Monday, 23 July 2018

暑いけど

暑い。
なにもしたくない気分である。

否、実際のところはなにかしたいのだ。
なにかしたいのだが、しても続かない。
暑いからである。

腱鞘炎もいまだ癒えず、あみものも進んではゐない。
夏用に買つた糸があるんだけどなあ。
しかしこの暑さではちよつと編む気にならない。
編む気だけでなく、ほかのこともやる気が出ない。
昨日などは、ちよつとなにかしては休み、ちよつとなにかしては休みといつた状態だつた。
本さへ碌々読めない。
録画機が使へなくなつて以来、家で本を読む機会が増へた。
しかし、この暑さでは、なあ。
せめて風でもあればと思ふが、かういふときに限つてない。
今朝、そろそろ起きやうかといふころになつて、涼しい風が吹いてくる。

世の中、なにかとままならない。

せめて編みかけの三角ショールくらゐは仕上げたいんだがなあ。
ハマナカのポームで編んでゐるので、ちやうどいま使へさうだし。
あとちよつとで終はるし。
指にムリのかからない範囲で、最後まで編んでみるかな。

あみものせずになんの人生。

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Friday, 20 July 2018

戦隊ヒーローもののレッド考

数作前の戦隊ヒーローものでレッドを演じてゐた俳優が出てゐる芝居を見る機会があつた。
戦隊ヒーローもののあとその俳優を見かけたことはなく、芝居を見て「かういふのを演じてみたかつたのかなあ」とそのとき思つた。
といふのは、戦隊ヒーローもののときは無理をしてゐるやうに見えて仕方がなかつたからだ。

獣電戦隊キュウリュウジャー、烈車戦隊トッキュウジャー、手裏剣戦隊ニンニンジャーのレッドは、いづれもそんな感じだつた。
つづく動物戦隊ジュウオウジャーのレッドはそれほどでもなく、宇宙戦隊キュウレンジャーのレッドは口癖の「ラッキー!」に助けられて無理をしてゐるやうすがわづかばかり軽減されてゐたやうに思ふ。

各戦隊のレッドがどうして無理をして見えたのかといふと、明るくふるまはうとしてゐるやうに見えて不自然さを覚えたからだ。
「戦隊もののレッドはかういふもの」といふ決まりがあるのだらう、つねに前向きで、世の中の負の部分には目を向けない。
さういふ演技をしてゐる(或は「しなければならない」)さまを見てゐると、見てゐるこちらがつらくなつてきてしまふ。
輝く笑顔さへ顔にはりついてゐるやうに見えてくる。

いま検索しても見つけられなかつたので記憶だけで書くが、先日誠直也が秘密戦隊ゴレンジャー(以下、ゴレンジャー)に出演してゐるときのことを語つたものの抜粋を見かけた。
誠直也はアカレンジャーを演じてゐた。
誠直也は、自分やアオレンジャーを演じてゐた宮内洋はこども向けの演技ができなかつた、といふやうなことを云つてゐた。
「こども向けの演技ではなかつた」だつたかな。
でも、それがよかつたんぢやないかな。
ゴレンジャーの人気の秘訣はさういふところにあつたのではあるまいか。
無理に作つたこども向けの演技よりも、大人のドラマで見せるやうな演技が荒唐無稽な特撮戦隊ヒーローものをリアルに見せてゐたのぢやあるまいか。

人形劇がさうだ。
NHKの人形劇は物語(脚本)こそこども向けに作られてゐることもあるけれど、人形の声の演技や操演は、こども向けではまつたくない。
そのままおとなのドラマも撮れる、さういふ芝居をしてゐる。
それがこどもの心に残るのぢやないかなあ。

現在の戦隊ヒーローものである怪盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー(以下、ルパパト)のルパンレッドとパトレン一号にはいまのところこれまでのレッドに感じてゐたやうな無理はあまり感じてゐない。
ルパンレッドは怪盗といふこともあつてか底抜けの明るさとはあまり縁がないやうであるし、パトレン一号は明るさよりは真面目さ融通のきかなさを前面に押し出してゐるからだらう。
それが自然かといはれると答へに困るが、少なくともこれまでのレッドよりは見てゐて安定感を覚える。
つひつひルパパトを見てしまふ所以はさういふところにもあるんだらう。

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Thursday, 19 July 2018

三国志とダメ人間

最近になつて三国志の好きな人々の集まる場に行くやうになり、いろいろ新たな発見をしてゐる。

たとへば、「魏が好き」「呉が好き」「蜀が好き」とおつしやる向きが多い、とか。
厳密に云ふと、三国志(とくに断らない限り「三国志演義」とそれを参考にしたもの)で魏・呉・蜀にわかれるのはだいぶあとのことであつて、「それつて、「曹操とその野郎ども」が好きつてことですよね?」とか「「劉備とその崇拝者たち」が好きなんですね?」と、脳内で読み替へてゐる。
呉だけは三国にわかれる前から「呉」と表記されることが多いのであまり違和感はない。

なんで「魏が好き」「呉が好き」「蜀が好き」といふ話に感銘を受けたのか、といふと、さう云はれて考へるに、自分にはさういふ「好き」が三国志の中にはないからだ。
とくに誰のところが好きといふのはない。
飯田市川本喜八郎人形美術館の展示を見るときは、曹操とその部下たちのケースが一番好きだなあ、と思ふことが多いが、それは人形とそのときの展示のやうすがいいのであつて、人形劇を見てゐたときに「曹操とその陣営が好きだなあ」と思つてゐたわけではないし、いまでもさうは思はない。

それでは自分はなにが好きなのか。
三国志を知つたときに、なにに心惹かれたのか。
思ひ返してみるに、それは、おそらく「野の遺賢」だ。
もつといふと、「隠者」といふものに憧れを抱いてしまつた。

主を求めず、草庵にあつて、他人とは会ひたいときに会ひ、さうでないときはひとりでぼんやりとしてゐる。
いいなあ、さういふ生活。

本来は「晴耕雨読の毎日」とやらを送るものなのかもしれないが、雨読はともかく晴耕が、ねえ。
といふあたり、どう考へても「ダメ人間」である。
クズ、と云つてもいいかもしれない。

しかしまあそんな生活を送れるわけもなく、ぢやあどうしてゐるのかといふと、さうだな、「中隠」といつたところかな。
勤め人であつて勤め人でなく、隠者であつて隠者でない。
ゆくゆくは隠れるとしても、身過ぎ世過ぎとしていまはちよつとだけ世に出てゐる。

Web検索をしてみたら、「中隠」の受け取りかたにもいろいろあつてちよつと驚いたが、やつがれの中では「どつちつかずでもあり、どちらでもある」みたやうなイメージである。

「中隠」を知つたのは、三国志を知つてからのち、白居易に出会つてからだ。
それまで白居易については「平安時代のお貴族さまが好きな感じの詩を作つた人」といふ印象しかなかつた。
詩を読んで、白居易のことを好きになつたかといふとさうでもないけれど、でもなぜ平安時代の貴族たちが白居易の詩を愛好したのかわかつたと思ふし(使つてる字がかんたんだからだよね、たぶん)、これはいいなといふ詩もあることを知つた。
「長恨歌」を読んでおいたからのちに「あれは「長恨歌」のあの一節を持つてきたものなのだな」とかわかつたこともある。

そんなわけで、日々中隠として暮らしてゐる……わけでもなくて、ときどき思ひ出したやうに「さうだ、自分は中隠だつたのだ」と暮らしを改める日々である。

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Wednesday, 18 July 2018

上期の芝居がしぼれない

役者や俳優より舞台や映画・ドラマそのものの出来を云々してしまふ。

「ニノチカ」が好きで、見るたびにグレタ・ガルボばかり目が追ひかけてしまふのだが、だつたらガルボの出てゐる映画はなんでも好きかといふとさうでもない。
これに限るといふことはないけれど、できれば「ニノチカ」。
さう思つてゐる。

先日、池袋の新文芸坐で「蜘蛛巣城」を見てきた。
山田五十鈴が怖いのであまり見ない映画なのだが、「メタルマクベス」を見る前に見たいと思つてゐたので渡りに船だつた。
見返してやはり山田五十鈴が夢に出るレヴェルで怖く、三船敏郎もすばらしいのだが、でもだつたら別の映画でもいいわけでさ。
「蜘蛛巣城」でなければならないその理由は、「蜘蛛巣城」が作品としてすばらしいと思ふから、すくなくともやつがれは「蜘蛛巣城」が映画として好きだからだ。
ちなみに、山田五十鈴も三船敏郎も取り立てて好きな俳優といふわけではない。

自分の好きなもの・好きな人を無条件にほめたたへることができない。
まづは欠点を探す。
それをあげつらふ。
自分は客観的に自分の好きなもの・好きな人をとらへてゐると、内外に示す。
なぜさうなつてしまつたのかといふと、こどものころみーちやんはーちやんといふものが嫌ひだつたからだ。

自分の周りにゐるのはみなミーハーだつた。
家族も近所の子どもたちも、ひとりとしてミーハーでない人はゐなかつた。
ミーハーは醜い。
昨日はあの人が好きと騒いでゐたくせに、翌日には手のひらを返したやうに別の人を好きだといふ。それまで好きだつた人のことなど忘れてしまつたかのやうなふるまひをする。それだけならまだしも昨日までは神のごとくたたへてゐた人のことを悪く云ふ。
しかも、ミーハーは自分の好きなものの欠点を見やうとしない。
あんなに明らかな汚点を、ミーハーはないものにしてしまふ。
なんてイヤなんだらう、ミーハーであることつて。

その後、ミーハーとは和解した、と以前書いた。
ミーハー的のふるまひをしてみたら、とても楽ちんだつたからだ。
いつたい自分はこれまでなにと戦つてきたのだらう。

さう思つたけれども、身に染みついてしまつたものといふのはなかなかとれないのだらう。
三つ子の魂百までもとはよく云つたものだ。
好きな役者の出る芝居でも「この芝居は好きぢやないんだよなあ」とか「ほかの配役がよくないなあ」とか文句をつけてしまふ。
今年も後半に入つたので、一月から六月までに見た芝居の中でなにがよかつたかと考へてみると、「これ!」といふものがひとつもない。
一月歌舞伎座の「勧進帳」はよかつたけれど、襲名演目として最高だつたとは思ふが、「勧進帳」としてよかつたとは思つてゐない。
「七段目」は芝居として好きぢやない。
「絵本合法衢」は片岡仁左衛門一世一代といふふれこみだつたが、大阪松竹座のときの方がいい出来だつた。配役も松竹座の方がよかつた。

いろいろ考へて、おもしろかつたといふ意味では三月の「於染久松色読販」かなあ、といふところに落ち着く。
普段は人気女方の早変はりが見どころの芝居だが、今回は土手のお六のくだりだけ出した。
芝居全体の中では早変はりのない地味といへば地味な芝居だが、ここだけ取り出して見ると、これが隅から隅までよくできたいい芝居なのだつた。
無駄な仕掛がなにもない。
登場人物の来歴や、死体・早桶に至るまで、実にさりげなくさまざまなものがちりばめられてゐる。
よくできてるなあ。
さすが南北。
まあ、鶴屋南北が書いたそのままが上演されてゐるかどうかは定かではないがね。

映画・ドラマでもさうで、この俳優を見てみたいと思ひつつ、一度見て作品として好きにならなかつたものは二度・三度と見る気にはならない。
まれに「まあたまには見てみやうかい」といふので見て、「やつぱりこれぢやないんだよなあ」と思つてしまつたりする。

無論、作品としてはいまひとつでも、たつた一場面、たつたひとつのセリフのために見るといふこともないわけぢやあないのだが。
最近はなかなかそんな気力・体力もなくてね。

結局は気力・体力・財力か。

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Tuesday, 17 July 2018

なぜタティングを?

タティングをする人といふのは、実際のところどれくらゐゐるのだらう。
自分の周りには、ひとりかふたりといつたところかなあ。それもいつもしてゐるといふ人はゐないやうに思ふ。

フェリシモにタティングレースのキットがあり、タティングレース関連の本も多く(少なくとも以前よりも多く)出版されてゐるのを見ると、タティングをする人はかなりの数にのぼるのではないかといふ気もする。

先日、歌舞伎座ギャラリーで歌舞伎なつかし堂の「本庁廿四孝」を見に行つたとき、タティングレースのピアスをしてゐる人を見かけた。
自分で作つたのかなあ。
それとも貰ひものか知らん。
まさかこんなところでタティングレースを見かけるとはね。

タティングをする人はなにを作るのだらう。
かういふアクセサリなのだらうか。
しかしアクセサリはすぐできるがゆゑにおなじやうなものが手元にたまりがちだ。
さういふのはどうするんだらう。
知り合ひにあげるんだらうか。
それとも売つたりするのかな。

タティングレースをはじめる人はどこでタティングレースに出会つたのだらう。
やつがれは、たまたま手芸店のあみもの用具売場でタティングシャトルを見かけたのがきつかけだつたと思ふ。
ちやうど藤重すみの「かわいいタッチングレース」が発売されたばかりで、シャトルと一緒に買った、といふ話は何度か書いてゐる。

世のタティングレースをはじめる人もこんな感じなのだらうか。
或は「すてきにハンドメイド」で見かけたとか、手芸雑誌などで紹介されてゐたとか、さういふのもあるかな。

世の中にはお教室もあるやうだし、さういふところに通ふのだらうか。
やつがれも通つた方がいいのかなあ。

暑さにやられてそれどころではないのだが。
ちよつと遠出をする機会があるので、そのときにちまちま結んでみやうかなと思つてゐる。

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Monday, 16 July 2018

編まない生活は続く

先週もこの三連休もまつたく編んでゐない。
編まなくても大丈夫なんだな、と思ふ。

あみものは好きだ。
と書いて、ほんたうだらうかと思つてしまふ。
実は自分はあみもののことなどたいして好きではないのかもしれない。
時々編んでゐてさう思ふ。
それではなぜ編むのか。
それは、数少ない自分にできることのひとつだからで、編んでゐるとなにがしかできあがるものがあるからだ。

えうはなにもしないでゐることができないんだらう。
なにかしら生産的なことをしたいのだ。
それなら部屋の片づけや掃除をすればいい。
なのにそれはできない。
といふわけで、なにかしら形に残るあみものに逃げるわけだ。

TVを見るといふのも自分にとつては生産的なことではない。
なので見ながら編みたい。
ところがTVを見なくなつてしまつたものだから編むきつかけがつかめなくなつてしまつた。
だからといつて見たいTV番組があるわけでもないしねえ。

なるほど、編まなくなつたのは、腱鞘炎のせゐもあるけれど、生活習慣が変はつてきてしまつたからといふ原因もあるんだな。
TVを見てゐるあひだに編んでゐたのに、そのTVを見なくなつてしまつたから編まなくなつた。
わかつてみればなんのことはない。

こののちもずつと編まないのだらうか。
腱鞘炎は、よくなつたやうなさうでもないやうなで、とりあへず拳を握ることはできない。
すこしは動かした方がよいといふ話もあるので、ちよつとあみものを再開してみるかなあ。

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Friday, 13 July 2018

増殖する情報カード

情報カード、どうしやうなあ。
さう考へてゐるうちに、情報カードに書くといふ習慣が身についてしまつた。
さあ、どうしやう。

情報カードについてWeb検索をしてゐるうちにPoICに出会つたのが運の尽きだつた。
なんだかすごくシステマチックで、しかも楽しさうだつた。
最近はそれにさらに43Tabs システムなんてのも加はつて、「もう、カードだけあれば無敵ちやん」といふ感じなのだが、残念ながらまだ43Tabs システムは試してみてゐない。
自分の中で使ひ終はつたToDoカードの行き先がはつきりしないからだ。

43Tabs システムはタスク管理やToDo管理をするものなので万人向きだと思ふ。
もちろん、「カードは向かん」といふ人もゐるかもしれないけれど、ToDoやタスクの管理はどんな人にも多かれ少なかれ必要なことなので、「試してみなよ」と勧めやすい。

しかし、昨日も書いたやうにPoICのやうなシステムといふのは、生産をする人向きで、生産をしない人にはどうよ、といふ気はする。

その一方で、手帳は誰でも使ふものだ、と思ひなほしたりもしてゐる。
スケジュール帳やスマートフォンのスケジュールアプリケーションは、誰でも使つてゐる。
最近は社内の予定管理も専用のアプリケーションがあつてそれを使ふやうになつてゐたり、使用を強いられたりしてゐるやうだ。

それならば、ちよつとした備忘録に情報カード……とはなんとなく勧めにくいのはなぜなのだらうか。

ひとつには、カードはバラバラになりやすいから、といふのがあると。
手帳に書いておけば書いておいたページがばらけてどこかに消へてしまふといふこともない。
だが、情報カードの場合はきちんと管理しておかないと、書いたカードがどこかへ消へてしまふ可能性がある。

また、カードは入手しづらいといふこともある。
比較的大きな文房具店に行つても探してゐるカードがない場合がある。
カードにはいろいろとサイズがあり、それぞれのサイズに罫線や無地、方眼罫など種類が複数ある。
なので、店頭にカードがあつたとしても、自分の求めるサイズの求める種類のカードがない場合が往々にしてある。
最近はネット通販で買ふといふのも手だが、さうすると1パックだけ買ふといふのも気が引ける。

反対に、カードははじめやすいともいへる。
入手しづらいのにはじめやすいとは不思議かもししれない。
ただひとたび入手してしまへば、カードは一枚一枚ばらにして使ふことができる。
とりあへず何枚か使つてみて、向かなかつたらそこでやめることも可能だ。
ノートだと最初の数ページを使つてあとは空白といふのはなんだかもつたいない気がするが、カードなら別の用途に使へばいい。
情報カードはちよつとしたレシピなどを書いておくのにとても向いてゐるし、とりあへずメモ用紙として使ふこともできる。
使つてみて向かないと思つても、無駄になりにくいのだ。

さう思つて軽い気持ちではじめた情報カードの利用も、そろそろ九百枚を超えたあたりだらう。
一週間に三十枚書くとして、毎年千五百枚ほどのカードが増えていく。
それをどう管理すればいいのか。
さう思ふと気が遠くなる。
ならばここでやめるか。
やめるとして、九百枚以上もあるカードをどうすればいいのか。

やはり情報カードを扱ふのはむつかしいのかな。

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Thursday, 12 July 2018

知的生産をしないものの技術

久しぶりに「知的生産の技術」を読んだ。

以前は情報を収集するにはどうすればいいかといふことばかり考へてゐた。
今回は違ふ。
今回気になつたのは、家庭にあふれる紙の資料の整理についてだつた。
どうせ「生産」なんてしないんだしね、知的如何に関はらず。

いまは(と著者が書いてゐるのは1960年代のことだと思はれるが)一般家庭にも紙の資料があふれてゐる。
資料の中には書籍・雑誌なども含んでいいだらう。
チラシなどはすぐに捨ててもいいかもしれないが、こどもが学校からもらつてくるプリントはさうもいかない。
さうしたものをきちんと整理しやう、といふのだつた。

整理といふのは整頓とは違ふ。
整頓は見た目に整つてゐる状態にすることをさす。
整理は必要なものを必要なときに取り出せるやうにする状態のことだ。

読み返して、自分に必要なのは情報の収集ではなく、この「紙の資料の整理」だつたのだなあとつくづく思つた。

買物のときにもらふ領収書や電気代・ガス代・上下水道代の記録などもこの中に入るだらう。
どうやつて保管していつ廃棄するか。
さういふ仕組みが必要だ。

雑誌や書籍にしてもさうで、整理できないものは処分するのがほんたうだらう。

小学校に通つてゐる時分にかういふシステムを知つてゐたら、もうすこしなんとかできたプリントもあつたのではあるまいか。
うつかり母に渡すのを忘れてしまつたプリントがいつたい何枚あつたことだらう。

「知的生産」をしない人間でも、かうした紙の資料の整理は必要なのだつた。
それに気づかずにここまできてしまつたとは。
否、気づいて気づかぬふりをしてきたのかもしれない。
だつて整理整頓なんてめんどくさいもの。
やつがれは壊滅的に整理整頓のできない、ものの捨てられない人間なのだつた。

でも今回「知的生産の技術」を読み返したことで、ちよつと紙の資料の整理にのりだしてみるか、と思つたりもしてゐる。
本に書いてあるやうな整理をするには、まづ必要なものとさうでないものとを分別してからでないと無理だらう。
さうしないと量が多すぎる気がする。
分別しつつも、今後どうやつて整理していくのか、考へる必要がある。
整理の仕方によつては残せる量が変はつてくるだらうからだ。

問題は、いまは夏だといふことである。
つまり、ただゐるだけで暑い、動いたらもつと暑いといふことだ。
こんな時期にものの片づけができるだらうか。
それでなくてもできないのに。

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Wednesday, 11 July 2018

江戸の風つれづれ

江戸前つてなんだらう。
なんとなく口にはするけれど、実のところよくはわかつてゐない。
でもたとへば「め組の喧嘩」の藤松は、坂東八十助(当時)のあとはなんだかパリつとしない。
江戸つ子味が足りないのだ。
さういへばどこかで読んだ気がする。
江戸つ子を演じられるのは十世坂東三津五郎が最後だらう、と。
青山の家に純粋培養の江戸つ子の祖母(曽祖母だつたかもしれない)がゐて、それを見て育つてゐるから、といふ話だつたと思ふ。

森茉莉はよく「伊右衛門役者に出会へなかつた不幸」について書いてゐる。
十五世市村羽左衛門の伊右衛門ではダメなのださうな。
それを云ふとやつがれは「勧進帳」の弁慶役者にも出会へなかつたし、与三郎役者にも出会へなかつた。今後も望み薄だと思つてゐる。
「与話情浮名横櫛」の与三郎には、やはり江戸前な雰囲気がほしい。
江戸前ですつきりとした色男といふのが理想だ。
でももうその「江戸前」の役者がゐない。
昔の「演劇界」の花形特集で中村歌六の与三郎を待望する記事を読んだことがある。
江戸前ですつきりした二枚目で爽やかな口跡の与三郎になるだらうといふやうな内容だつたと思ふ。
手元に資料がないので確認できないけれど。
そのときはそのとほりだなあと思つたけれど、その後歌六の与三郎を拝む機会に恵まれずにゐる。
おそらく今後もないだらう。

柳亭市馬の落語には江戸の風が吹くといふ。
ふしぎと江戸の空気がある。
市馬は大分県の出身と聞くから、江戸前な雰囲気を出すにはなにも東京の生まれでなくても構はないといふことだ。

関西の人はわりと「あの役者の上方のセリフはなつてゐない」だとか、TV番組で話される関西弁についても「なつてゐない」といふやうなことを指摘するといふ印象がある。
でも関東の人が「あの役者のセリフは江戸つ子らしくない」と指摘するのはあまり聞いたことがない。
関東の人(或は東京の人)の大半は別の地方から引つ越してきた人だからだらうか。
江戸前なことばを使用する(或は使用してゐた)人の住んでゐた範囲がそんなに広くなかつたからか。
いづれにしても、標準語といふのは江戸なまりや東京なまりとはまた違つたものなんだな、と思ふ。
みんな、江戸前なことばなんて知らないのだ。
知らないのに、かうして「江戸前ぢやないんだよ」とか書いてゐる自分は何様だらう。

今後はもう、「江戸の風」なんぞといふものはなくなつていくんだらう。
演じる方も見る方もわからないのだし。
いま見聞きできるものが最後なんぢやあるまいか。

この後江戸の歌舞伎とか江戸の落語とかになにを求めればいいのだらう。
江戸の世話物は、次第に演じられなくなるんぢやないか。
それとも物語としてはわかりやすいから上演はされるのか。
上演はされるのかな。でももうそこに江戸らしさはなくなつてしまふのだらう。
「髪結新三」の鰹売りも代替はりするたびになにかが欠けている気がしてゐる。
それは気のせゐなのかもしれないし、そもそも鰹売りなんて見たことないんだから勝手な思ひ込みなのかもしれないとは思ふ。
でももうきつと、そんなことはどうでもいいのだ。
「髪結新三」といふ芝居の筋とはまつたく関係がないのだから。

歌舞伎は、さうやつて変はつていくのだらう。
落語はどうだらうか。
落語は、落語としてどうかうというよりも、そのひとつ上のサブセットの話芸としての出来で良し悪しを判断するやうになるのかもしれない。
話芸でしかできないこと、たつた一人で表現するからこそ展開できる世界、さうしたものでいい噺家か否かが決まるやうになるのぢやあるまいか。
そんな重たいものはもう落語ではないし、とくに江戸落語ではないといふことになる気はするな。

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Tuesday, 10 July 2018

突然前向き

昨日は「あみものの終活」なんぞといふ話を書いたが。
タティングレースはできるのだつた。

リングの糸を引くときに指を曲げないやうに気をつければ問題ない。
かぎ針編みよりタティングの方が左手の中指を使ふと思つてゐたが、指の第二関節にテーピングをした状態でもタティングなら指を曲げずにできる。
といふか、できた。

すこしだけ光明がさしてきたやうに思ふ。

さうだよ、毛糸もタティングすればいいんだよ。
さういふ極端な考へすら浮かぶほどだ。

ところで、修理してもらつた時計を受け取つてきた。
心なしかきれいになつた気がする。
無論、もともとついてゐた傷はそのままだ。
もう市場には出回つてゐない型だといふので大切に使ひたい。

その一方で、時計用のチェインはまだできあがつてゐない。
かうなつてくると、「タティングで今から別なのを作らうかな」といふ気になつてくる。

前回の時計用チェインはタティングで作つた。
スプリットリングを鎖のやうにつなげ、ところどころにビーズをあしらつたものだ。
このチェインは時計の重さでリングがのびきつてしまつた。
タティングで作るのはむつかしいかな、と思つたが、ひとつ手がある。
ビニルリングを使ふ手だ。
ビニルリングを芯にして、周囲をタティングのスティッチでぐるりと覆ふ。
これならのびづらいのではあるまいか。

さう考へるとゐてもたつてもゐられない。
いますぐにでもタティングしたい。
問題は、ビニルリングがあつたかなあ、といふところだ。
ビニルリングものびさうな気もするので、プラスチックリングの方がいいかな。
プラスチックリングはまだあつたと思ふが、どうだつたかなあ。

といふわけで、急に前向きなのだつた。

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