Friday, 23 October 2020

毎朝一枚

毎朝、タロットカードを一枚引く。
実際にではなく、iPhoneのアプリケーションで一枚だけ引けるものがあるのでそれを使つてゐる。
やたらと「VI 恋人」が出るといふ話は以前書いたやうに思ふ。
あのあと、毎回同じ位置のカードを開けるやうにしたらそんなことはなくなつた。
十月はまだ一度も見てゐない。
おそらく日付や時刻を使つて乱数を作つてゐるのぢやないかと思ふ。

毎朝一枚引くといふのは、米光一成の『思考ツールとしてのタロット』にあつた。
最近のタロット占ひは、悪い意味を持つカードはないといふのが主流なのださうである。
だから死神だとか悪魔だとか塔だとかを引いても悪い意味にとらず、この本によれば死神は「リセット」、悪魔は「抑圧したエネルギー」、塔は「からをやぶつて」みたような意味といふ解釈をしてゐる。
さはさりながら、やつぱり塔とか出るといい気持ちにはならない。
塔はやつがれにとつては魔獣なので身近といへばさうなのかもしれないが、さういへば最近師匠とも疎遠だ。
師匠は愚者なのだけれども、あまり冒険とかびつくりするやうなことをすることがないので話すことがないのだ。
弱つたなー。弱つてゐるのは師匠の方だらうけれど。

それはさておき。

でも、毎朝一枚引くのは占ひのためではない。
なにかあつたときに判断の材料にするために引く。
たとへば今日は「II 女教皇」が出た。
知性とか直感とか知つてゐるけど秘密にしておくとかいふやうな意味のカードだと思つてゐる。
そんなわけで、今日はあることをしたけれど誰にも云つてゐないことがある。
話したものか否か悩んで、「さういや今日は女教皇を引いたな」と思つてだまつてゐることにした。
自分としては誰かに話したいんだけどね。
でもそこは我慢することにした。
それで吉と出るか凶と出るかはわからない。

これも占ひなのだらうか。
自分はさうは思つてゐないのだけれどもね。
だつてこのまえも「XVI 塔」を引いたけれど、これといつてショッキングなこととかなかつたしね。
あつたとしても「いままでのことはなかつたことにして何か新しいことをはじめやうといふことだらう」くらゐに思へばいい。
さうわかつてゐても、やはり伝統的な「XVI 塔」の意味にとらはれてしまひがちではあるんだけどね。

今後はもうちよつと連想を働かせていきたいと思つてゐる。
『思考ツールととしてのタロット』には「コレポン」といふことばがでてくる。
コレスポンデンスの略で、カードからいろいろ連想してみませう、といふことだと理解してゐる。
いはゆる「腐女子」はこのコレポンが得意なのだといふ。
残念ながら「野にして卑だが腐ではない」のでそこんとこが弱い。
今後の課題である。

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Thursday, 22 October 2020

銀英伝の黒幕と大物感

『銀河英雄伝説』のアニメ、Die Neue These (以下、「ノイエ」)は、NHK教育TV(とは今は云はないのだらうが)で最終盤を見てゐた。
当初放映してゐるのを知らなかつた。
また、昨日のエントリにも書いたやうに、俗にいふ石黒版もそんなに熱心には見てゐない。
舞台はまつたく見てゐなくて、宝塚は見ることができた。
原作は、九巻十巻は発売日を待つて買つた。
以下は、その程度の見識の人間の世迷言である。

ノイエを見てゐて、ルビンスキーやトリューニヒトに大物感がないなと思つた。
ルビンスキーとかそこら辺にゐさうなをつさんだし、トリューニヒトはそんなに大物ではないのかもしれないがしかし石黒版にはあつたやうなアヤシさが欠けてゐる。
それが悪いといふのではない。さういふとらへ方もあるんだなと最初に見たときは思つた。

でも、多分、さうぢやないんだな。
政界の黒幕に大物感があるといふのは、おそらく昭和の感覚なのだ。
だつて見てごらんよ。
いま、各国の首脳に大物感のある人物がゐるかい?
各大企業の社長や会長でもいい。
威風あたりを払ふやうな人物を思ひ浮かべることができるだらうか。
残念ながらやつがれにはできない。

以前ここにも書いたやうに思ふが、ボール・クルーグマンが New York Times に書いてゐたことがある。
ニクソンの時代はよかつた、といふやうなことを。
断るまでもなくクルーグマンといへばリベラルで、ニクソンを褒めるなんて今度はいつたいどんな皮肉かと思つて読んでみたらさうではなかつた。
ニクソンのころは、政治家は政治家の顔をしてゐた。
クルーグマンはそんなことを書いてゐた。
ニクソンがさう、とは書いてゐないところがミソだ。

たとへば、さうだなあ、フランスの大統領でいふと、シラクには貫禄があつたが、サルコジとかマクロンとかにはさういつたものは感じられない。
アメリカにしても政治家らしかつたのはニクソンまでかもしれない。フォード以降はどうも、こー……いや、個人的な印象だけれども。
いまここに、G7のはじまつたばかりのころの参加者の写真といまのG20の参加者の写真を並べてみたらその違ひに愕然とするのではあるまいか。

さうした違ひが石黒版とノイエのルビンスキーとトリューニヒトにはある。
ノイエの二人は時代を反映してゐるんぢやあるまいか。
いまどき、政治家や政界の黒幕に大物感なんてない。
映画にしても昔は悪の親玉といふのは貫禄のある人物だつたけれど、いまはもつと卑近な感じがする。リアルといへばさうかもしれないが小物になつたともいへる。

ノイエしか見てゐない人にはもしかするとルビンスキーにもトリューニヒトにも大物感があるなあと思つてゐる人もゐるのかもしれない。
それに、今後続篇が作られて、それを見たらまた違ふ印象を抱くこともあるかもしれないとも思ふ。
いまから楽しみだ。

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Wednesday, 21 October 2020

銀英伝にはマーラーがよく似合ふ

土曜日に秋葉原UDXシアターの『銀河英雄伝説』の上映会に行つてきた。
この日上映されたのは俗に石黒版と呼ばれてゐる以前のアニメの外伝にあたる作品三作だ。
上映順に『第三次ティアマト会戦』『わが征くは星の大海』『新たなる戦いの序曲』である。
あとの二つは先月もおなじ場所で見たんだけどさ。

石黒版とはあまり相性がよくない。
『わが征くは星の大海』を映画館に見にいく前、あまりにも情報がなかつた。
考へてみればアニメ雑誌、特に徳間なんだから『アニメージュ』でも見ればよかつたのかもしれないが、その時にはさういふ発想がなかつた。
『ぴあ』などを見ると、出演者のところに「富山敬」とあるばかりだつた。
あともう一人くらゐ名前が書いてあることがあつたけれど、記憶にあるのは富山敬だけである。
見て、「ヤンだつたらヤだなー」と思つた。
自分のイメージとまつたく違ふからだ。
それに、富山敬の演じる役で好きなものがタイムボカンシリーズのアナウンサくらゐしかなかつた。
『キャンディ・キャンディ』のテリーなんかも全然イメージと違つた。
で、実際に見て、やつぱりヤンで、なんか違ふんだよなー、と思つてしまつた。
その後、続きを見ることもあつたけれど、ユリアンに対して意見するところなんかがひどく説教じみてゐて、それがまたイヤだつた。
ヤンは説教しても説教めいたところがない、あつてもほんのわづかだらうと思ひながら読んでたからさ。受け入れ難かつたんだよね。
先月見たときは「記憶にあるほどイヤぢやない」と思つたから、思ひ込みといふのはおそろしいものではある。

まあでも、石黒版がダメな理由はそれではない。
マーラーの交響曲第六番のせゐだ。
マーラーの六番はマーラーの交響曲の中で一番好きな曲だ。
それを、憂国騎士団に使つたんだよ、石黒版は!
それも、第一楽章だけならまだしも第二楽章(ときに第三楽章)までも!
許しがたいだらう?
とても許せなかつた。
たとへば。
第一楽章でも第二主題を使つたとか、第二楽章でものちに第二楽章になつた方を憂国騎士団に使つたといふのなら、「すごい!」と思つたに違ひない。
あまりにも安易だよ。

とはいへ、『わが征くは星の大海』をはじめて見たときに、「マーラーは銀英伝に合ふなあ」と思つたことも確かだ。
冒頭いきなり第三番のファンファーレが鳴り響く。
いいんだよなあ。
銀英伝を読んでゐるころは、マーラーのブームがきてゐたやうに思ふ。
TVコマーシャルにも「大地の歌」を使つててゐたり、CDの普及もあつたりして、マーラーの曲が広く知られるやうになつてゐた。
当時、『わが征くは星の大海』を見て、「ワーグナーを使はなかつたのはさすが」みたやうな意見があつた。
さうかなぁ。銀英伝にはワーグナーよりマーラーの方が絶対合ふし、使つちやつてるぢやん。
その意見を見てさう思つた。
ワーグナーはそののち使つてゐるけどね。
『新たなる戦いの序曲』でも「ジークフリート牧歌」や『ローエングリン』の第三幕への前奏曲を使つてゐる。
でもどちらかといふと、ファーレンハイトが出撃を告げるところにガンと入つてくる「巨人」の第四楽章なんかがとてもいいんだよなあ。
しびれる。
しかも、ファーレンハイトの「何をしてゐやがる」で一旦切れる。
いいなあ。

といふ感じで、いくらでも語れてしまふのだが、ほんとに書きたいことにたどり着く前にこんなことになつてしまつた。

今週の土曜日はおなじ場所でノイエ銀英伝の一挙上映があるのださうだ。
見たいなー。
でもその日はもう先約があるのだつた。
残念。

石黒版に受け入れられない点があるのと同様、ノイエにも「それつてどうよ」と思ふ点はいくつかある。
でもそれはなににでもあると思ふのだ。
AにはAのよいところ、BにはBの長所といふものも確かにある。
さういふことだと思ふけどな。

石黒版は、本篇のあと外伝がつづいて最後がもともとは『第三次ティアマト会戦』だつたのだといふ。
最初が『わが征くは星の大海』だから、円環になつてゐたわけだ。
おもしろい。
ノイエはどうなるんだらう。
つづきが楽しみだ。

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Tuesday, 20 October 2020

先達への感謝

タティングをしてゐると、糸をつぎ足すのが億劫に感じられることがある。
つぎ足し方にもいろいろあつて、よく本に載つてゐるのは残つた糸と新たな糸とを結ぶ方法だらうか。
これだと目立たない位置に結び目がくるやうに結ぶ必要があるし、できればのりでかためて余分な糸端を切ることになる。
この「目立たない位置に結び目がくるやうに結ぶ」のが苦手でねえ。
毛糸で結ぶときは気にならないんだがなあ。
毛糸は毛が絡むのでのりでかためなくても糸がほどけてきたりしないし、うまい具合に結び目を目立たない位置にうつすのも綿の糸にくらべてやりやすい気がする。

Magic Threadを覚えてからはもつぱらこの方法で糸始末をするやうになつた。
結び始めは糸端を芯糸と一緒にしてしまふ。
ちよつとめんどくさいけれど、結び終へたあとの手間が少なくていい。

糸端の始末なども「伝統」にこだはる人にはmagic threadなんて邪道なんだらうな。
でも新しい技法が生まれるといふことは、それだけタティングに真摯に取り組んでゐる人が多いといふことだ。
さうでなければ新たな技なんて出てくるわけがないし、広まるわけもない。
タティングレースは、以前はピコでつなぐといふ発想がなく、ピコとピコとを糸で結んでゐたといふ。
その方法だと時間がかかるし、あちこちに結び目ができて糸端も残ることだらう。
ピコでつなぐ方法を思ひついた人はすごい。
時折ピコをつなぐ時にしみじみ感謝することがある。
チェインを考え出した人もすごいし、モックリングやスプリットリングを考案した人もすばらしい。
そもそも糸同士をかうして結んでレースにするなんて、どこの誰が考へついたのだらう。
先達のなんとありがたいことか。

なんてなことを常に考へてゐるわけではなく、なにかの折に思ひ出す。

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Monday, 19 October 2020

公開しない作品

Ravelry は相変はらず利用してゐる。
ただ自分で作成したものを登録することはほぼない。
写真を撮るのがめんどくさいからだ。

ではRavelryをどう使つてゐるのかといふと、手持ちの毛糸と作りたいもので検索をかけて作れさうなものを探すときに使ふ。
すなはち、結構な割合で使つてゐる。
いまもベレー帽を編みたいと思つて検索をかけたところだ。
それにしても編んだベレー帽といふのはどうしてウニにしか見えない作品が多いのだらうか。

それはさておき。

仕上がつた作品については、一応写真を撮る。
記録を残すといふ意味でね。
でもそれ以上のことはしない。
最近もDon't Touch Your Face Cowlを仕上げてもう使つてゐる。
Kingswood Cowlも編みあがつた。
写真は撮つたけど、それだけだ。
なんか、さういふのもいいかなつて。

もうだいぶ前のことだが、手芸作品などをWebで公開してゐる人はときにはまつたく公開しない作品を作るといい、といふ話を見かけた。
理由については書いてゐなかつたが、なんとなく、承認欲求のために作品を作つてゐるとすりへるといふことだらう、と思つた。
正しいかどうかはわからない。
でもたまには秘密の作品を手掛けるといふのもいいことなのかもしれない。
そればかりになつてもどうよ、とも思ふけどね。
公開することにすれば丁寧に仕上げるしね。
でも、公開しなくても公開するときとおなじやうに仕上げななよつてことなんだらうな。

まつたく違ふかもしれないけどね。

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Friday, 16 October 2020

芝居のチケットが買へないとき

「浦島さん」を見た。
福士蒼汰主演の芝居だ。
太宰治の同名作品を舞台化したものだといふ。
出演者はほかに粟根まことと羽野晶紀の、全部で三人だけの芝居である。
同時に「カチカチ山」も上演されてゐた。
こちらは宮野真守主演で、出演者はほかに井上小百合だけのこちらは二人芝居だ。

最初からライヴ配信があることになつてゐて、おそらくチケットも入手しづらいだらうし、そちらを見ることにしてゐた。
だが、「カチカチ山」は見られなかつた。
気がついたら今日の昼が千穐楽だといふ。
仕事をせねばならないし、とても見ることはできない。
アーカイヴ視聴といふ手もあるからまだいいけれど、ライヴ配信を見ることはできない。

どうしてかうなつてしまつたのかといふと、気分が落ち込んでゐるからだ。
どうもここのところ気持ちが沈んでゐる。
気持ちが沈んでゐると、芝居のチケットが取れなくなる。
前売り開始と知つてゐて、買ふことができない。
芝居見物に出かける気力がわかないからだ。
無論、芝居を観にいくのはもつと先のことだ。
そのころには気分も上向いてゐて、出かける気力もわいてゐる可能性は高い。
実際、「なぜあのときチケットを取つておかなかつたのか」と悔やむこともある。
でも仕方がない。
だつてやる気が出ないんだもの。

そんなわけで「浦島さん」にはなんとか間に合つたものの、「カチカチ山」は逃してしまつた。
そして、来月のチケットはなにひとつ買つてゐない。
国立劇場では中村吉右衛門が俊寛を、片岡仁左衛門が毛谷村の六助をやるといふのに、それすら手に入れてゐない。
おそらく来月は芝居はひとつも見ないのに違ひない。
国立劇場はそんなだから碌な当日券があるとも思はれない。
歌舞伎座はいまひとつ乗り気でない演目・配役ばかりだしなあ。「身替座禅」が見たいくらゐか。

それもこれも、出勤しなければならないといふのが原因な気がしてゐるが定かではない。
出勤するだけでHPもMPもけづられてしまふ。
土日にはもうなにも残つてゐない。
それでしたいことがなにもできず、さらに気分が沈んてゆく。

この週末はチケットを取つてゐるから出かける予定だ。
無理して出かけることになるだらう。
だつたら行かなければいいのに、とも思ふ。
どつちがいいんだらうね。
せつかくチケットを取つたのにもつたいないと思ひながら家で漫然と過ごすのと、出かけたくない出かけるのがつらすぎると思ひながらも外出するのと。
どつちもどつちか。

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Thursday, 15 October 2020

それでもまだ決まらぬ来年の手帳

ここ一年ほど Rollbahn の Tagebuch+Notizbuch を手帳として使つてきた。
来年用も半年分買つてきてある。
だといふのに、ほぼ日手帳weeksMEGAを買つてしまつた。
どうするんだ。

とりあへず、年が明けたらまづはほぼ日手帳を使ひはじめやうと思つてゐる。
月間予定表部分を Future Logs にして、週間予定表部分を Daily Logs として使ふ。
週間予定表におさまらない部分はうしろのノートに書き込む。
Trackerをどうしやうかこれはまだ悩んでゐる。うまいこと週間予定表部分に取り込めたらなと思つてゐるがどうなることやら。
My 100といふページには今後やりたいことを書くつもりだ。
これでうまく Bullet Journal として使へるんぢやないかな。

ほぼ日手帳weeksMEGAの問題は、年に一度いまの時期にしか売り出さないといふことだ。
Bullet Journal として使ふと、おそらく一年はもたない。
Rollbahn は三ヶ月くらゐで使ひきつてしまつてゐる。
おそらくほぼ日手帳もさういふことになるだらう。小さい分、もつと早く使ひきつてしまふ可能性もある。
だが、その時つづきを買はうと思つても手に入らない。

Rollbahn の Tagebuch+Notizbuchは年に二回、十月始まりと四月始まりとが発売される。
だいたい十月始まりを二冊買つておいて、新年から使ひはじめる。
そろそろ一冊終はるなあと思ふころに四月始まりが発売される。
それを二冊買つて、一冊使ひ終はるころにまた十月始まりが発売される。
いい感じだ。
一冊ストックを持つてゐればなんとかなる。

ほぼ日手帳もさうならねえ。
オリジナルのほぼ日手帳などは四月はじまりも発売されるが、weeksMEGAは年に一度なのださうだ。
一年間一冊といふつもりなのだらうし、そのためのMEGAでもあるのだらう。
わかつてはゐるものの、去年ほぼ日手帳に踏み切れなかつた理由はそれだ。
まだ使つたことがないし、どれくらゐの期間で一冊使ひ終はるのかわからない。
だから買ひためることもできない。
年の途中でなくなつてしまつたら、なにか別の手帳を使ふ必要がある。

今回はそれでもいいかなと思つた。
Rollbahnを買つてあるし、サイズは全然違ふけれどほぼ日手帳を使ひきつたらRollbahnに戻ることにすればいいかなと思つてゐる。

一度決めたらほかの手帳には目を向けない。
さうできたらいいのだが。
さうしてゐる人がうらやましくてならない。

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Wednesday, 14 October 2020

人間らしさとは その二

文章を読んでゐても全然内容が理解できない。
頭に入つてこないとはかういふ状態かと思ふ。
かうして打つてゐる文章も果たしてちやんと読めるものかどうかいまは定かではない。

とくにわからないのは、自分の知らないことについて述べた文章か自分とは意を異にする文章のやうだ。
過去に読んでわかつたことは大丈夫なやうである。
といふのは、さつき「ヴェトナム戦争のときの死体の数理論つてなんだ?」と思つて以前読んだものを読み返したところ「ああ、マクナマラの云つてたアレか」とわかつたからだ。敵兵の死体の数だけで勝敗が決まるなんてことはないだらうと思ふにも関はらず。
わかつたから、といふよりは思ひ出したから、といふのが正しいかもしれない。
といふことはやはり読めてゐないわけだ。

そんな中、「ロジハラ」といふことばを見かけた。
読んでも理解できないからやはりこのことばのことも理解できない。
正論を云ふことの何が悪いのか。
先日もここに書いたが、真の人間らしさとは道筋だつた考へ方ができることではあるまいか。
いまのところ人間以外の生き物でそれができるものがゐるといふ話は聞いたことがないし。
巷間「人間らしい」と云はれてゐることは哺乳類のある種の動物はする。
あるひはそれに近いことをする。
それを「人間」らしいといつていいのか。

わからないなりに読んでゐると、「ロジハラ」とはかういふやうなことを指すのらしい。
部下が失敗した。
上司はなぜ部下がその失敗を犯したのかをわかつてゐて、部下にその理由を云はせやうとする。
これが上司による部下への「ロジハラ」なのださうだ。

え、ロジックはどこにあるの?
ないでせう?
それともやつぱり読めてないのかな。
読めてないのかもしれない。
ちやんと寝直してもう一度読み直さう。

このブログエントリもな。

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Tuesday, 13 October 2020

うまくできないチェイン

タティングレースの替襟は、七宝模様が三つできたところだ。
全部で二十三模様なので、八分の一、と云ひたいところだが、外周があるのでさうかんたんにはいかない。
十分の一も進んでゐればいい方だらう。

替襟を作るきつかけはルース・ベイダー・ギンズバーグだつたが、なんだかもうそんなことは忘れてしまひさうな気がする。
少なくともできあがるころには、否、二十三模様作つて外周に入るころには「そもそもなんで替襟を作らうと思つたのだらう」と首を傾げてゐるに違ひない。

この替襟は、藤戸禎子の『華麗なるレース タッチングレース』に掲載されてゐる作品だ。
実は一度作らうとしたことがある。
そして見事に挫折した。
なぜ挫折したのか。
理由は、チェインが丸くならなかつたからだ。

写真でいふと、真ん中の七宝模様の下から三段目は左側のチェインがなんだかいびつな形になつてゐる。
本来はきれいな半円になつてゐるはずなのに、なんとも云ひ難い形だ。
これでもだいぶマシになつた方で、はじめてこの替襟に挑戦したときにはひどい形になつてゐた。
それで挫折してしまつたのである。

おそらく、コツはピコのつなぎの部分にある。
ここがちやんとつなげられればチェインの形も半円になる。
なんだかうまくいかないとチェインの形がくづれる。
「なんだか」といふ書き方から知れるとほり、どうすると失敗するのかよくわかつてゐない。
まあでも、それなりにうまくできてゐる部分もあるから、なんとなくわかつてきてはゐるのだらう。
さう、「なんとなく」。

でもまあ、最初に作らうとしたときのことを考へてみれば格段の進歩だし、いづれにせよ替襟は使ふ機会もないだらうから、今後も気をつけつつ進むつもりだ。

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Monday, 12 October 2020

今年の新作とか

土曜日、出かける際に Don't Touch Your Face Cowl をしていつた。
土曜日に出かけるといふので、金曜日に急遽水通しをして、なんとか間に合つた。
中細毛糸といつてもその中でもちよつと細い感じの糸で編んだもので、軽いがあたたかい。
多分、土曜日くらゐの寒さのときにちやうどいい感じだ。

ひとつ仕上がつて身に着けられるやうになると、次のものも編みたくなる。
途中ではふつてあつた Kingswood Cowl にまた着手して、あと少しで編み終はる予定だ。
くつ下毛糸の中細指定だつたが、Puppy の New 4 Ply を使つて編んでゐる。
裾から編んでだんだん減らして首のあたりはぴつたりするやうなデザインで、なんだかかなり細くなつてゐる気がする。
かぶる時に苦労しさうな感じだ。
それでも首回りはあたたかくなるだらうからいいかな。
それも仕上がつてみないとわからないけれど。

Kingswood Cowl を編み終へると編むものがなくなる。
一玉あまる予定だつたのでお揃ひの糸で指なし手袋を編むつもりでゐたが、一玉まるまるはあまらない気がしてゐる。
それでも指なし手袋だつたら編めるかなあ。うーん。
なかなか手袋とマフラーとそろつたものといふのは作らないので(作ればいいのだが)、この機会にと思つてゐたんだがな。

最近、とにかく好きなことでもやる気にならない。
来月は国立劇場に中村吉右衛門の出る演目と片岡仁左衛門の出る演目とあるのだが、全然気持ちがもりあがらない。
最初に聞いたときはうれしかつたんだけどな。
バイオリズム的に、いまはしづんだ気分のときなんだらう。
さうかうするうちにきつとチケットもなくなつてしまふ。
気分が恢復してきたときにはもう遅いのだが、これまた仕方がないのだらう。

今日、新しい石けんを出してきた。
いままで十年ほど使つてゐた石けんではなく、もつと廉価な手に入れやすい石けんだ。
なぜ長くいこと使つてゐた石けんではないのかといふと、買ひはじめたころより価格があがつたからだ。
買ひはじめたころの三倍近い値段になつてゐる。
もう無理だなと思つて、別の石けんを買つてきた。

人は一度贅沢をするともとの生活には戻れないといふ。
さうなのかもしれない。
でも、物理的にもう無理と思へば、戻らざるを得ない。
芝居見物にしてもさうだ。
学校に通つてゐたころはもつぱら三階席で見てゐたけれど、自分で稼げるやうになつて、一階で見ることも増えた。
でもCOVID-19騒ぎの前は三階席に戻つて久しかつた。
最近はちよつとチケットが安いこともあつて、一階や二階で見ることもあるけれど、基本的に三階の席をとることが多い。

毛糸も買はなくなつた。
ちよつと買へないもんね。
自宅にたくさんあるからいいけどさ。
でも「これを編みたい」と思つたときに毛糸がないことは多い。
Don't Touch Your Face Cowl も Kingswood Cowl も、たまたま手元に編むのに適した毛糸があるからあめた。
今後は編みたくても編めないものばかりになるんだらうな。

創意工夫が求められる。
戦時下か。

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