは考へられる。

でも、それだけぢやないな。
多分、無理なく吸収できる演目立てだつたのだ。
どちらも一時間半前後はかかる長い演目ではあるものの、見るのは二点だけだ。
無理がない。
見終はつて劇場の外に出たあとも、反芻する余裕がある。

これが通しだつたりすると、吸収するだけで一苦労だ。
ひとつひとつ咀嚼する余裕はない。
昼の部で三つ夜の部でも三つの芝居を見たりすると、結局一番印象に残つた芝居しか記憶になかつたりすることもしばしばだ。

それはそれでいいのかもしれない、とも思ふ。
自分の心の琴線に触れた芝居だけを覚えてゐればいいではないか。
それはさうなのだが、それにしたつて印象は薄くなる。
日々の疲れがとれてゐない中での芝居見物ともなればなほさらだ。

そんなわけで、できれば「今日は昼の部、来週は夜の部」といつたやうに見られればいいのだが。
実際はなかなか時間もなくてさうはいかないんだよなあ。
それやると土日は芝居の予定だけで全部埋まつてしまふしね。

読書などもおなじやうなものなのかもしれない。

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Wednesday, 13 March 2019

早く寝たい

毎朝、今夜こそは早く寝やうと思ふ。
帰宅して食事をすると、早くも眠たい。
いま眠れたら、と思ふが、さうもいかない。
夕食の片づけがあるし、入浴もしなければならない。
することはたくさんある。

さうして過ごしてゐるうちに、眠気はなくなつてしまふ。
あれもしたい。
これもしたい。
かくして睡眠時間が遅くなる。
布団に入つても即眠りにつけるわけではない。
かくして朝を迎へ、今夜こそは早く寝やうと思ふ。
負のループである。

早めの就寝が実行できない理由に、「布団に入つたところで眠れるとは限らない」といふことがある。
寝付きの問題もあるし、夜中に目が覚めてしまふといふ問題もある。
せつかく早めに布団に入つてもいつまでも寝付けなかつたり、夜中に何度も目が覚めてしまつては眠つたことにはならない。
さう考へると、早く就寝したところでなにもいいことはないこともあるよな、と思つてしまふ。
ここらへんの問題が解決したら早めの就寝をもうちよつと心がけるやうになると思ふんだよなあ。

八時間睡眠などと誰が決めたのだらう。
そんなことを云はれるものだから、眠れないことに過敏になり、ひどく寝穢くなつてゐる気がする。
電車が遅れやうものなら「自分の睡眠を邪魔するとは!」と思つてしまふ。
なんとかしてもつと寝たいものなのだが。

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Tuesday, 12 March 2019

貴金属とは縁がない

東日本大震災の後ほどなくして、我が家にも「貴金属買ひ取ります」的な押し売りの人が来た。
「買ひ取ります」なんだから押し「売り」は妙か。
押し買ひ?

買ひ取ります、と云はれて、はたと思ひ至ることがあつた。
我が家には貴金属がない。

もしかすると、家族のものはあるかもしれない。
だがやつがれのもので貴金属はない。
あるとして、10金がちよこつとだけ盛りつけられた指輪があるのみだ。
あ、あと万年筆のペン先ね。これは何本かある。20金もあつた気がする。

そういへばスターリングシルヴァーのタティングシャトルもあるが、これはこの後手に入れたものだつたと記憶する。

18金のネックレスとか冠婚葬祭用真珠のなんとかとか、ましてや人の知る宝石のついたペンダントだの指輪だのはない。
イヤリングは耳たぶにかさぶたができるのでほとんどしない。

さうか。
我が家には貴金属はないのか。
すくなくともやつがれの所有するものはない。

押し買ひの人には正直にさう告げた。
ほんたうだと思つてくれたかどうかは知らないが、押し買ひの人は帰つて行つた。

アクセサリを身につけるといふ習慣がない。
だから貴金属もないのだらう。
身につける習慣があつたら、買ふだらう。
あるいはもらへることもあるかもしれない。

タティングレースでも、ビーズなどあしらつてアクセサリのやうなものを作ることがある。
だが、作つても使ふことはない。
ビーズタティングで作るアクセサリはどこか華やかなところがある。
華やかすぎる、ともいへる。

作るのは楽しいから作るけれど、使ふことはない。
自分の使ひたいやうなものを作ればいいのかもしれない、とも思ふ。
それがなかなかなくてねえ。

ま、ビーズタティングのアクセサリを作つたところで、貴金属を所有してゐないことにかはりはない。
ビーズはただのガラスビーズが好きだしね。

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Monday, 11 March 2019

連続編みモチーフにしないわけ

Hell's Grannies Hat 用の花飾りはぼちぼち進んでゐる。

いまはアイリッシュクロシェットの花ばかり編んでゐる。
花びらが二段のものと三段のものとをそのときのの気分で作る。

アイリッシュクロシェットに限らず、モチーフを作りためてつなぎあはせる手法のあみものは、これまであまり作つたことがない。
作りはじめても途中で挫折することが多い。
途中で挫折すると、ものがモチーフだけにほどいた糸もたいした長さにはならない。
それで困つてしまつて、「もうモチーフつなぎはやめる」と思ふこともしばしばだ。

世の中には連続編みモチーフといふものもある。
カスパリー編みとも呼ばれてゐて、おそらく「カスパリー編み」と称すると著作権だか特許だかにふれるのだと聞いた覚えがある。
それで「連続編みモチーフ」といふ、何をするかわかりやすい名前で呼ばれることもあるのだらう。

仕組みはそれほどむつかしくはない。
円形のモチーフを一列つなげたいとしやう。
最初のモチーフを半分だけ編む。次のモチーフも半分だけ編む。それを編みたいだけ繰り返して、最後のモチーフは全部編み、戻りながらほかのモチーフを円として完成させていく。
何段にもつなげたい場合は、円の四分の一とか三分の一とか、適切な位置まで編んで次のモチーフにうつるをくり返し、戻りながらひとつひとつのモチーフを完成させていく。

仕組みはかんたんだが、どの位置まで編んで次のモチーフにうつるかを考へるのがちよつと手間だ。
それで結局モチーフをひとつひとつ編むことになるのだつた。

モチーフつなぎは苦手だ。
つなぐのがいけない。
編みながらつないでいければいいのだが、あとから針を使つてつなぐやうなのは完成できた試しが多分ない。
しかし、編みながらつなげていく場合、モチーフ編みのよさが生かされないことも考へられる。

モチーフ編みのよさといつて、ちよつとあいた時間に小さいものを編みためておける、といふことがあるからだ。

この、「ちよつとあいた時間に小さいものを編みためることができる」ことのよさを今回、しみじみ感じてゐる。
平日などはたいして編んでゐる余裕はない。
エアポケットのやうにふつとあいた時間に、ちまちまとモチーフを編む。
場合よつては完成させることもできる。
これがいまのやつがれの状況にぴつたりとはまつた。
それで、これまで苦手としてきたアイリッシュクロシェットのモチーフも編みためることができてゐる。

あとはどうつなぐかだなあ。
それと、帽子を編んだものの、時間のあるときに天気の悪いことがつづいたので、まだ整形できてゐない。
これも早くしなければ。

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