Tuesday, 27 September 2016

ゴール目前

タティングレースのネクタイは、今日結び終へられる予定だ。

Jan Stawasz の Tatting Treasures に掲載されてゐるネクタイは、あと六模様を残すばかりとなつた。
あとは整形するのみ、となる予定である。
予定は未定であつて決定ではない、といふ話もあるが、まあ、それでも明日には整形に入れるやうになるだらう。
明日即整形できるわけぢやないけどね。

ゴールが見えてくると俄然やる気の出てくるもので、がんがん進んでゐる。
昼休みのあいた時間といふかぎられた時間だからがんがん進んでるつもりであまり進んでなかつたりもする。
でも短い時間の積み重ねでもできることはある。
できないこともあるが、それはまた別の話。

次になにを作るかはあひかはらず決まつてゐない。
今年使つたシステム手帳のリフィルを製本するつもりでゐるので、その背表紙をタティングレースで飾らうか、とは先週書いた。
しかし、背表紙は一年が終はつてみないとどれくらゐの厚さになるかわからない。
それまではおあづけかな。どんな背表紙にするかくらゐは考へておきたいけれども。

次の案は栞だ。
すぐできて、実用性がある。
実用性がある、といつて、あまり使ふことはないけれどね。
涼しくなればあみものの季節だし、本を見ながら編むのだつたらそこに栞をはさんでおくといとふことはよくする。
写真のページと編み図のページと両方に栞をはさんだりとかね。
この秋冬は袖無しの羽織を編むつもりでゐて、とくに本や編み図を見る予定はない。
予定はないけれど、書店にならぶあみものの本を見てゐると、今回は久しぶりに買ひたいな、と思ふ本が何冊かある。
羽織を編むのに時間がかかるだらうけれど、本を買つて掲載されてゐる作品をなにか編んでみやうか知らん。
さうしたら栞も使ふか知らん。

ほんたうはタティングレースでもなにか大きいものを作りたいんだがねえ。
「The Twirly をつなぐプロジェクト」は頓挫したままになつてゐて、この先もつづけるかどうかあやしくなつてきた。
なにか全然違ふモチーフや糸でショールかスカーフのやうなものを作りたい。
さう思ひもする。
大きいものを作るつもりで買つてあるレース糸もあるしね。
明日からすることがなくなつてしまふ可能性が高いので、ちよつとあせつてゐるが、ここはひとつ落ち着くところかな。
栞など作りつつ、のんびり考へるのも手かもしれない。

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Monday, 26 September 2016

メビウスの輪を編む

パピーのアンパトスーリで編んでゐる cowl はあと少しといふところまできてゐる。

三玉あつて全部使ひきるつもりでゐたけれど、一玉で終はりにすることにした。
のこりの二玉でなにか違ふものを作らうと思つてゐる。
一玉で終はりにする所以は思つたよりネックウォーマが長くできたのと、編み始めにうつかりねぢつてしまつてメビウスの輪状態になつてしまひ、あまり長いと編みづらくなるからだ。
メビウスの輪状にしてしまふと、編みながら編み地を針の先に送るのがちよつとやつかいなんだよね。普通の状態よりもたつくのだ。
最初からメビウスの輪にするつもりなら、長くなると編みづらくなるのも覚悟するんだけどね。
うつかりだからね。
うつかりを修正せずにきたのは、メビウスの輪状態のネックウォーマが好きだからだけどさ。

メビウスの輪にする手法には大きくは二つある。
最初からメビウスの輪状態にして編む方法と、長く編んで最後にねぢつて両端をつなぐ方法だ。
どちらが楽かといふと、おそらく長く編んで最後にねぢる方だらうといふ気がする。
長さをはかりながら編めるし、編みながら編み地を送るときの手間がはぶける。
この方法の問題は、両端をつなぐのが手間だ、といふことだ。
メビウスの輪には裏表がない。
ないことはないが、裏も表も外に出てしまふ。
したがつて、つなぐときも裏表のできない方法を選ぶ必要がある。
単にメリヤス編みならメリヤスはぎで解決するのかな。
かのこ編みとか縄編みを入れた裏目表目がある編み地のやうな場合、目を見ながらはぎ方を変へる必要がある。
つなぎ目くらゐわかつてもいいよ、といふのなら一番やりやすい方法でつなげばいいんだけどね。

最初からメビウスの輪にして編む場合は、最初の編み目と最後の編み目をつなぐときにうまいことねぢる必要がある。
またはメビウスの輪の作り目をして編むか、普通に作り目をして作り目の下からも目を拾ふやうにするか、だ。
うまくねぢれればこれが一番かんたんかもしれない。
メビウスの輪の作り目は作り目から目を拾ふのに結構苦労する。しない方法もあるのかもしれないが、残念ながら知らない。

そんなにまでしてメビウスの輪状のネックウォーマを編む必要があるのか。
ないね。
ないけど編むんだね。
楽しいもの。
できあがつたものも普通の輪に編んだものとはちよつと違ふしね。
「躰に沿ふ」感じがするんだよね。

先週、突然気温が下がつてきたが、今週は上がる予報だ。
暑さ寒さも彼岸まで、といふことばはもう通用しないのらしい。
この秋冬は念願の羽織、それもひとまづは袖無しの羽織を編むつもりでゐる。
まだ着手には早いかなあ。
編めたら俳諧の宗匠みたやうな気分で羽織るつもりでゐる。
それには頭巾状の帽子も必要か知らん。
帽子なら多少は暑くても編めるかな。

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Friday, 23 September 2016

来年の手帳二転三転す

来年の手帳はシステム手帳に一本化するつもりでゐた。
今週、その考へをあらためた。
スケジュール帳はシステム手帳、だらだら長い文を書くのは綴じ手帳といふ、いまの二冊体制で行くことにした。

なぜ一本化をあきらめたのか。
有り体に云ふと、我が家には未使用の綴じ手帳がたくさんあるからだ。
Smythson の Panama で六冊、Moleskine のポケットサイズはちよつと数へるのが怖いくらゐある。といつて、まあ十数冊といつたところだとは思ふ。

Moleskine のポケットサイズ一冊をだいたい三ヶ月くらゐで使ひ終はるので、補充しなくても五年はいける寸法だ。
使ふだらう? かういふ状況ならさ。
好きで買つたんだもの。
なにを云つても、Panama と Moleskine とは使ひやすい。
使つてゐて一番書き込む手帳がこの二冊だ。
綴じ手帳を使はない手はない。
余分なことを書き散らしてほかのしなければならないことをしないといふ弊害はないわけぢやあないけれど。

それに、システム手帳は、長い文を書くのには向かない気もしてゐる。
一番問題なのは中央のリングだ。
右利きの人なら左側、左利きの人なら右側のページが書きづらい。
リングに手があたるからだ。
あたりにくくする工夫といふのはあつて、やつがれもそれを採用してはゐる。
書きづらい方にリフィルをできるだけ入れて、かさ上げするといふ方法だ。
これは確かに利く。
利くけれど、ものすごく書きやすくなるかといふとさうでもない。

リフィルをリングからはづして使ふとか、書きづらい方には書かないやうにするといふ手もある。
でも一々リングからはづすのつて、めんどくさいよね。
絶対つづかない気がする。
すくなくともやつがれは。
書きづらい方には書かない手法は、実は綴じ手帳を使ひはじめたときに採用してゐた。
書かずにあけておいて、見返したときに追記しやいやうにしてゐたのだ。
つまり、書くことが前提で空白にしてゐた。
だからこの手法も使ひづらい。

ぢやあシステム手帳が全然ダメかといふと、そんなことはない。
ちよつとしたメモを書くにはいいし、スケジュール管理にもいいんぢやないかな。
必要なリフィルだけ選んで入れればこれ一冊で済む。

「シン・ゴジラ」を見てゐると、官僚にはシステム手帳派が多いんぢやないかといふ気がする。
巨災対の森課長がさうだし、大臣にメモを渡すときの用紙がシステム手帳のリフィルのやうに見受けられるからだ。

といふことは、システム手帳つてやつぱりいいんぢやない?

それと、最近、自分なりの Bullet Journal の使ひ方ができるやうになつてきたな、と思へるやうになつてきたのも大きい。
Bullet Journal はもともとは綴じ手帳を使ふことを想定してゐる。
でも、システム手帳でもいいと思つてゐる。
以前も書いたやうに、綴じ手帳で Bullet Journal を実践する場合、ノートが中途半端な状況のときに月をまたぐことがある。
ページがあまるときは、個別INDEXなどのまとめページにするなどの使ひ道があるからいい。
でも、あと二三日で来月になるのに、もうノートがない、なんてなときはどうする?
付箋でも使ふか。
それともおなじサイズの紙を貼り足すか。
いづれにしてもめんどくさい。

そこいくと、システム手帳ならリフィルを追加するだけでいい。
ふり返りだけは一週間なり一ヶ月なり自分で決めた期間できつちりすれば、いいんぢやないかな。
いまのところ、予定の管理はスライド手帳、日々の細かいタスク管理と実績管理は Bullet Journal といふ感じで行つてゐる。
これが結構しつくりきてゐる。
そんなわけで、来年もこの方式でいくつもりだ。
いまのところは。

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Thursday, 22 September 2016

題名を訳す

「座頭市と用心棒」の英語題が「Zatoichi
And Yojimbo」ではなく「Zatoichi Meets Yojimbo」であることを知つた。

え、それつて「A boy meets a girl.」みたやうな?
と思うたが、「粗にして野だが腐ではない」ので、そこで思考は途切れた。
精々、握り飯を頬張りながら走つてきた座頭市が、曲がり角(のちよい手前からやや見下ろすアングルで曲がり角を中心に写す感じ)で用心棒とぶつかつて、「なんだこのヤロー」的な展開になるのだらう、といふのが関の山である。
その前に、座頭市なら曲がり角で人とぶつかつたりしないか。
あ、でも、市つつあん、この映画でなんかにぶつかつてなかつたつけか。
ま、いいか。

さういへば、「もののけ姫」は「Princess Mononoke」だつた気がする。
正しい。
間違つてないけど、なんだか笑ひを禁じ得ない。
なぜだらうか。
「Princess」といふことばと、もののけ姫の佇まひとが一致しないからかな。
なんか違ふよね、「Princess」つて。

といふのは、しかし、やつがれの感想であつて、やはり「もののけ姫」は「Princess Mononoke」でいいのぢやあるまいか。

「蜘蛛巣城」は「Throne of Blood」ださうな。
「血の玉座」か。
あるいは「血まみれの玉座」かな。
それだとホラーつぽくなり過ぎるか知らん。
「蜘蛛巣城」つて、やつがれ的にはホラーなんだよなぁ。
なにしろ山田五十鈴が怖すぎる。
夢に出るレヴェル。
そんなわけで見返す機会があれば是非見たいと思ひつつも腰が引けてしまふのだつた。
いま見たらそんなに怖くないかなぁ。

ところで、「An Officer And A Gentleman」が「愛と青春の旅立ち」になつたり、「Vicky Cristina Barcelona」が「それでも恋するバルセロナ」になるやうなことは、ないのだらうか。
つまり、邦画が英米などに進出する場合。

舶来の映画の題が妙ちきりんになる例はいくらでもあるけれど。
最近も、舶来の女の人向け映画が本邦で上映されるときのあれやこれやが取り沙汰されてゐて、中には邦題がヘンなものになつてしまふ、といふのがあつたやうに思ふ。

邦画に関する知識がほとんどないので、わかんないんだよなー、そこんとこ。

能や狂言、文楽に歌舞伎の作品はどうなんだらう。
ちやんと英訳されるのか知らん。
劇場に行つて英語の説明を見ればわかるか。

個人的には「愛と青春の旅立ち」的な邦題にそれほど文句はない。
おもしろいからね。
話のタネになる。

問題は、「それつてほんとに映画の本質にあつてるの?」といふところだらう。
「蜘蛛巣城」は直訳したら「Spider Web Castle」とかになるのかもしれないが、「Throne of Blood」の方がいい。
「座頭市と用心棒」は、座頭市と用心棒とが出会ふことに違ひはない。出会つて、なんか起こるわけぢやあない(よね?)ので、ちよつと強引な気もするけど、でも「And」でもないんだよなぁ。

とか、考へて楽しい邦題がつくやうになるといいなぁ。

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Wednesday, 21 September 2016

ゆらぐ世界の「ウルトラ仲蔵」

九月十八日(日)、国立演芸場の第69回扇辰・喬太郎の会に行つてきた。
この回は、互ひにネタ卸しを一席づつ、それとは別にもう一席づつ披露することになつてゐる。

別にもう一席の方で、柳家喬太郎がかけたのが「ウルトラ仲蔵」だつた。

といふわけで、この先「ウルトラ仲蔵」の核心に触れる部分があるのでネタバレを厭ふ向きにはこれでおさらばでござんす。

「ウルトラ仲蔵」は、古典の「中村仲蔵」をウルトラマンの世界にうつした噺、とでもいはうか。
「中村仲蔵」では梨園の出身ではない中村仲蔵が役者として大成し、いまも(若干)残る歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」五段目の斧定九郎の型を生み出して名声を得るといふ噺だ。
「ウルトラ仲蔵」は、歌舞伎役者ではなくてウルトラマンのひとり・ウルトラ仲蔵がウルトラマンとしての地位を確立するまでの噺である。

「ウルトラ仲蔵」の世界は、基本的にはウルトラマンの世界だ。
数多存在するウルトラマンのなかのひとりであるウルトラ仲蔵は、いつかは地球で怪獣と戦ひたいと願ひつつ、無人の惑星の防衛に励んでゐる。
そこそこ認められてはゐるのだが、いまひとついい星にはありつけない。
そんなある日、アール星でバルタン星人を退治するといふ任務を帯びる。
アール星なんて人も住んぢやゐないし、バルタン星人なんてスペシウム光線でかたづく相手とわかつてゐる。
見せ場がない。
でも、もしかしたら、ここで工夫をすることができたら、自分も認められるんぢやあるまいか。
といふわけで、ウルトラ仲蔵は妙見さまに願掛けに通ふのであつた。

ウルトラマンが妙見さまに願掛けに通ふ。
なんだよ、それ。
ここから本仕掛けがはじまる。

妙見さまの満願の日、なにも工夫の思ひつかないウルトラ仲蔵はそば屋に行く。
外は雨。
そこに、黒い着流しを尻つ端折りにして白献上の帯を締め、朱鞘の大小をさした浪人態のケムール人があらはれる。
まんま「中村仲蔵」なわけだが、ケムール人といふ人選(怪獣選)がいい。
ケムール人が触覚についた雨滴を払ふと、仲蔵のところに水滴が飛んでくる。
仲蔵は顔を上げてケムール人を見る。
やうすがいい。
黒の着流しと書いたが、すでに着古して羊羹色になつてゐて、白い紋も薄茶けてゐる。
これだ。
これだよ、と仲蔵は思ふ。
妙見さまの御利益だ。

といふ、この場面が、とにかくたまらならかつた。
「中村仲蔵」かと思ふと「ウルトラ仲蔵」なんだよ。
妙見さまに願を掛けて、なにも工夫が思ひつかぬままにそば屋に行くのは中村仲蔵だ。
外は雨で、そこに黒い着流しを尻つ端折りにして白献上の帯(噺によつては茶献上を芝居の時には白献上にする)に朱鞘の大小をさした浪人が入つてくるのも「中村仲蔵」。
その浪人が髪についた雨を払ふのもさう。
そんなわけで、「いま自分は「中村仲蔵」の世界にゐるんだな」といふ気になつたかと思ふと、ふつとウルトラマンの世界に引き戻される。
たとへばウルトラ仲蔵はそばを一本一本たぐる。「でも口は開かない」とかね。
ケムール人が酒を頼んで触覚から摂取するとか。
「中村仲蔵」の世界にゐたはずなのに、気がつくとウルトラマンの世界にゐる。

この、足下の一瞬ゆらぐ感覚。
ゆるぎない大地をしつかりと踏みしめてゐたはずが、いきなり不安定になる。
この感覚。
これだよこれ。
「自分が確かだと信じてゐたものが実はさうではないかもしれない」といふ、刹那のあひだ不安に揺れるスリルとサスペンス。

日常に潜む怪奇/異世界/異次元を垣間見る感じといふのは、なんだかウルトラだ。
ウルトラマンシリーズにもあつたけれど、「ウルトラQ」の方がそれつぽいかな。「怪奇大作戦」もかな。

喬太郎の新作落語「孫帰る」には百八十度回転させられるといはうか、頭と足との天地をひつくり返されるやうな感じがある。
「ウルトラ仲蔵」は、それよりももつと subtle な、「あれ? いまの、なに?」といふ感じかな。
かういふのに弱いんだよなぁ。

鈴本演芸場で催された「ウルトラ喬タロウ」には行けなかつたのだが。
その後「あの頃のエース」と「ウルトラ仲蔵」とを聞くことができた。
今年はウルトラマン五十周年で、来年はウルトラセブン五十周年だ。
まだ聞けるかな。
聞けるといいな。

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Tuesday, 20 September 2016

背表紙、いいかも

タティングレースのネクタイは、今月中には作るところまでは終はるのではないかと思つてゐる。
整形をいつするか、といふのが問題かな。

Jan Stawasz の Tatting Treasures に掲載されてゐるネクタイを作つてゐる。
昼休みのあいた時間にだけ作つてゐて、糸接ぎがなければ一日八模様くらゐできる。
残りが三十模様弱で、一度は糸接ぎをするやうだから、今月中にはできあがるんぢやあるまいか。
楽観的過ぎるかな。

できあがつたところで使ふあてもないし、次に作るものも全然考へてゐない。
いや、考へてはゐる。
決まつてゐないだけで。

来年になつたら、今年使つたシステム手帳のリフィルを製本するつもりでゐる。
Nina Libin が背表紙やブックカヴァーを作つてたよなあ、などと不意に思ひだす。
まさか自分がタティングレースで本の背表紙だのブックカヴァーだのを作ることはあるまいと思つてゐたが。
それ、ちよつといいんぢやないかな。
特に、背表紙は作つてみたい。
製本するのはまだ先のことだし、製本してみないと背表紙の厚みがわからないからいまから作り始めるわけにはいかないが、Nina Libin は厚みの違ひに対応できる背表紙も用意してゐたはずだ。

さう考へると、システム手帳を使ふのもちよつと楽しくなつてくるな。

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Monday, 19 September 2016

思つてゐたより糸が長い

Cowl in Progress

パピーのアンパトスーリで編んでゐるネックウォーマはちよこちよこ進んでゐる。
糸が細いのでなかなか大きくならないのだつた。
手元には三玉あつて全部使ひ切るつもりでゐたが、このままだと一玉で十分な大きさになりさうな気がする。
残りの二玉で三角ショールでも編まうかなあなどと思つてゐる。

フード付のマフラーといふのがある。
かつて一度編んだことがある。
編むのはいいが、使つてゐると案外フード部分が重たい。
フードを使はないとき、邪魔になるのだ。
でもこれくらゐ軽い糸なら大丈夫かな。

などと書きつつ、別段フード付のマフラーを編むつもりはない。
普通に長いマフラーを編んで真知子巻きにするのが一番なんぢやないかなあ。
真知子巻きはよくできてるよね。
真知子巻きにすれば帽子は不要だ。チト長いマフラーがあればいい。

Cowl もいい。ネックウォーマといふかね。
頭からかぶつて肩まで覆ふやうなネックウォーマがひとつあれば、頭から首、肩をあたためることができる。
さういふのを編まうとして、まあ、実際何度か編んではみた。
実際に寒くなると使つてゐるものもある。
でもなかなか頭からかぶることはない。
有り体に云ふと、そんなことしてる人がほかにゐないからだね。

それを云ふと真知子巻きもさうだ。
最近あまり見ない。
そんなに寒くないといふことなのかな。
真知子巻き自体は、北海道でのロケで寒くて岸恵子が巻いてゐたのがそのまま映画に使はれたといふ話だ。

いま編んでゐる cowl は頭からかぶれるくらゐ長いものにするつもりだつた。
とりあへず一玉使ひきつてみて、それからどうするか決めるかなあ。
ねぢれてメビウスの輪状になつてしまつたので、あんまり長いのは編みづらいかなあ、とも思つてゐる。
それに、あまりこのネックウォーマにかかりきりになつてゐると、今年こそ編まうと思つてゐた羽織が編めないしね。

すこし涼しくなつてきたやうだし、しばらくはこの cowl を編みつつ、この先のことを考へてみやうかな。

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Friday, 16 September 2016

手帳の組み合はせを考へる

すこしづつ、システム手帳の使ひ方が変はりつつある。

システム手帳のバインダは HIRATAINDER のバイブルサイズを使つてゐる。
これに、月間予定表とスライド手帳、あとメモ用紙として LIFE NOBLE PAD の方眼罫をはさんでゐる。
予備としてメモ帳状態のダ・ヴィンチの方眼罫のリフィルを持ち歩いてゐる。
以前ちらつと書いた「公の手帳」がシステム手帳なら、「私の手帳」としてMD NOTEBOOK のコットン〈文庫〉を使用してゐる。
あとは文庫本サイズの三年手帳を日記として使つてゐる。

この三冊がいまのところ使用してゐる手帳だ。
三年手帳は今年が一年目なので来年も使ふ。
MD NOTEBOOKはこれを使ひ終へたら多分しばらくは使はない予定。「私の手帳」もシステム手帳に併合していきたいと思つてゐる。

現在、システム手帳は予実管理として使用してゐる。
原型は Bullet Journal だ。
月間予定表にその月の予定、スライド手帳で予定管理、メモ用紙に日々のタスクを書いてゐる。
メモのやうなものは、当初はMD NOTEBOOKに書いてゐた。
これが最近ちよつと変はつてきた。

長々と文を書き流すときはMD NOTEBOOKを使つてゐてこれは変はらないのだが、ちよつと思ひついた一文や書き留めておきたいやうなことはシステム手帳に書くやうになつてきた。
たぶん、Bullet Journal の最初の説明と似たやうな形になつてきてゐる。

MD NOTEBOOK を使ひ終へたら、長々とした文を書くのもシステム手帳にするつもりだ。
そのためにリフィルを選ばないとなあ、と思つてゐる。
LIFE のリフィルはいいのだけれど、ちよつと紙が厚いし、愛用してゐるペンとの相性がいまひとつなのだつた。
いま使つてゐる集文館の三年手帳の紙のリフィルがあるといいんだけどなあ。探せばあるか知らん。

月間予定表は、Bullet Journal では縦に日付を並べて書くやうになつてゐる。
これよりもカレンダー形式の方が見やすいのではないかと思つて専用のリフィルを購入した。
紙が厚いのでプロテクター代はりとして重宝してゐるが、なんとなく使ひづらい。
ちやんと日曜始まりを選んだんだけどな。
年間カレンダーもついてゐて便利なのだが、これは縦に日付を並べたものに変更するつもりでゐる。
わざわざ専用リフィルを買ふ必要もないかな、とも思つてゐる。
カレンダー形式のなにがダメなのかといふと、書き込めるスペースが狭いんだな。
そんなのわかつてゐて使つてゐるはずなのだが、横にべたつと書ける方が視認性がいい。
あとは何時に何、といふのがわかりやすいといいのだけれど、そちらはスライド手帳で管理すればいいかな、とも思つてゐる。

スライド手帳は週間予定表で、もともとのBullet Journal にはないものだ。
最初は、スライド手帳とメモ帳だけで使つてゐた。
Bullet Joural では、月に一度タスクの棚卸しをする。
これが結構大変だつた。
週に一度ならもうちよつと楽かな。
さう思つてスライド手帳の方眼罫の部分にやりたいことややることを書くやうにした。
週に一度の方が楽だし、頻繁に見直すことで「やつぱりこれはやらない」といふ見極めもついたりしていい。
でも、やつぱり月間の予定も見渡したいんだよね。

あと、タスクとスケジュールとがもうちよつとうまく機能し合ふといいなあ、と思つてゐる。
いまはあまり機能しあつてないんだよね、残念ながら。

そんな感じで、来年は、といふか、MD NOTEBOOK を使ひきつたらシステム手帳一冊で(三年日記以外は)すべてまかなへるやうになつたらいいな、と思つてゐる。

システム手帳の問題点には、外出先でぱつとメモを取りたいときに取りづらい、芝居の幕間などに感想を書きづらいといふこともある。
ここもうまいことクリアできたらなあと思つてゐる。

年が明けたら「システム手帳STYLE」に書いてあつたやうに一年分を製本するつもりだ。
製本は楽隊時代に譜面係として鍛えてゐる。もうとつくに腕は落ちてゐるだらうが、忘れてはゐないはずだ。
これもちよつと楽しみではある。

そのためにもメモ用紙に向いたリフィルを探し出す必要がある。
なんかいいリフィルはないかのう。

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Thursday, 15 September 2016

「シン・ゴジラ」とか「霧笛」とか

「太陽の黄金の林檎」を読み返してゐる。

ハヤカワNV文庫をもらつたのは、中学生のとき、ある年の誕生日だつたと思ふ。
友人がくれた。
この友人は萩尾望都が大好きだつた。それまで萩尾望都をほとんど読んだことのなかつたやつがれは、この友人から「スター・レッド」や「それこそ「ウは宇宙のウ」とかを教はつたのだつた。

「太陽の黄金の林檎」はこのとき読んで、確か高校生になつてから萩尾望都の「霧笛」を読んだのでまた読み返して、それつきりだと記憶してゐる。

今回読みなほすきつかけのひとつは「シン・ゴジラ」だ。
海からあらはれるゴジラと、「霧笛」の巨大生命体とがなんとなくリンクしたのだつた。
もうひとつの理由は、まあ、わかる人にはわかると思ふ。

読み返して、「霧笛」は、ほんたうにこの内容でいいのだらうか、と思つた。
この内容でいいのだらうか、といふのは、登場人物による巨大生命体の行動理由や心理の解釈をそのまま受け取つていいのか、といふことだ。

以前読んだときは、そのまま受け取つて、そして、なんかもうたまらない気持ちになつたものだつた。
でも、今回読み返してみて、「いや、それ、勝手に想像しただけでせう」といふ気持ちになつたのだつた。
「霧笛」の巨大生命体は、ほんたうに同族を求めてやつてきてゐたのだらうか。
なにか違ふんぢやないか。
ほかに理由があるのぢやないか。
人間の考への及ばないやうな、そんなわけのわからない衝動が、この巨大生命体にはあつたのではあるまいか。
そんな気がしたのである。

そんな気がしたのも「シン・ゴジラ」を見たからかもしれない。
「シン・ゴジラ」のゴジラがなぜああいふ行動を取つたのかつて、全然わからないもんね。
手がかりを見つけて「ああぢやないか」「かうぢやないか」といふことはできても、ぢやあほんたうにさうなのかどうかはわからない。
それは「霧笛」の巨大生命体も同様だ。

さう思ふと、「人間とはなんと感傷的な生き物だらうか」と天を仰ぎたくなつたりもする。
また、「人間とは、なににでも理由をつけたくなる生き物なのだなあ」、とかね。

「霧笛」は、登場人物による巨大生命体の行動理由をそのまま受け取つて読むのが正しいのだらう、とは思ふ。
思ふけど、一度芽生えた疑問はなかなか頭から去らないのだつた。

「太陽の黄金の林檎」自体はまだ読んでゐる途中だ。
頭の中に萩尾望都の絵が浮かぶこともあり、ときに「トワイライト・ゾーン(あるいは「ミステリー・ゾーン」)」の映像が浮かぶこともある。
ロッド・サーリングが不気味に登場して、ひとくさり蘊蓄を傾けて去つたりね。
いづれにしても、白黒めいた濃淡だけの世界だ。

はじめて読んだときからなんとなくノスタルジーを感じる作品が多かつたけれど、いま読むとノスタルジーを感じずにはゐられない。
この調子でほかのブラッドベリ作品を読み返すか、それとも当時読んだ別のSF作家の本を手にしてみるか。

さう考へると、ちよつと楽しい。

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Wednesday, 14 September 2016

「自分、不器用ですから」だと?

「自分、不器用ですから」といふのはかつて高倉健がCMで云つてゐたことばである。

このことばに大変に怒つた友人がゐた、といふ話は以前ここにも書いたやうに思ふ。

「不器用であるつてことはね、かなしいことなんだよ!」

その友人は、まつたくもつて許し難いといつた調子で叫ぶやうにさう云つた。

不器用であることのかなしみは、どうにも気持ちのやり場のないやるせなさに満ちてゐる。
ほんとに、どうしやうもないのだ。
だつて器用になんてなりやうがないんだもの。
それを、言ひ訳のやうに「自分、不器用ですから」とか云ふ人間のゐることが許せないとしても、なんの不思議もない。
まあでも、任侠ものの一形態ではあるよね、「自分、不器用ですから」つていふのは。それは、また別の話。

あれは、高倉健だから許されるのであつて、余人は云つてはいけないことだ。
さう思つてゐる。

ここでいふ「不器用」といふのは、人づきあひがうまくないとか世渡りが下手とかいふ意味なのだらう。
多分、友人もそのことを云つてゐたのだと思ふ。

一方で、「不器用」といふのは手先のことにも用ゐることばだ。
器用な人は、料理や裁縫その他家事一般、なにごとも丁寧かつうつくしくすみやかに為す。当然字もきれいだし、佇まひもすつきりしてゐることだらう。云ふことなし。
不器用な人は、包丁など手にした日には周囲の人間をハラハラさせ、縫ひ針で指をつくから布地に血がたれてしまひ、いはゆる「ミミズののたくつたやうな」醜い字をさらし、身につけるものもなんとなくをかしい。

手先のことは、練習すればある程度はまともにはなる。
その証拠にやつがれはあみものやタティングレースは一応できる。
しかし、「できる」といへるやうになるまでにどれだけ時間を費やしたことか。
考へると気が遠くなる。

器用な人はそんなことはないはずだ。
編み棒を手にすれば、ちよつと試してみただけですいすいと整つた編み地を生み出す。
タティングシャトルも同様だらう。ちよつとやつてみて、即こつを飲み込む。
器用な人といふのはさういふものだ。
おそらく。

器用な人がほんのわづかの時間で飲み込むことを、不器用な人間は長い時間をかけてやつととつかかりにさしかかることができるか否かといふ感じでなかなか飲み込むことができない。
手先が不器用に生まれた人間は、どんなにがんばつても器用にはなれない。
以前よりましになるのが関の山だ。
そして、応用がきかない。
応用がきく人のことを「不器用な人」とは云はない。

自分が器用になることはこの先一生ない。
おそらく、この先もあみものやタティングレースはつづけることと思ふ。
でも、ある程度のレヴェルのものしか作れない。
おなじものを器用な人が作つたら、すばらしい出来映えになるのだらう。
やつがれが作つても、「ああ、作つたのね」くらゐのものしかできない。
それはもう、仕方のないことなのだ。

さう思ふと、「自分、不器用ですから」といふのは如何にも不用意な発言に思はれてならない。
それが言ひ訳になるのなら、やつがれだつてさう云ふよ。
ならないんだよね。
そんなのは言ひ訳にならない。
なぜ自分は不器用にこそは生まれたか。
嘆くしかない。
図画・工作や美術、家庭科などといふ教科の授業を受けてゐたころには、とにかく人の倍以上の時間をかける。かけてもムダだつたりする。
なんのためにこんなことをやつてゐるのか。
授業だから仕方がないんだけど、でも、できる範囲の出来でかまはないぢやあないか。

家事にしても、器用な人だつたらこんな苦労はするまいに、とよく思ふ。
なぜ自分はアイロンひとつまともにかけることができないのだらう。
どうして手際が悪いのか。
考へてやらないから?
それもあるかもしれない。
でも、やつぱり、手が指が思ふやうに動かないから、といふのが一番の理由だ。

My fingers are all thumbs.
そのとほりだよ、といつも思ふ。
多分、大半の神経が手首のあたりで切れてゐるんだらう。

ついでにいふと、ほんたうに不器用な人間は不器用なことを隠したがる。
さういふものだ。
ゆゑに「自分、不器用ですから」なんぞと云へる人間が不器用なわけがない。
そんなことはあらためて書かなくてもみんな知つてゐるとは思ふけどさ。
高倉健が不器用なわけがないもんね。

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