Tuesday, 26 September 2017

太くてもいい

タティングレースの栞は、あとちよつとといふところまで来た。

Mary Konior のデザインした Black Magic を淡い水色の糸で作つてゐる。
あと花びら(だらう、たぶん)を一枚作つたらおしまひだ。
これが終はると昼休みにすることがなくなつてしまふ。
昼休みのあひだはあひかはらず暗いので、もうタティングレースはあきらめやうかなあといつたところだ。

だが待てよ。
なにかとても太い糸で作ればいいのぢやあるまいか。

これまで一度だけ行つたことのあるホビーショーではえらく太い糸で作つたタティングレースのモチーフをつなげて着るものを仕立ててゐたのを見たことがある。
実際にそれを身につけてゐる人もゐた。

なるほど、細い糸で作るばかりがタティングレースではない。

だがなあ。
手持ちの糸で暗くても問題のなささうな太さでタティングレースにも向いたもの、といふのがぱつと思ひ浮かばない。
中細や合細くらゐの毛糸を使つてもいいが、さうした糸はたいていなにを作るかおよそのところは決めてゐる。
うーん。どうしたものかー。

といふわけで、ここはやはりおとなしくあきらめて糸紡ぎでもするかなあと思つてゐる。
さうするとタティングをする時間がなくなつてしまふんだよなあ。
バスで座れたときにタティングをすることにしやうかなあ。

その前に、タティングレースで作りたいものがいまあるだらうか。

考へるとしたらそこからかなあ。

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Monday, 25 September 2017

オレンジとレモン

リーフ模様のショールは一玉編み終はつたところだ。

リーフ模様のショール in Progress

まきもの いろいろ」での指定糸はリッチモアのパーセントだ。
やつがれは Zara で編んでゐる。
Zara が廃番になると聞いたときに目について買つた糸だ。
いい色だと思ふ。
先日、オレンジといふのは男女問はずあまり好きといふ人がゐない色だと聞いた。

かくいふやつがれも以前はオレンジはそんなに好きな色ではなかつた。
あみものを頻繁にするやうになつてからだな、オレンジや黄色が好きになつたのは。

ひとくちに「オレンジ」「黄色」いつてもいろんな色がある。
黄色はたまご色のやうな色が好きだ。
赤ちやん向け毛糸にありさうな色で、甘さはできれば控へめなものがいい。
オレンジはかういふちよつと杢な感じだつたり暗い感じだつたりするのを選ぶことが多い。
とくに日本の毛糸は色がちよつと暗めといふか渋めに出ることがあるやうで、さういふオレンジがいいんだよなあ。

そんなわけで、オレンジ色の毛糸で楽しく編んでゐる。
本では、リーフ模様のショールは短いものと長いものとが掲載されてゐる。
短い方はパーセントを50と数グラムでできると書いてある。
現在 Zara を50と数グラム使つてゐるが、どうもこれでは長さが足りないやうだ。
もともと長めのショールを作らうと思つてゐたのでそれはいいのだけれど。
手持ちのこの色は三玉。
それでちやうどいい長さになるかなあ。
ちよつと不安だ。

「まきもの いろいろ」にはほかにも編みたいまきものがいくつかある。
そのうちのひとつについては指定糸の指定色を買つてしまつた。
いくつ編めるかなあ。
袖なし羽織を忘れぬやうにしつつ、編めるだけ編みたいと思つてゐる。

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Friday, 22 September 2017

だからTwitter

なぜ Twitter なのか。

Twitter をはじめて十年半くらゐたつ。
たぶんまだやめないし、なくなつたら困るなあと思つてゐる。

なぜなのか。
なぜ Facebook や LINE ではないのか。

Twitter は、基本的にひとりごとを呟く場だからだらう。
Facebook は他人とつながることを推奨してゐて、ときに強要されてゐるかのやうに感じることもある。
LINE はひとりごとをつぶやくのにも使へるけれど、もとより他人との連絡に用ゐられることが多い。
他者との interaction が少ない。
それが Twitterと思ふ所以である。

Twitter で呟いたことを記録するサーヴィスにはいろいろある。
さういふサーヴィスで記録を残して、「あのときはあんなことを呟いてゐたんだんなあ」とか「あのときはこんなことを考へてゐたのか」と見返すのもおもしろい。
今日なんの気なしに呟いたことを二年前のほぼおなじ日に呟いてゐる、とかね。
他人にはまつたくおもしろくないことだが、自分がおもしろいからいいのである。
去年のいまごろは先代の松本幸四郎の「鬼平犯科帳」を見てゐたなあ、とか、ゲストはこの人々だつたのかー、とか、さういふのを読み返すのがことのほか楽しい。

そんな風に一時は記録として呟いてゐた時期もあつて、やたらとひとりごとばかり多い日があつた。
最近は「これは呟くには値しないな」と思つたら呟かず、場合によつては手帳に書き留めるやうにしてゐる。
それでずいぶんと呟く回数が減つた。
このままなんでもかんでも手帳に書くことにしやうかとも思ふ。
でも Twitter で呟いたことはオンラインで確認できるからな。
手帳だとさうはいかない。
使ひ終へた手帳をすべて持ち歩くわけにもいかないしね。

Facebook はともかく、LINE はかうした用途には向かない。
Facebook も「加東大介の左馬さんがことのほかよい」とか書くやうな場ではない気がする。

結局、Twitter なんだよなあ。

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Thursday, 21 September 2017

改名するなら

「ロリータ」を読んでゐて、改名することがあつたら「武田晴信」か「成田三樹夫」にしやうとあらためて心に誓つた。

出席簿(おそらく)が詩に見える人なら、このきもちはわかつてもらへるのではないか。
さう思つたからだ。

なぜ「武田晴信」か「成田三樹夫」なのか。
字面が好きだからだ。
「武」や「成」の右のはねと「田」の字とのバランス。
「晴信」といふ偏とつくりとのある縦にそろへやすさうな字面。
「三」と「夫」とのあひだに「樹」の字のはさまつたその形。
完璧だ。
自分のお粗末な字で書いてさへうつとりする。
いいなあ。
自分の名前ではかうはいかない。

やつがれの名前には偏とつくりとのある字がない。
字を縦に中央にそろへるのが難儀な気がする。
偏とつくりとがあつた方が縦に書いたとき中央にそろへやすい。
そんな気がするし、実際に自分で書いてゐてもさうだなと思ふ。

といふ話を、たまにTwitterで呟くこともあるのだが、反応がないので世の中の人はさういふ風に考へたりはしないのだらう。

だいたい、普段生活してゐて「出席簿を見たら詩のやうでさー」とか話してゐる人がゐない。
すくなくともやつがれの周囲にはゐない。
みんなさういふことはかくしてゐるのだらうか。
かくしてゐるのかなあ。
心の中でひつそりと愛でる。
これはさうしたことなのかもしれない。
あるいは、これはあまり考へたくないことだが、そんなこと思つてもみないのだらうか。

「出席簿を見たら詩のやうだつた」に一番近い話として記憶してゐるのは、「グイン・サーガ」のあとがきに出てきた話だ。
たぶん、「グイン・サーガ」のあとがきだつたと思ふ。
あるいは中島梓名義で書かれたエッセイにあつたのかもしれない。

内容は「人は、すてきなことばを唱へ合ふだけでわかりあふことも可能である」といつた趣旨のものだつた。
「水滸伝」にはいはくいひ難くかつこいい名前がいくつも出てくる。
九紋龍史進であるとか。
豹子頭林冲であるとか。
さうした、口に出すだけでうつとりするやうな名前を互ひに伝へあふだけで、人はわかりあへるものだ。
「青面獣楊志!」
「小李広花栄!」
と、互ひに叫べば、「巨人の星」に出てくる登場人物たちががつしと抱き合ふやうに、理解しあへる。
そんなやうなことが書かれてゐた。

わかるなあ。
かつこいいもんなあ。
かつこいいものをかつこいいものと思つてゐる相手とわかりあふには、これで十分なのかもしれない。
読んだときにさう思つた。

「武田晴信」とか「成田三樹夫」といふのは、やつがれにとつてはさうした「かつこいいもの」であつて、それも口に出したときにどうかうといふよりは字面がなんとも素敵でたまらないものだ。

やはり改名するとしたらこのどちらかだな。
改名するとして、の話だが。

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Wednesday, 20 September 2017

書けないわけではない

三月からこの方「書けない」と思つてきた。
どうやら「書けない」わけではなかつたらしい。
その証拠に書いてゐるし。

先日、落語を聞きに行く前に、コーヒー屋でコーヒーを飲みつつ、前日に見た文楽の感想などを書いてゐた。
落語には早めに行つて、来月の席がまだあつたら買ふつもりでゐた。
買へなかつた。
書きはじめたらなんだか楽しくなつてしまつて、書き終へることができなくなつてしまつたのだ。

確かに、文楽は楽しかつた。
見る前から「今回の演目は絶対楽しい」と自分に云ひ聞かせて見たのが功を奏したやうだ。
もちろん、演目自体楽しいものだつたんだけれども、それはまた別の話。

一とほり書いて、それでも止まらなかつたので、いはゆる「徒然草」の序段をやつた。
「心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き尽く」ることにしたのだつた。

楽しかつたねえ。

そこで気づいたわけだ。
三月この方、「書けない」と思つてゐたけれど、書けないわけぢやなかつたのだ。
その証拠に中村歌六の歌舞伎夜話の記録などはしつこいほどに書いてゐるし、「激動の昭和史・沖縄決戦」や「同・軍閥」、「帝都物語」についても同様だ。
最近だと「町奉行日記」とか「逆艫」とか。

見ておもしろかつたことについて書くのだから、楽しいにきまつてゐる。
楽しくなければ書けないしね。
だが、書いてゐて、どことなく「書かされてゐる」といふ気分になつたことも確かなのだつた。
書かなければ。
書かなければ忘れてしまふ。
この感動(といふほど大げさなものではなけねども)をなんとか残しておかなければ。

楽しいと思つて書いてゐるときも、さうした「みづから課す義務感」のやうなものはある。
書かないと忘れてしまふ、だから書く、といふやうな。
でも書いてゐて楽しいので気にならない。
楽しくないときは、「とにかく書いてしまはなければ」といふ気持ちばかりが先に立つ。
さうすると楽しくなくなるからさらに義務感ばかりを感じてしまふ。
負のスパイラルといふアレだ。

それで「書けない」と勘違ひしてたんだなあ。
書けてゐないわけぢやなかつたのだ。
書いてても以前ほど楽しくなかつた。
それだけのことだつたのだ。

そんなわけで、また書くのが楽しくなつてきた。
問題は、書くのには時間がかかるといふことだ。
書く時間をなんとかして捻出しなければならない。
書ければ書けたで問題はあるのだつた。

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Tuesday, 19 September 2017

糸を持ち歩く

タティングレースの栞は、あとすこしでできあがるところまできてゐる。

Mary Konior の Black Magic を作つてゐる。
前半は終はり、後半に入つて五個中四個めの外周を作つてゐるところだ。

ここにきて、糸が足りない。
あとすこしだといふのに。
最初から足りない気はしてゐた。
クロバーのタティングシャトル・ボビンのボビンに糸を巻いて持ち歩いてゐる。
これがすこぶるよい。

クロバーのボビン式タティングシャトルは、従来のシャトルの形状に近く、使用してゐて違和感が少ない。
さすがクロバーだ。

では普段遣ひにしたいか、といふと、ちよつと微妙だ。
たぶん、やつがれがタティングシャトルに求めるのはボビン式といふだけではないのだ。
できればかぎ針も装備してゐてほしい。
だから GR-8 Tatting Shuttles を愛用してゐるんだな。
このことに、クロバーのボビン式タティングシャトルを使つてはじめて気がついた。
それまではボビン式のシャトルが好きだくらゐにしか考へてゐなかつた。

しかし、それでもクロバーのボビン式タティングシャトルはいい。
なにがいいといつて、ボビンとボビンのストッパとが実にすぐれてゐる。
予備の糸をボビンに巻いてストッパをつければ持ち歩きに便利なことこのうへないからだ。
ストッパにはボビンをさせるやうになつてゐる。ボビンに糸を巻くときに至極都合がよい。

そんなわけで、今回も外周用の糸をクロバーのボビンに巻いて持ち歩いてゐたわけだ。
でも、Black Magic を作るにはちよつと足りなかつたんだなあ。
惜しい。
もうひとつ予備に持つてゐればよかつた。

昼間の職場は相変はらず暗い。
明るくなつたら Masquerade をつなぐプロジェクトを再開する予定なんだがなあ。
もしかしたらこのまま明るくならないのだらうか。

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Monday, 18 September 2017

まきもの不要なれど

Ambitus を編み終はつた。

Scarf

三日前くらゐから指定の最終段に入つてゐて、そこで終はりにするかそれとももうちよつと編むかで悩んでしまひ編み終へることができずにゐた。
三目二目のゴム編みであることもあり、伸縮性に富んだ伏せ止めを採用したかつたので、毛糸はだいぶあまつてゐたけれども指定段で編み終へることにした。
それで正解だつた。
伸縮性のある伏せ止めは普通の伏せ止めより糸を使ふからだ。

お昼ちよつと前からちまちまと伏せ止めをはじめ、なかなか終はらなかつた。
慣れない伏せ止めだからだらう。
伏せ止めが終はつたのが夕方だつたので、水通しはまた今度。
エステルヨートランドのキャラメルは手触りのちよつとごわごわとした糸だ。
でも水通しをするとやはらかくなるので、首にぴつたりとあたる cowl でも問題はない。

この毛糸は三年前のスウェーデンはウメオでのヴェヴメッサで購入したものだ。
ちやうど三年前のいまごろウメオにゐたのらしい。
ウメオで買つてきた毛糸はまだ手付かずのものがある。
おなじエステルヨートランドのレース糸だ。
これを編んでしまへばウメオで買つた糸は一通り使つたことになる。
編んであまつた糸もあるので完全に使ひきつたとはいへないけどね。

できればそのレース糸を使ひたいところなのだが、この秋冬はうつかりあみものの新刊を買つてしまつて、なあ。
買つてしまつたのは、風工房の「まきもの いろいろ」である。

五月の前の秋冬に使つた手編みのあれこれを洗濯してかたづけてゐて、「もうまきものは編まないことにしやう」と思つたはずなんだがなあ。
数からいつたらくつ下の方が多いかもしれないが、まきものも数多く編んでゐる。
一時メビウス編みにはまつてひたすらメビウス編みのまきものばかり編んでゐた時期もあるし、1シーズンにつき最低一枚はマフラーやショールを編んでゐると思ふ。
なぜつて、「編みたい」と思つてしまふからだな。

「まきもの いろいろ」にしてもその題名からして買つてはいけない本だ。
編んだはいいけれど全然使はないマフラーやショールが何枚もあるからだ。
でも編みたい。
このジレンマよ。

でも編みたいんだからさ。
編んでもいいんぢやあるまいか。
さう思つて編み始めたのがリーフ模様のショールである。

リーフ模様のショール

本ではリッチモアのパーセントを使ふことになつてゐるが、手持ちのZaraで編み始めた。
リーフ模様が気に入つてしまつたのだつた。
この本を見る限り、今年は大きくて長いまきものが流行りなのかな。
大きくて長いまきものはいつも編んでみたいと思ひつつ、なかなか編めずにゐる。
単純に毛糸をたくさん消費するし、編むのにも時間がかかる。しかも収納スペースが必要になる。
そんなわけであまり編まずに来たけれど、今年はひとつ編んでみるかな。

その前に去年編みはじめて途中になつてゐる袖なし羽織も編まねば、なあ。

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Friday, 15 September 2017

あこがれの総髪撫付

総髪撫付系に弱い。
それも、軍学者系の髪を縛らないのに弱い。
時代劇を見てゐるとつくづくさう思ふ。

先日も「大江戸捜査網」は第三シリーズ第23話「恐怖の爆破作戦!」を見てゐて、天本英世演じる悪役が軍学者(兵法家といつてゐたかもしれない)で、総髪撫付と云ひたいところだが、髪の毛に油分も水分もまつたくないやうな、倉多江美のまんがに出てきてもをかしかないくらゐパサパサとした感じの撫でつけ感のまつたくない髪型で出てきて、それだけでぐつときてしまつた。
この回は理想に燃える若者として誠直也も出てゐて、特撮好きにはちよつとたまらない回だつたりはするが、それはまた別の話。

総髪で、しかも倉多江美ばりのパサパサ感が実に天本英世的でそこもよかつたんだよなあ。

時代劇で総髪撫付といふと、脳裡に浮かぶのは佐藤慶だつたり成田三樹夫だつたりするので、原点はそのあたりなのかもしれない。
似合ふよね、佐藤慶も成田三樹夫も。

「なのかもしれない」と書くくらゐなので、原点の記憶はない。
なぜ総髪撫付を好きになつたのかも不明だ。
基本的にみんな髷を結つてゐる中に、たいていはひとりだけオールバックで長く髪を垂らしてゐるところがよかつたのか。
はたまた、かういふ出で立ちで出てくる人物はほぼ間違ひなく悪役で、さういふところがよかつたのか。
両方かな。
まれに儒家とか山伏だつたりすることもあるけれど、これまたたいていは軍学者とか兵法家のことが多いのでインテリだつたりするしね。

悪のインテリをぢさま
ああ、流れ着く先はそこか。

木原敏江が、「江戸時代は髪の毛が風になびかなくてつまらない」といふやうなことを云つてゐたことがある。
インタヴューに答へた、みたやうな記事だつたやうに記憶する。
それを読んで、「それはそのとほりだなあ」と思つた。
さう云ひながら歌舞伎見るんでせう、といはれるとぐうの音も出ない。
でも、歌舞伎には歌舞伎のよさがある。
お姫さまのかんざしがゆらゆら揺れたりね。
助六さんなら鉢巻がなびいたり。
もつと云ふと、シケ(ほつれ毛)の揺れるさまなんていふのは、はたいふべきにもあらず、といふ感じで実にいい。

まんがでさういふのを表現するのはむつかしいんだらうなあ。

さういへば、時代劇を見てゐて軍学者だの兵法家だのの髪の毛が風になびくやうすといふのはあまり見たことがない。
みづから手を下すことがあまりないからか。
それともあの髪の毛はびつちり撫でつけてあつて、風になびかないやうになつてゐるのか。
単にやつがれが粗忽で見逃してゐるだけなのか。
今後も総髪撫付には注目していきたい。

ところで、ああいふ髪型に対するあこがれといふのもあつたりする。
なんだらう、時代劇でほぼ唯一、まねできさうな髪型だからかな。

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Thursday, 14 September 2017

新機種に求めるもの

iPhone の新作に興味を覚えなくなつて久しい。
これ以上大きくなられても片手での操作がむつかしくなるし、画面の解像度などは今の状態で十分だと思つてゐる。
大きさでいへば、iPhone4くらゐがちやうどよかつた。5だとやつがれの手には少し大きい。
iPhone5くらゐからだな、電車の中でiPhoneを使はなくなつたのは。
大きすぎて、片手だけで操作することに不安を覚えるやうになつたからだ。
以降、現在に至るまで、電車の中ではほとんどiPhoneを取り出すことはない。
ごくまれに座れることがあると取り出したりはするけれど、三日に一度あればいい方だ。

それでも新しい iPhone に望むことはある。
ひとつは電池のもちが長くなること、だ。
いまの使ひ方だと、二日は充電をしなくてもギリギリもつ。
しかし、もつのは電池のもちを考へて使つてゐるからだ。
それに、二日に一度でもちよつと頻繁に過ぎる。
充電を意識せずに使へるやうにならないものだらうか。

つまり、iPhone はやつがれにとつて「あつてあたりまへ」の存在になつてゐるといふことだ。
あつてあたりまへなので、電池が切れて使へない状態など考へられないし考へたくない。

MacBook もさうかな。
手元にあつて使へればいい。
スペックとか、あまり気にならない。
昔はハードディスクの容量がどうでメモリはこれくらゐ積んで、とか考へた。
それと懐具合とのかねあひでさんざん悩んだものだ。
それがいまはない。
まつたくないわけではないが、一番求めやすい機種でも自分の用途で不都合はない。

かうなつてくると、いつまで MacBook は、また iPhone は存在してくれるのだらうか、と思つてしまふ。
また、自分はいつまでかうした gadget を必要としつづけるのか。

いま使つてゐる iPhone が壊れて使へなくなつたら、新たな iPhone を買ふだらう。
でもそれは必ずしもやつがれの求めてゐる iPhone ではない。
いまの機能やスペックをそなへた状態で、電池のもちがよく、できればもうちよつと小さい(iPhone 4くらゐの)機種があればなあ、と思ふ。
電車の中で立つてゐても気軽に取り出せて使へる、そんな大きさの新機種が出たら買ふのになあ。

しかし、そんな iPhone は登場しない。
だれもそんな機種を「新しい」とは認めてくれないからだ。
「新しい」つてどういふことなのだらう。
先日発表されたアレが新しいといふことなんだらうか。
なんだらうな。

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Wednesday, 13 September 2017

よかつたねぇの時代劇

TVドラマの時代劇では、どうしてこんなにたくさん人が殺されてしまふのか。

毎日喜々として「必殺仕置人」を見てゐる人間がなにを云ふ。
我ながらさう思ふが、一昨日見てゐてつくづく思つてしまつたのだ。
なぜ時代劇ではこんなにかんたんに人が殺されるのだらうか。

「必殺仕置人」を見ながらさう思つたのだが、さう思つたときにやつがれの脳内に浮かんでゐたのは別の番組だつた。
前日に見た「大江戸捜査網」とか、もつと前に見た「暴れん坊将軍」や「三匹が斬る!」などだ。

「大江戸捜査網」では、杉良太郎演じる十文字小弥太に変はつて、里見浩太朗演じる伝法寺隼人が登場する回を見た。
隼人と同時に、左右田一平演じる同心が隠密同心に新たに加はることになつた。
左右田一平演じる同心は、物語の前半で殺されてしまふ。

殺すなら出すなよなー。
さう思つてしまつた。

かういふのは見てゐるこちらの心理状態によつて変はつてくる。
おなじドラマを見てもどうとも思はないこともある。
今回はたまたまさう思つてしまふ時期だつたのだらう。

「暴れん坊将軍」で思ひ出したのは、悪人に目を付けられた男が殺される話だ。
それは、いい。
よくはないかもしれないが、話の展開としてはありだ。
だが、その男の妻が殺される段になつて、「それは不要なんぢやない?」と思つてしまつた。
話自体は上様の立ち回りと「成敗!」のひとことで片が付く。
だが殺された夫婦には娘がゐた。
この娘はどうなるのだらうか。
ドラマは、め組の人々や隣近所の人がそれとなく娘を助けてくれさうだ、といふやうすで終はる。
だが、次の回以降、この娘は出てはこない。
そらさうだ。
この回一度きりのゲストだもの。
でも思ふのだ。
あの娘さんはどうなつてしまつたのだらう。
結局暮らしに困つて苦界に身を沈めるやうなことになつてはゐないだらうか。
せめておつ母さんだけでも生きてゐたら……
さう思はずにはゐられない。
母親が生きてゐたからといつて生活が楽になるとは限らないけれど。
だけどひどいでせう。
話の展開としては、男が殺されるだけで十分だつた。
なぜその妻まで殺してしまつたのか。
いまになつてもわからない。

かう書いてゐて、男と女とが逆だつたやうな気もするし、娘ではなくて幼い子供だつたやうな気もする。
が、大勢には影響がないのでこのままにしておく。

「三匹が斬る!」もその伝だつたやうに思ふ。
悪人に目を付けられた村人が殺されて、さらに第二第三の殺人が起こる。
そんなやうな内容だつたと思ふ。

いづれにしても、そんなにたくさん殺さなくても物語に影響はないのに、と思はせてしまふやうな話だつた。

そして、たまたま「そんなにたくさん殺さなくてもいいのに」と思つてしまふやうな精神状態のときに見たドラマだつたわけだ。

なんといふか、時代劇といふのは、もつと、こー、見てゐてほのぼのするもの、といふ勝手な思ひ込みがあるんだらうな。
必殺シリーズほか、例外はあるけれども。

水戸黄門などは見たあと「よかつたねえ」で終はるものだと思つてゐるし。
途中で殺される人がゐても、最後は印籠の力で(違)すべて解決し、芥川隆行のナレーションで終はる。

考へてみたら、水戸黄門が去つたあとも「よかつたねえ」がつづくとは限らないんだよね。
その場はおさまつたかもしれないけれど、御老公が去つたあとはなにごともなかつたかのやうに以前の状態に戻る。
そんなこともあるだらう。
さういふことの方が多いのかもしれない。

でも普通はさういふことは考へない。
めでたしめでたしで終はつたら、「よかつたねえ」と思ふ。

めでたしめでたしで「よかつたねえ」だと、途中の話を忘れてしまひがちなのかもしれないな。
物語の中で罪もない人々がむやみやたらと殺されてしまつたことなど記憶の彼方に消へてしまうのかもしれない。
それで「TVの時代劇イコールなんとなくほのぼのするもの」と思ひ込んでゐるのだらう。

人はやたらと殺されるけど見終はつたあとなんとなくよかつたなと思ふ「座頭市物語」(TV版)のやうな番組もあるしね。
「座頭市物語」(TV版)は、基本的に「善人は死なない」「悪人でも女の人は死なない」「悪人は市に斬り殺される」といふお約束がある。例外もあるけれど、わりとかういふ話が多く、途中殺伐とした気分になつても最後は「よかつたねえ」で終はる。
でも好きなのは浅丘ルリ子回(善人も死ぬ)だつたりするので、つまるところ、やつがれは人の死にすぎる時代劇が好きなのだらう。
毎日「必殺仕置人」を喜々として見てゐるくらゐだもの。

それでも「人が殺されすぎる」と思つてしまふところがある、といふのが人の心といふのはふしぎなものであることよ。

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