Thursday, 25 May 2017

すでに手遅れ?

マルチタスクは脳に悪影響を及ぼすといふ。

最近あまり聞かなくなつたことばに「ながら族」といふのがある。
ラジオを聞きながら仕事や勉強をする人々のことをさしていつたことばだ。
巷で見かけるスマートフォンを見ながら歩いてゐる人々も「ながら族」だらう。

「ながら族」は脳に悪影響を与へつづけてゐるのだらうか。
先日「三国志 桃園のつどい」といふイヴェントで横山光輝が「三国志」を執筆してゐたころの写真を見る機会があつた。
仕事机の隅にいつもラジオがあつて、聞きながら描いてゐたといふ。
仕事をしながら横山光輝は己が脳にダメージを与へつづけてゐたといふことか。

かくいふやつがれも「ながら族」で、TV番組が見ながらつひあみものやタティングをしてしまふし、映画館や劇場でも編んだり結んだりしながら見られないものかとつねづね思つてゐる。
Stephanie Pearle-McPhee a.k.a. Yarn Harlot は映画館には音がしないやう木製の編み針を持つていく、といつてゐた。
ほんたうはメタル制の針の方が好きだけど、ともいつてゐた。
Knitters Magazine だつたかでも、コンサートで演奏を聴いてゐる最中に編めたら、といふコラムがあつたやうに思ふ。
PTAの会合に編みかけを持つて行つて編む人の話も聞いたことがある。米国の人だつたと記憶する。

自分の欲望を正当化しやうとして、あれこれ例をあげてしまつたが、つまり、なにかを見てゐる「だけ」といふのは実に手持ち無沙汰なものなのだ。

世の中のスマートフォンを見ながら歩いてゐる人々も、「ただ歩くだけだと手持ち無沙汰だ」と思つてゐるのかもしれない。
昨日の朝ニュースで取り上げられてゐた都内のゴーカートの問題で見かけた運転中に自撮りする人々も、「ただ運転するだけだと手持ち無沙汰だ」と思つてゐるのかもしれない。

歩きながらや車などを運転しながらのスマートフォンの使用を、ここで倫理的に云々するつもりはない。
あの人々が脳にダメージを与へながら歩いてゐるとはちよつと思へない、といふ話だ。
さう思ふのは、自分がながら族だからなのかもしれない。
TVドラマを見ながらあみものをしてゐて、自分の脳にダメージを与へてゐる感覚は皆無だからだ。
この「自覚症状がない」といふのがアヤシい気もする。

歩きながらスマートフォンを使ふ人々がさうするのは、自分が被る不都合や周囲に及ぼす不都合に思ひ至らないといふ時点で、すでに脳がダメージを受けてゐるからなのだらうか。

今夜も萬屋錦之介版の「鬼平犯科帳」を見ながらくつ下のつづきを編むだらう。
すでにやつがれの脳もだいぶマルチタスクにやられてしまつてゐるやうだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, 24 May 2017

なぜ書くのか 学校に通うてゐたころ

世の中には、「自分の気になつたことだけメモをすればよい」といふ話もある。
授業中板書を逐一ノートに取るよりも、そのとき教科書で見て気になつた点、教師のことばで引つかかつたことなどを書いた方がいい、といふのだ。
授業でそれをして定期考査でよい結果を残せるのかどうかよくわからないが、でもまあやつがれも板書を逐一ノートに取つたり取らなかつたりで学校の授業をやりすごしてきたので、それはそれでなんとかなるのだらう。

授業中はほかのことを書くのに夢中だつたから、といふこともある。
とくに中学生になつて以降、授業中は「書く時間」だつた。
いろいろつまらないことを専用のノートに書いてゐた。
いはゆる「内職」といふアレである。
当時から書いてゐたわけだ。

板書を逐一ノートに取る段ではない。
と云ひつつ、授業用のノートもそこそこ埋まつてゐたので、それなりに授業のことも書いてはゐたのだらう。

当時はなぜ書いてゐたのか。
時間がもつたいない気がしたからだ。
授業を受けてゐて時間がもつたいない、といふ感覚がいまとなつては自分でもよくわからない。
授業が終はれば部活動がある。
家に帰れば家族とのつきあひもある。
いま考へれば贅沢なことではあるけれど、当時は当時で時間が足りなかつたのだ。

授業中は、つねになにかしてゐなければならないわけではない。
教師だつてのべつまくなし喋つてゐるわけではない。
板書も逐一書き取る必要はない。
手持ち無沙汰な時間が発生する。
したら、書くよねえ。
といふのが当時のやつがれの考へだつた。

あれから幾星霜。
書く内容はだいぶ変はつたが、やはりなにか書いてゐる。
くだらないことしか書いてはゐない。
でもそれでいいんだな、といふことをヘンリー・デイヴィッド・ソローの「ウォルデン」を読んで思つた。
「ウォルデン」は「森の生活」と訳される場合もある。
「ウォルデン」では、ソローは好きなやうに暮らすためにまづは一年間に最低限必要な経費を計算し、その分稼いで、それから森の生活をはじめる。
その後書いてゐる内容つて、別段そんなにたいしたことでもないのだ。
さう思ふのはやつがれだけかと思つてゐたら、おなじやうに考へてゐる人もゐた。
さうだよね。
そんなご大層なことは書いてないよね。
ソローはどちらかといふと、後の市民的不服従とかへの影響が評価されてゐるやうな気もするし。

でも、つまらないことしか書いてゐなくてもいいのだ。
ソローの書いたことは後世に残つてしまつたけれど、やつがれの書いたことはやつがれがこの世を去つたあと消へてなくなるはずだ。
このblogにしても maintain する人がゐなくなるから削除されるだらう。

残らないことがむなしくない、といつたら嘘になる。
でも残らないと思ふからなんでも書けるといふこともある。

学校に通つてゐる時分は、手持ち無沙汰だからといふので書いてゐた。
でもそれがほんたうに自分がなぜ書くのか、その理由なのだらうか。
もうちよつと考へてみん。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Tuesday, 23 May 2017

Mindless Tatting

タティングレースのモチーフつなぎは現在23枚めをつないでゐるところだ。

タティングレースについてはまづはこのモチーフつなぎをなんとかしやうと思つてゐる。
Lisbeth #40 1玉で Mary Konior の Masquerade といふモチーフを何枚作れるか、といふ experiment なので、正確に云ふと糸を使ひ切るところまでやつてみるつもりだ。

ところで、この土日にあみものをしてゐて、手が機械的に動く感覚がとてもこころよかつた。
ひたすらメリヤス編みをするあひだなにも考へなくても動く手の感覚に「久しぶりだなあ」と思ふと同時に、自分の意思と関係なく動いてゐるやうな感じに脳内麻薬の出る思ひがした。
世に Mindless Knitting といふそれだ。

あみものにしてもタティングレースにしても、基本的にはつねに作つてゐるものに注意をしてゐる状態だと思ふ。
手加減はどうだとか糸の張り具合は適切かとか、目が乱れてないかとか次の模様はどこに入れるのか、だとか。
でもそれを超えてとにかく手が動く、といふことがある。
土日のメリヤス編みがまさにそれだつた。
無になつてひたすら編んでゐる感じ。
悪くない。

タティングレースはどうだらうか。
メリヤス編みのみの mindless な境地に達することができるのか。
うーん、やつがれにはできてゐないやうに思ふ。
タティングは何目に一度ピコを作るとか何目に一度別のピコとつなぐとか、結構しよつ中やることがある。
なかなか mindless といふわけにはいかない。

いかないけれど、ここのところのやうにひたすらひとつのモチーフを作りつづけてゐるとときになにも考へてゐないことに気づくことがある。
さういふときはつなぐところなどを間違へてゐることが多いので注意が必要だ。

シャトルを動かす手については、でも結構 mindless かな。
一目一目に糸の引き具合とか気にしないし。
#だからダメなのか。
タティングシャトルを操る手の動きといふのは実に楽しいものだ。

Mindless Knitting といふことばには、ちよつと揶揄するやうな響きがある。
編み図と首つぴきで編むやうな大作を編んでゐるわけぢやないんですよ、といふやうなね。
でもこのなんにも考へない感じ、一種 zone に入つてしまつたやうな感じがいいと思ふんだよねえ。
タティングもスティッチとピコとのパターンを覚えてしまつてなにも見ずに作れるやうになつたあたりからが楽しい。

まあ、やうするに、今後もつづける、といふことだな。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Monday, 22 May 2017

数をこなす

ダルマのくつ下毛糸で編んでゐるくつ下は、二本めに入つたところだ。
日曜の朝、つま先を編んでまだメリヤスはぎのできることを確認し、そのままもう片方に着手した。

今回メリヤスはぎをしたのは、「もしかしたら忘れてるかも」と思つたからだ。
二目ゴム編みどめとメリヤスはぎとは忘れたらあみもの人生終了、といふ気がしてゐる。
この二つをなにも考へずにできるうちは大丈夫。
そんな気がするのだ。

縫ひ針を使ふことが全般的に苦手なので、ゴム編みどめもメリヤスはぎも長いこと苦手であつた。
なんとかできるやうになつたのは、ひたすらくつ下ばかり編んでゐたからだ。
つま先から編めばゴム編みどめ、履き口から編めばメリヤスはぎが大抵出て来る。
それで数をこなしてゐるうちに、手が覚えたわけだ。
うまくできるやうになつたわけではない。
でも、本には「ゆるくとじる」と書いてあるけれどそのとほりにするとゆるくなりすぎるといふことは学んだ。
メリヤスはぎもゴム編みどめもすこしきついくらゐの加減がよいやうだ。
メリヤスはぎについては、くつ下といふ細い糸を指定よりも細い針で編むのでもともと編み目がきついのでさうなるのだらうと思ふ。
ゴム編みどめはゴム編み用のとめ方だからあまりゆるくしすぎなくてもいいのかもしれない。
そもそもやつがれの手がゆるすぎる、といふこともある。

セーターだと完成するまでに時間がかかるし何枚も編むといふこともむつかしいのでなかなかその境地に達することができないのではないかと思ふ。
くつ下なら比較的早くできあがるから、仕上げの作業も回数をこなすことができる。

と書いたところで、以前、くつ下もセーターも編み目の数はそんなに変はらないといふ話を聞いたことを思ひ出す。
極太毛糸で編んだセーターと中細毛糸で編んだくつ下となら、もしかするとさうなのかもしれない。
実証はしてゐないからなんともいへないが、案外くつ下はたくさん編む必要があるのだらう。

いづれにしても、くつ下ばかり編んでゐた時期があつてよかつた、といまは思つてゐる。
くつ下毛糸はまだ何玉かあるのでこの先もくつ下ばかり編むこともあらう。
といふことはこの先もゴム編みどめやメリヤスはぎをいくつもこなすといふことだ。

しばらくあみもの人生は終はりさうにない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Friday, 19 May 2017

手に馴染む手帳

手帳はあひかはらずバイブルサイズのシステム手帳と Moleskine のポケットサイズとを合はせて使つてゐる。
ほかにトラベラーズノートと美篶堂のハードカヴァーノートを置き手帳として使つてゐる。

システム手帳は HIRATAINDER のシャンパンゴールドのバインダを使用してゐる。
去年の一月に使ひはじめて、手に取つたときにしつとりと馴染んでいい感じだ。
使ひはじめた当初はさらりとした印象だつたのだが、いまはなるほど山羊皮とはかういふものか、と思つてゐる。
かうなると手放せなくなるのが人情である。

Moleskine にはナガサワ文具センターのキップレザーのカヴァをかけてゐる。
このカヴァが使ひたくて Moleskine にしてゐるといふ面もある。
こちらはいつでも持ち歩いてゐる。
「今日は外で手帳を使ふことはないよなー」と思つても持つていく。
ほんたうは内容的にはシステム手帳を常に持参する方がいいのだが、とりあへずどんな場面でも書き込みやすいといふことで Moleskine を持つて出る。

さう、システム手帳といふのは、なにかのときにぱつと開いて書き込むことに向いてゐない。
立つた状態でシステム手帳を開いて書き込むのはちよつとむづかしい。
やつがれの手が小さいからといふこともあるが、あまり安定もよくない。
Moleskine だとその点は心配無用だ。

出かけるといつて、芝居や映画がほとんどなので、書くときには劇場の座席に座つた状態で書くことになる。
このときも、システム手帳だとちよつと不安定だ。
かたいかばんを持つて行つて下敷きにできればいいのだが、毎回さういふわけにもいかない。

そんなわけで、新たなノートを買ふ機会もない。
愛用してゐる HIRATAINDER だが、貼り合はせた皮同士がちよつとはがれかけてゐる。
角の部分だけなので実害はないが、気になる。
ボンドとかでもう一度貼りなほした方がいいのか知らん。
ちやんと縫ひ合はせてあるから大丈夫かな。

手に馴染んだ道具は代へがきかない。
大事に使ひたいと思つてゐる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Thursday, 18 May 2017

みのひとつだになきぞかなしき

「道灌」を聞くたびに「ああ、自分は歌道に昏い」と思ふ。
「道灌」は、太田道灌が歌道に精進する逸話を取り入れた噺だ。
問題は、この噺は前座がかけることが多く、このあとにいろいろな噺を聞いて己の不明のことなどすつかり忘れてしまふ、といふことか。

「歌の道に明るい」とはどういふ状態をさすのだらう。
歌や詩は、覚えてナンボだ。
をりにふれ、歌や詩が口をついて出る。
それもその場にふさはしいものが。
かうなつてはじめて「歌の道に明るい」といへるのではあるまいか。
もつといふと、本歌取りの歌が作れる、とかね。

「道灌」の道灌は、狩に出たをり雨に降られる。
一軒の荒ら屋を見つけて簑を借りやうとすると、荒ら屋にゐた女の人が手折つた山吹を差し出して「お恥づかしう」と云ふ。
これは兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」といふ歌をふまへたものだつたのだが、道灌にはわからなかつた。

歌の道云々よりも、謎かけに強いか否かといふ噺なんぢやないかといふ気もしてくる。

対象を勅撰和歌集にとられてゐるものにしぼるとして、いつたい世の中には何首くらゐの歌があるのか。
万の単位でなんとかなるのか。
それにしたつてものすごい数である。
気が遠くなる。

歌の道に精進するのはいい。
でもそれつて、ほんたうにやつがれのやりたいことなのだらうか。
ふと立ち止まつて考へてしまふ。
違ふな。
さういふことがしたいわけぢやあない。

でもこれからも「道灌」を聞くたびに「ああ、自分は歌道に昏い」と思ふのだらう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, 17 May 2017

色なしと人やみるらん

先日「好きなアイドルとかゐたことないの?」と訊かれた。
考へてみて、ゐないやうな気がした。
多分ゐない。
一番アイドルに近いのは萬屋錦之介だらうか。

思ふに、フィクションの世界の主人公に興味のない人間は、あんまりアイドルを好きになつたりしないのではあるまいか。

ここのところずつと時代劇ばかり見てゐるのでそこから考へると、好きになるのは昔から山形勲とか山村聰のやうなインテリをぢさま悪か、ヘンテコリンな人だ。
実を云ふと錦之介ももとはヘンテコリン枠だつた。
はじめて錦之介を知つたのがTVの「子連れ狼」だつたからである。
その後、人形劇の「紅孔雀」だか「笛吹童子」だかを放映してゐるときに、古い東映の「紅孔雀」とか「笛吹童子」を見る機会があつた。

いやー、驚いたね。
あの拝一刀が、小四郎? 菊丸?
ないわー。
絶対ないわー。

といふわけで、最初はいはゆる「ギャップ萌え」のやうな感じだつた。
#多分、世にいふ「ギャップ萌え」とは違ふのだらうけれども。

役者や俳優にしても、主人公をもつぱらに演じる人にはあまり興味を惹かれない。
それを考へると、萬屋錦之介といふのは自分にとつてかなり稀有な存在だ。
「武蔵坊弁慶」の藤原秀衡とか「花の乱」の山名宗全とかが好きだつたりはするのだが、基本的に主役の人だと思つてゐる。
柳生但馬守のやうなヘンテコリンなのがいいのかもしれない、とも思ふ。
実を云ふと一心太助はそれほど好きではないし。あれはやつがれにとつては山形勲の松平伊豆守を楽しむ映画だし。

今後もアイドルを好きになることはないんぢやないかな、とも思つてゐる。
最近アイドルと呼べるやうな存在がゐないからだ。
ゐてもグループ単位なので「アイドル」といふ印象が薄い。
グループならグループ内の役割として好きな人はゐるかなあ、といふ気もしないでもない。
インテリをぢさま悪のやうな役割の人とかヘンテコリンな人とかがゐたら好きになるんぢやないかな。

そんな人がゐたら、それはもうアイドルではないか。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Tuesday, 16 May 2017

断捨離のビーズタティング

去年のいまごろ、ビーズタティングをしてゐたやうだ。

タティングレースをしてゐると、ときに狂ほしくビーズを使つてタティングしたくなるときがある。
あみものもビーズを入れるのはちよつと楽しい。
かぎ針編みだとがま口なんか作つたなあ。
方眼編みの巾着の長編み部分にビーズを入れたこともあつた。
棒針編みでもリストウォーマとかネックウォーマとか作つたことがある。ネックウォーマの方はローワンのキッドシルクヘイズにスワロフスキーのビーズを通すといふなんだか贅沢なものだ。

あみものやタティングレースにビーズを取り入れるのはとてもいい。
毛糸だとビーズを通して移動させてゐるときに糸がすりきれさうな心配があるが、綿などのレース糸ならその心配もあまりない。
そんなわけで我が家には一生かかつても使ひきれないだらう量のビーズがある。

毛糸同様、ビーズも「かういふものを作らう」と思つて買へばいいのだが、「きれいだから」とか「なかなか見ないビーズだから」といふので買つてしまつて収拾がつかなくなつてゐる。
買ふときには考へる。
このビーズでこんなものを作つたらどうか、とか。
でもさういふときのイメージは曖昧なものが多く、結局買つてそのままになつてしまふ。

萩尾望都も書いてゐたよね、「新作のビーズはとにかくほしくなる」とか。

糸もビーズもふんだんにあるのだから、あみものやタティングレースにどんどんビーズを取り入れたらいいのだが。
さうならなのは、なにを作つたものやら思ひうかばないからだ。
デザインする能力に乏しいんだよね。
勢ひすでにある作品を参考にすることになる。
このときに「これが作りたい!」といふ作品になかなか出会へない。
それまでは「これが作つてみたいなー」と漠然と考へてゐるのだが、いざ作る段になると「それほど作りたいわけでもないなー」に変はることもしばしばだ。
また、ビーズタティングの作品には大仰なものが多く、「作りたいのはこれぢやない」と思つたりもする。

ビーズタティングは気力の充実してゐるときでないと始められない。
糸にビーズを通すのに根気がゐるからだ。
デザインにしたがつて順番にビーズを入れる場合はなほさらだ。
「んー、今日は気力が満ちてゐない」といつて、ビーズタティングをあきらめることもある。

糸にビーズさへとほしてしまへば、あとはシャトルに糸を巻いてタティングをはじめるだけなのだが。
なかなかそこにたどりつかない。
かくして糸もビーズも減らないといふ次第だ。

ものを片づけるためにもビーズタティングをはじめるかなあ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Monday, 15 May 2017

編みかけのくつ下 仕上げたくつ下

現在、Par-5-Socks といふくつ下を編んでゐる。

先の秋冬に発売されたダルマ毛糸のくつ下用毛糸で編むにあたり、単色の毛糸にはえるやうな模様のくつ下を編みたいと思つた。
それで縄編み模様のくつ下にしてみた。

編みはじめた当初は、ダルマ毛糸のくつ下用毛糸は縄編みには向かないな、と思つてゐた。
おそらくスーパーウォッシュ加工のせゐだらう、糸がつるつるしてゐて撚りがすぐにほどけてきてしまふ。
別の模様にしやうかとも思つたが、結局そのまま編み続けてゐる。
いまは縄編みにもだいぶ慣れてきた。
そんなわけで、それなりに楽しく編めてゐる。

ところで、ヨガソックスをしあげた。

Yoga Socks

Regia の 50g が一玉だけあつたので編んでみた。
模様はよく Baby Cable といはれるものだと思ふ。二目を交差させて作る模様だ。
甲は二目ゴム編みだけにした。
Webで Baby Cable のくつ下を見かけて、自分もやつてみたいと思つて編んだものだ。
とくに編み図はない。
脚部分を適当な長さに編んで、かかと部分を伏せ目にして、次の段で伏せた分を作り目して編み進む。甲部分が適当な長さになつたらおしまひ。
一応長さを比べながら編んだつもりだが(すなはち段数など数へずに編んだところが)、甲部分は長さがそろはなかつた。
まあ、履けば気にならないだらう。

このすべて適当なくつ下から、脚と足との編み方はあるくつ下へとちよつとステップアップした。
このあとはかかととつま先とも編み方の決まつてゐるものを編みたい。
でもアフガン編みもしたい。
どちらになるかはそのときの気分次第だな。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Friday, 12 May 2017

歌舞伎のトワイライト・ゾーン おまけ

一昨日は、「歌舞伎には「綯ひ交ぜ」といふものがある」といふ話、昨日は「でもいまはあんまし機能してゐるとは思へないんだよね。歌舞伎の外にはあるけれど」といふ話を書いた。

日曜日の朝、TV朝日系列の番組を見てゐるとわかる。
特撮戦隊ヒーローもの、仮面ライダー、プリキュア、いづれも綯ひ交ぜの作品だ。

戦隊ヒーローの世界に動物といふ趣向を取り入れるとジュウオウジャー、鉄道といふ趣向を取り入れるとトッキュウジャー、忍者といふ趣向を取り入れるとニンニンジャー。
そんな感じで毎年新しい戦隊ヒーローが生み出されてゐる。
趣向は何年かすると一回りしておなじものが使用されることもある。番組を見るのはこどもだといふ想定だからだらう。
こどもはいづれおとなになり、戦隊ヒーローものを見なくなる。
それに、世界と趣向とはおなじでもまつたくおなじエピソードをくり返すわけではない。

仮面ライダーはいまは仮面ライダーの世界に医療とヴィデオゲームといふ趣向が取り入れられてゐて、プリキュアにはお菓子といふ趣向が取り入れられてゐる。
#「東映」といふキーワードが透けて見えますか。

戦隊ヒーローものや仮面ライダー、プリキュアが綯ひ交ぜの物語になつてゐる理由は、毎年新しいことをしなければならないからといふのが大きいのではないかと睨んでゐる。
でもおそらく現場では「さういふものだから」でやつてゐるのぢやあるまいか。

戦隊ヒーローものは、基本的には地球の平和を脅かす悪の組織が存在して、それに対抗するために複数人で構成されたヒーローグループが組織され、最終的にはヒーローたちが悪の組織を倒す、といふ筋になつてゐる。
毎年新しい番組を作成するにあたり、この枠組みはくづさずにヒーローの人数やそれぞれの性格、悪の組織の目的などをすこしづつ変へる。
そしてそこに趣向を取り入れる。
「そしてそこに」ぢやないか。
趣向が決まることで悪の組織の目的やそれぞれの登場人物の性格づけが決まつてくるのかもしれない。
こんな風にして、戦隊ヒーローものも仮面ライダーもプリキュアも成立してゐるのではないかと思はれる。

世界と趣向といふしばりがあつて、新たなものが生み出される。
昨今「型があるから個性も生まれる」といふやうな話をよく目にする。
「個性的なものを作りなさい」といはれて、なにも手本にせずに作らうとすると、誰が作つても大差ないものしかできてこない。
型のやうなしばりがあつてはじめて個性も生じる、といふやうな話だ。
ほんたうなのかどうなのか、自分で検証したわけではないけれど、日曜朝にTV朝日系列の番組を見てゐると「かういふことか」とも思ふ。

この番組に共通する点は、戦隊ヒーローものなり仮面ライダーなりプリキュアなりといふよく知られた世界があつて、そこに動物なり偉人なりお姫さまなりといつたこれまたよく知られた趣向が取り入れられてゐることだ。

歌舞伎の綯ひ交ぜもかつてはさうしたものだつた。
源平の争ひなり太平記なりといつたよく知られた世界があつて、そこに曾我兄弟なり赤穂浪士なりといつたこれまたよく知られた趣向が取り入れられる。

いまでも、歌舞伎にはよく知られた趣向が取り入れられることがある。

正月の国立劇場で上演される菊五郎劇団の芝居には、そのときどきに流行してゐることを趣向として取り入れることで知られてゐる。
今年はピコ太郎だつた。

スーパー歌舞伎II「ワンピース」には「伽羅先代萩」の政岡や「碇知盛」のパロディのやうな場面がある。

しかし、それは「綯ひ交ぜ」ではない。
「綯ふ」といふのはもともとは縄を綯ふといふ風に長いもの同士を合はせてひとつにすることを表現することばだ。

ピコ太郎の持ちネタにしても政岡や知盛のパロディにしても、趣向ではあるけれども点のやうなものだ。
芝居全体を綯ふ要素にはならない。

それがいけない、といふわけではない。
いまの歌舞伎には、芝居全体の要素たりうるやうな趣向を取り入れることがほばないといふだけにすぎない。
それで歌舞伎自体がダメになるとか滅ぶとかいふことはない。
ただただ「さういふものなのだな」といふだけのことだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

«歌舞伎のトワイライト・ゾーン 裏