情念と執着
今日、東京藝術大学大学院馬車道校舎で「川本喜八郎]] 生誕 101 周年 知られざる長編作品との邂逅」といふ公開講座を聞いてきた。二部制で、第一部では映画『蓮如とその母』が上映された。
この校舎には以前も来たことがある。ちよつと調べたら11年も前のことだつた。その時もやはり川本喜八郎を取り上げてゐて、このブログにも書いたが、いま読み返して我ながら何を云つてゐるのかよくわからない。
11年前は、川本喜八郎とその作品のグローバル性についての講座で、実に日本的な川本喜八郎作品がなぜ世界的に受け入れられてゐるのか、といふやうな話だつたやうに記憶する。結論としては、日本的だからこそグローバルなのだ、といふ話だつたやうに思ふ。個人的には、川本喜八郎自身の目も世界を向いてゐたのではないかとこの講座を聞いて思つた。
今回は、情念を描いてきた川本喜八郎は『蓮如とその母』では従来の情念ではない、もつと母と子の情であるとか夫婦の情であるとかいふものを描いてゐる、といふやうな話があり、作り手としての転換点だつた、といふ話があつた。
情念か。
それはあんまり考へたことはなかつたな。
川本喜八郎作品は、といふか、いはゆる不条理三部作と『死者の書』については、執着の物語のやうに感じてゐる。
それはもしかするとNHKのドキュメンタリーで川本喜八郎が執着と解脱について語つてゐたのを見たからさう思ふのかもしれないが、でも「鬼」の母親のあれは執着な気がするし、「道成寺」の女の思ひは恋といふよりはやはり執着、もしかすると最初は恋だつたのかもしれないけれど、若い僧に裏切られた瞬間執着に変はる、そんな気がしてゐる。
一方『蓮如とその母』は、執着といふよりは、母と子の恋慕、夫婦の恋慕、師を慕ふ弟子(といふのかなあ)を描いてゐるやうな気がする。
恋慕といふよりは慕ふ心、かなあ。
「情念」も「執着」もとらはれる心のことといふ意味では同じなのだけれども、解脱と相性がいいのは執念だと思ふし。
といふわけで、いままで考へたことのなかつた面から川本喜八郎作品を考へることができて実に有意義だつたし、なんだかワクワクする時間を過ごすことができた。
かういふワクワクに日々飢ゑてゐる。

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