Thursday, 27 February 2020

国語辞典ナイト12: 勉強は好きですか?

月曜日に「国語辞典ナイト12」に行つてきた。

はじめての国語辞典ナイトだつた。

今回は辞書をもとにしたゲームをすることが多かつた。

語釈から単語を当てるといふ逆引き的なゲームもあれば、利用例の初出年がぴつたりな単語を探すといふ「そんな使ひ方したことないぞ」といふやうなゲームや類語や同音異義語をあてるゲームもありの楽しい催しだつた。


そんなわけで、今回はゲームやゲーミフィケーションといふところに焦点を当てたイヴェントだつた。

最初にその件について飯間浩明によるプレゼンテーションがあつた。

その中でなぜ辞書には人気がないのかといふ疑問を呈してゐて、その理由として「勉強に使ふものだから」といふことがあげられてゐた。

小中高の児童・生徒向けの辞書にはほぼ必ず題名に「学習」といふ単語が入つてゐるからぢやないか、とかね。


このときに、「勉強が好きな人はゐないでせう」と云はれて、はつと思つた。


勉強つてなんだらう。

勉強、押しつけられてするのは好きぢやないけど、自分の知りたいことを自分で調べたりするのは好きかも。

それつて勉強ぢやないのかな。


手持ちの「新潮現代国語辞典」第二版の第一義には「しいてつとめること」と書いてある。

確かにそれは好きぢやないな。

第二義の「学問をすること。勉学」はどうだらう。

親や教師から云はれてするのはイヤだけど、自分で進んでするんなら楽しいのぢやあるまいか。

「勉強」といふ文字の元の意味からいつたら、楽しいのは「勉強」ぢやないのかな。

ちなみに第三義の「商品などを安く売ること」については、買ふ側の人なら大抵は好きなのぢやあるまいか。


たぶん、「好きな人はゐないでせう」と決めつけられたのがいけなかつたんだな。

主語が大きい、と最近ではいふけれど、そんな気がしてしまつたのだらう。

それで反発してしまつたのだと思ふ。


「勉強、好きでせう?」と訊かれたら絶対「そんなことあるわけないぢやありませんか」と答へてゐたはずだ。

かういふところに天の邪鬼の悪いところが出てしまふ。

え、天の邪鬼にいいことがあるのかつて?

それは云はない約束よ。


さう云ひつつも、辞書が好きな人には勉強も好きな人が多いんぢやないかと思ふのだがどうだらう。

自分の知らないことを知る、知らないことを調べる、さういふ人と辞書が好きな人とは重なるやうに思ふんだが、如何に。

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Wednesday, 26 February 2020

この冷たいしやべり方の人は自分?

高校生のとき、八つくらゐ下の子となかよくしてゐたことがあつた。
トランプで遊び、ゲームをし、TVドラマを一緒に見た。

時折、その子が見たいTVドラマの曜日と時間帯やチャンネルを間違へることがあつた。
それを指摘するたびにかう云はれた。
「なんでも知つてると思つてるでせう」

そりや八つ下の子に比べたらさうだし、見たいTV番組と曜日・時間帯・チャンネルの組み合はせについては三つかそこらのころから覚えてゐたと親から聞いてゐる。
でもそれをして「なんでも知つてゐる」といふことはない。

最近、顧客にいろいろと話を伺つてゐる。
とりこぼしがあるといけないので、許可を得て内容を録音しながら行つてゐる。
先日、はじめてその録音内容を聞くことがあつた。
そして、自分のしやべり方に愕然とした。

まー、なんて冷たくて高慢ちきなしやべり方をしてゐるんだらう、この人間は。

といつて、それは自分なのだが。
しやべつてゐるときは全然そんなつもりはない。
相手は客だし、むしろ丁寧に話してゐるつもりだ。
それがどうだらう、この、おつにすまして気取つたやうすは。

なるほど、あのとき、あの子から「なんでも知つてると思つてるでせう」とイヤミのひとつも云はれるはずだ。
こんな云ひ方をされたら自分だつてさう思ふ。

普段からこんなしやべり方なのか、この自分は。

どうしたもんだらうね。
しばらくは録音しそれを聞く機会もあるだらうからなんとか修正していけるだらうか。
とはいへ、しやべつてゐるときは普通にしやべつてゐるつもりなのだから、なほしやうがないともいへる。

とりあへずはできるだけしやべらないやうにするか。

他人についても「なんていけすかないしやべり方をする人だらう」と思ふことがある。
でも本人はさういふつもりはまつたくないのかもしれない。

用心用心。

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Tuesday, 25 February 2020

再挑戦

Eleonora in Progress

タティングレースのドイリー、Iris Niebach の Eleonora を作り始めた。

「Tatted Doilies」に掲載されてゐるドイリーで、タティングシャトルを二つ使ふ。
一番の特徴は、目に見えるピコがないことだらう。
すべてのピコはリングやチェインをつなぐために存在する。
かういふデザインが好きでね。

あと、一周するだけでできあがる、といふのもあるか。
一見、二、三段ありさうなドイリーだが、一段だけでできてゐる。
「Tatted Doilies」にはさういふ作品が多い。

そんなわけで、過去にも挑戦してみたことはあるのだが、見事に玉砕した。
つなぐ位置やリングとチェインとの編成を勘違ひしたから、だ。
だつたらほどけばいいのだが、当時のやつがれの技量ではほどくことができなかつた。
リングの端のダブルスティッチが逆向きになつてしまつてゐたのだらうと思ふ。
糸を引きすぎてスティッチも小さくかたくなつてしまつてゐてどうにもならなかつた。

かういふときにはペンチの出番なのかもしれないが、いまに至るまでペンチをどう使ふのか知らぬままである。

なにごとにつけ自分のことを「Experienced Novice」だと思ふのはかういふところだなあ。

写真の後、今回もまんまとリングとチェインの編成を勘違ひし、リングをつないだまましばらく進んでしまつたのだが、なんとか復旧した。
復旧できるやうにリングを作ることができるやうになつた、といふべきなのかもしれない。
全然上達してゐないやうで、どこかではうまくなつてゐる部分もあるんだな。おそらくは。

そんなわけで、なんとかつづけて作つてゐる。
問題は、長いチェインが多いのでできあがつたときにちやんと平たくなるか、だな。

本では円形になつてゐるが、Web検索して出てくる写真には六角形に近いやうな形のものもある。
円形に近い方が好きなんだけどなー。

それにしても、Web検索して出てくる写真のすばらしいことよ。

「Tatted Doilies」のほかのドイリーも作りたくなつてきてしまふぢやあないか。

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Monday, 24 February 2020

レッグウォーマ

Leg Warmers

レッグウォーマを編み終はつた。

パピーのシェットランド二玉を使ひ切るためといふのもあつた。
なので、足部分の長さがちがふのは毛糸だまの長さがことなるからだと思ふ。

4号針で60目、ゴム編みの作り目にして二目ゴム編みでひたすら編む。
毛糸の残り具合を見ながらかかとを伏せ留めし、次の段で作り目してまた二目ゴム編みで足の部分を編んだ。
足の部分は通常シェットランドくらゐの太さ、つまり並太毛糸でくつ下を編むときの標準目数にした。
すなはち48目だ。
最後はゴム編み留めにした。

なにも考へずに作り目をしたが、60は48の1.25倍だつた。
これくらゐ余裕があると、寝間着の上から履いても余裕がある感じだ。
その他の太さの毛糸で編む時に参考になるだらうと思ふ。

このあたたかいのにレッグウォーマなんぞを編んでも、と思はないでもない。
編み終へたあとも、「出番は次の冬かな」とか思つてゐた。

だが、夕べはそれなりに冷えたので履いて寝てみた。
いい感じだ。
しめつけないのがいい。
それでゐて脱げてくるほどゆるくもない。
つま先とかかとがないので最初はちよつと冷える気もするが、段々あたたかくなつてくる。
これ、普段出かけるときに履いてもいいよなあ。その場合は下に、だけど。

つま先もかかともないくつ下を編むのは案外つまらないものであつた。
でも履いてみると案外いい。
世の中、さういふものなのかもしれない。

つま先とかかとが編みたいので次はくつ下を編むつもりでゐたが。
なんだかかぎ針編みをしたい気分。
どうしたものだらう。

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Friday, 21 February 2020

歌舞伎「風の谷のナウシカ」の主人公はナウシカであることについて

十二月に新橋演舞場で上演された歌舞伎「風の谷のナウシカ(以下「ナウシカ」)」が映画館で上映されてゐる。
いまは昼夜上演されたうち昼の部が上映されてゐて、東劇では日延べ興行が決まつたさうな。

「ナウシカ」の主人公はナウシカである。
それはもう「義経千本桜」の主人公が義経であるのと同様にさうである。

「義経千本桜」は、現行上演される部分を見てゐると、各段に主役がゐて、義経は脇役といふやうな印象があると思ふ。
知盛が権太が忠信が主役で、とくに忠信が主役で、義経は狂言廻しに過ぎない印象があるだらう。

でもこの狂言廻しこそが古典、とくに丸本物の芝居の主人公なのだ。
「義経千本桜」の義経がそれにあたる。

だいたい、義経でなかつたら「義経千本桜」は成り立たない。
義経の代はりに範頼をおいてみればわかる。
範頼は頼朝の勘気のせゐで大物浦に逃げたりしない。四天王もゐないし愛妾もゐない(作ればいいけれど)。自分の身代はりになつて死んだ家来もゐない(探してみてはゐないけれど)。
権太だけはなんとかなるかもしれないが、範頼が主役だと知盛と忠信の出番はない。
義経だから知盛も忠信も活躍できる。

丸本物ではないが「勧進帳」もさうだ。
ところは安宅でなくてもかまはない。
関守が富樫である必要はないし、関守とやりとりするのは鎌田正近とかだつていい。
ただ、義経だけは他人にすげかへることはできない。

TVドラマの「水戸黄門」もさうだ。
タイトルロールなのだから主人公は黄門様だらう。
でも実際にドラマを見てみると、毎回のゲストが主役となつて話が展開する。
黄門様の役割はゲストを助けることだが、立ち回りでさへ助さん格さんにまかせてしまふ。
だが、毎回のゲストは誰でもいいし、助さん格さんは黄門様だからついてきてくれてゐる。ところの悪代官も相手が黄門様だからいふこともきく。
黄門様は変へられないのだ。

「ナウシカ」のナウシカもさうでせう。
厳密にいふと、フィクションだからナウシカでなくてもいい。
でもナウシカのやうな役回りの人物が主人公だからこそ話が展開する。
原作と人物造形が違ふと非難する向きもあるが、だつて歌舞伎だもん。
歌舞伎とはさうしたものなんだもん。

新橋演舞場で「ナウシカ」を見たとき、ナウシカを演じる尾上菊之助を見て、「義経役者の家の人だなあ」としみじみ思つた。

歌舞伎「風の谷のナウシカ」の主人公は正しくナウシカ。

さう信じてゐる。

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Thursday, 20 February 2020

素読をするには

「論語」の素読をちまちましてゐる。
休みの日、それも出かけない日にしかしないので、そんなにできてゐるわけではないが、これは想定内だ。
平日早起きしてだとか帰宅してからだとか、ムリだもの。
ムリなことはしないに限る。
続かないからだ。

とはいへ、いまの状況では続いてゐるといへるのかどうか甚だ心許ないことも確かではある。
でもまあ、やめてはゐない。
あとは自分の気持ちの問題だらう。

ところで、素読とは意味・内容を考へずに音読することだ、と辞書にはある。
これがなかなかむつかしい。
どうしても読むときは意味を考へてしまふ。
どうしたものかとWeb検索をかけてみると、まあ出るわ出るわ、なんだかいはゆるスピリチュアルな匂ひのする記事の数々。

やつがれはただ、昔の人がしてゐたといふことをやつてみたいだけなんだがなあ。
さういふ風に思ふといふことがすでに「スピリチュアル」への第一歩なのだらうか。

さういふ内容はとりあへずおくとして、記事の中には「素読といふのは先生の音読したことをそのままくりかへすこと」といふやうなことを書いてゐるものがある。
北白川幼稚園の記事などがさうだ。

なるほど、誰かの読み上げたものをアウム返しにするだけなら、意味や内容は考へずとも云へるかもしれない。
しかし、それには先生が必要だ。
あるいは誰か別の人。
それとも自分で読み上げたものを録音しておいて、そのあとにつづけてくり返すか。

案外めんどくさいな、素読。

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Wednesday, 19 February 2020

早く云つてよ

鎌倉幕府がはじまつたのは1192年。
学校ではさう教はつた。
研究が進み、どうやら1185年といつた方が正しい、といふ話が出てきたのはいつごろだつたらう。

スリランカの首都はコロンボ。
こどものころ我が家にあつた地球儀ではさうなつてゐた。
いつのまにかスリジャヤワルダナプラコッテに変はつてゐた。
いまはどうなのか、よくわからない。

斯様に、学校で学んだことやこどものころ覚えたことは変はる。
研究の結果いままでの知識が間違つてゐたことがわかつたり、新たな発見によつて書き換へられたり、単に事実が変はつたり(首都移転とか地名変更とか)。

それについて、「あれこれ変へないでほしい」と云つてゐるのを聞いたことがあるが、まあ、それはムリな話だ。
だつて変はつちやつたんだもん。
学校で習ふことは、ここまでの発見・研究の成果でしかない。
学校で教はることはその時点では正しいかもしれないが、未来永劫正しいとはかぎらない。
そんなことは学校では教はらなかつたけれど、なんとなくわかつてゐたやうに思ふ。
ゆゑに「いい国作らう鎌倉幕府」が使へなくなつても、「世の中つてさういふもんだよな」と思つた。

しかし、最近さう思へないことがある。
いはゆるポリティカル・コレクトネス(以下PC)に関はることとかね。
いつのまにさうなつたの、と思ふ。
このまへちらつと見かけたPC関連の本が1997年出版と書いてあつたから、そのころにはもう取りざたされてゐたのだらう。

知らなかつた。
どうして教へてくれないんだよ。
いきなり聞いても受け入れられないぢやんよ。

また、TwitterのTime Lineで見かけることに、「自分の気分次第で相手にあたつてはいけない」といふことや「相手の容姿・身体的特徴に言及してはならない」などといふやうなことがある。

正論だ。
正しい。
でもさー、それ、いままでみんなやつてきたことぢやん。
「みんな」は主語が大きすぎるだらうか。
でも「自分の気分次第で相手にあた」り散らす親の元で育ち、就職してからもそんな上司ばかりで現在もさうとなると、「自分の気分次第で相手にあたつてはいけない」といふのは正しいかもしれないけど、万人に受け入れられてゐるわけぢやないし、常識ぢやないよね、と思ふ。

ぼんやり眺めてゐると、じわじわとだんだんさうなつてきてゐたのだらうとは思ふ。
でもなー、だつたらもつと早く教へてほしかつたよ。
なんでいまごろ、それももう「こういふことに決まつてゐるから」みたやうに押しつけられなければならないんだらう。
いいことなんだからさ、もつと早くに云つてよ。

と、学校で教はつたことがあれもこれも変はつてしまつて「あれこれ変へないでほしい」と云つた人も思つたのかもしれない。

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Tuesday, 18 February 2020

整形も糸巻きも

タティングレースのドイリーはほぼできて、あとは整形するだけだ。
これができない。
なんでできないんでせうね。
またやつてもきれいにできないんだ。
さう思ふから余計にやりたくないんだらう。
いづれにしても、見るからに「タティングレース!」といふ感じのドイリーができた。
それだけは確かだ。

で、次になにを作るか、なのだが。
「今年はドイリーを作る!」と先月ここにも書いたやうな気がするが、これといつて作りたいドイリーがない。
RenulekのSpring Doily 2014に再チャレンジしてもいいのだが、といふのは一カ所みごとに間違へてしまつたところがあるからだが、どうしたものかなあと思つてゐる。
もともとこのドイリーは何枚か作りたいと思つてゐたからここでもう一枚といふ手もある。
でもなあ、結構糸を消費するしなあ。
つまり、タティングシャトルに糸をたくさん巻かねばならない。
いま、その気力がないのだつた。

いかんなあ。
整形もできない、シャトルに糸も巻けないではなにもできない。

そんなところにちよろつと「栞、作りたいかも」みたやうな気分になつたりもしてゐる。

Spring Doilyを作るのに使つてゐたシャトルにまだ糸が残つてゐるので、それで栞を作るかな。
で、その後新たな気分でなにかしらドイリーを作る。

それがいいかもしれない。

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Monday, 17 February 2020

このあたたかいのに編んでゐる

二月だといふのにめうにあたたかい。
こんなにあたたかいのにレッグウォーマといはうか長めのヨガソックスを編んでゐる自分はなんなのだらうと思ひつつも編んでゐる。

編んでゐたらまたすこし寒さが戻つてくるといふので、このヨガソックスも無駄になることもあるまい。

パピーのシェットランドを4号五本針で編んでゐる。
作り目は60目。ゴム編みの作り目をして二目ゴム編みをひたすら編む。
寝間着の上からも履けるやうにかなりゆつたりめだ。
つま先とかかとは編まず、足の部分は通常のくつ下くらゐのサイズで編んでゐる。
もう片方はできあがつてゐて、普通に履くとふくらはぎをすつぽり包むやうな長さだ。
なかなかぬくい。

これも This-is-the-BBC Waistcoat を編んで余つた糸で編んでゐて、これで最後だ。
最後の二玉だつたので、片足一玉づつ編み切る感じだ。

ヨガソックスを編んでゐると、くつ下編みの醍醐味といふのはつま先とかかととにあるのだなあとしみじみ感じる。
ここのところくつ下を編んでゐないから次は久しぶりにくつ下を編むかなあ。
かうして五本針とか四本針でちまちまちまちま輪に編んでゐるのはとても楽しい。
でもつま先やかかとがあつたらもつと楽しいだらう。
そんな気がする。

五本針や四本針で編むときは針と針とのあひだにゆるみやすい。
これを防ぐには、各針にかかつてゐる最初の二目をきつめに編むことだ。
一目だけだとゆるみやすい。
二目きつく編む。これだけで仕上がりが全然違ふ。
三目きつく編んでもいいけど、このあたりはもう好みになつてくるかな。
二目だけでは足りなくて三目きつく編んでゐた時期もある。
手がゆるいからだらう。
最近は二目だな。

そんなわけで、せつせと編んでるし、まだ冷える日もあるだらうけれど、なんかもう毛糸であみものつて無理なのかな、とも思ふ。
世の中、どんどんあたたかくなつてゐるしね。
だつたら綿や麻を編めばいいぢやない、といふかもしれない。
でも羊毛の糸が一番編みやすい気がするんだよなあ。

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Friday, 14 February 2020

KPTは和製英語?

KPTといふことばがある。
Keep, Problem, Tryの頭文字を取つたものださうな。
主に、仕事の場でなんらかのタイミングで来し方をふり返る際に用ゐられる手法だといふ。
これからもつづけたいことはK、うまくいかないとかなんとか問題だと思つたことはP、この先かういふことをしやうといふことはTとする。

これね、なんで品詞がバラバラなんでせうね。
とても気持ちが悪い。
keepやtryは名詞としても用ゐるが、keepは意味が違ふよね。
その三つを並べることで、ものすごく違和感がある。
ほかの人はさうぢやないのかな。
違和感はあつてもいいものだから(多分)つづけてゐるのだらうか。

似たやうなものに Fun, Done, Learnといふのもあつて、これもやつぱり背筋のぞはつとするところがあることばだ。
うーん、なんでかうなつてしまふんでせうね。

さう思つてゐたら、YWTといふのもあるんださうな。
「やつたこと」「わかつたこと」「つぎやること」の頭文字をとつたものだといふ。

やつぱり「KPTつてなんか気持ち悪いよね」と思つた人がゐるんぢやないかなあ。

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