Monday, 18 June 2018

小さ過ぎる

腱鞘炎はあひかはらずだが、ばね指にはならなくなつたやうに思ふ。
夜寝るときだけテーピングをしてゐて、これがいいのかな、とも思ふ。
朝目が覚めたときにうつかり握つてしまつてばね指になつてしまつてゐたからだ。
なるべく使はないやうに、と思つてゐたのだが、日曜日にはこんなものを編んでゐた。

Experiments

リカちゃんのオールシーズンクローゼット」を参考にしながら、フード付きの上着を作らうと思つた。
それで土曜日に久しぶりに手芸屋に行つて、エミーグランデを買つてきたのだつた。

この本に掲載されてゐる上着はスフレや25番刺繍糸、モヘアなどを使つたものばかりで、エミーグランデで編んだものがない。
そこで長さだけ参考にしつつ、目数段数は探りながら編んでみた。
その結果がこれである。

Experiments

をかしいなあ。
はかりながら編んでゐたはずなのになあ。
どうも、くさり編みのあと細編みや長編みをしばらくすると短くなるんだな。
それをうつかり忘れてゐて、こんなことになつてしまつたのらしい。
ゲージはとりませう、といふことか。

Experiments

でもまあ仕組みはわかつたので、気を取りなほして新たに編み始めた。
失敗した方は、参考になるのでしばらくはこのままとつておくつもりである。

それにしても、リカちゃんはなにを着せてもらりぃであることよのう。

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Friday, 15 June 2018

それは鬱ですか

実のところあなたは鬱に悩まされてゐるわけではないのかもしれません。

そんな記事を読んだ。

記事の中では、鬱ではなくてacediaに悩まされてゐるのではないか、といふことだつた。
acedia は怠惰だとか無精、無感動や無関心、無気力と訳されるやうだ。
やる気を失ふと次第に生きることへの意欲も失はれていく、さらにやる気を失ひ、あとは負の連鎖だ。

日曜日、目が覚めてなにもする気がしない。
土曜日は出かけてゐたし、今日掃除や洗濯をしないともうする日がない。
わかつてゐるが起きあがれない。
なんとか起きあがつても、椅子に腰掛けてゐるだけでつらい。
本も読めなければあみものすらする気にならない。
なぜ自分はすべてのことに対してやる気がないのだらうか。
人間として、どうよ。
生きてゐる価値なんてあるのだらうか。
ダメダメぢやん。

結局、この日の不調は睡眠負債が山積みになつてゐる上に低気圧がきてゐたからだ、とあとから自分でもわかつたのだが。
わかつたからといつてなにも楽にはならないのだつた。
acediaといふのは、かくも強烈なものなのか。

acediaをなんとかするには、くり返し行ふことをはじめてみること、らしい。
やつがれの場合で云へば、部屋の片付けだらう。
日々くり返しやる必要のあることをくり返し行ふ。
それだけで違ふといふ。
記事では社会貢献や日記などをつけること、ヨガや運動などもあげられてゐる。

それにしても、だ。
平日は毎日出勤してゐるし、出勤後にすると決めてゐることはやつてゐる。
日記といふか Bullet Journal は日々つけてゐるし、毎日或は決まつた間隔で行ふことはそれなりにやつてゐるつもりなんだけどなあ。
それでもacediaに悩まされるのだらうか。
それともこれはacediaではないのだらうか。

常態が鬱寄りなので、鬱には悩まされるといふ感じはあんましないんだけどな。
やはりこれはacediaなのであらうか。

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Thursday, 14 June 2018

いまさらorenz nero

ORENZ NEROはずつと気になつてゐるシャープペンシルだつた。
シャープペンシルは使はなくなつて久しい。
いつのころからか、えんぴつを好んで使ふやうになつた。
それでなければ万年筆だ。
気になる理由は、その売れ行きだつた。
どこに行つてもない。
いつでも品切れだ。
そこで、どんなものだらうといふので、ORENZを買つてみた。

最近のシャープペンシルの芯の書き心地といつたら。
考へてみたら、高校生のころからシャープペンシルの芯はぺんてるのものを使ふことが多かつた。
たまにUni。そんな感じ。
しばらく使はないうちに、シャープペンシルといふのはこんなに書きやすいものになつてゐたのだなあ。
しみじみさう思つた。
なんていふのかな、それこそ「三日会はざれば刮目して相待すべし」といつたところだらうか。
シャープペンシルとの邂逅は、三日ぶりなんてなものではない。
まさに刮目して相待するしかない。
そんな感じだつた。

普通のORENZで満足したので、ORENZ NEROはもういいかな。
正直云つて、さう思つた。
相変はらず店頭では見かけないし、Webで検索をかけても売り切ればかりだし、これはもう手には入らないのだ。
さう思つてゐた。

出会つちやつたんだな、これが。

たまたま東京駅付近に用事があつたので、ぶらりと丸善丸の内店に立ち寄つたのが運の尽きであつた。
あるぢやないか。
ORENZ NERO。
あるにはあるけれど、0.2はもう残り一本だつた。
気がついたら会計の列に並んでゐた。

ORENZはすでに使つたことがあつたので、使用するのに戸惑ふことはなかつた。
ただ、最初に芯が見えるところまでノックするといふことは忘れてゐた。
そこはちやんと取扱説明書を見てゐたので問題なかつた。

ORENZとORENZ NEROとの違ひは、重さだらうか。
ORENZ NEROは書かうとしたときにずつしりとした重さがある。
重心は握るあたり、或はもつと先の方だらうか。
万年筆では尻軸の方に重心がある方が好きだが、書いてみるとシャープペンシルならこれも悪くない。
万年筆だと太めの軸が好きだが、えんぴつならこれくらゐだよね、といふ太さでもある。

芯は、これはもう、好き好きの問題で、ぺんてるの芯は好きだなあと思ふ。
なめらかな書き心地で、個人的にはRhodiaとの相性が抜群だと思つてゐる。すひつくような感触があつて、ずつと書いてゐたい気になるのだ。

なるほどねえ。
売れるわけだよね、ORENZ NERO。

マットブラックなところもいいし、お気に入りの一本がまたここに、といつたところだ。

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Wednesday, 13 June 2018

健康によいこと

世の中で「これは心身の健康にいいよ」と云はれてゐることで試してみたことのないことがいくつかある。

ひとつは瞑想だ。
瞑想は、米国の西海岸あたりからやつてきたのではあるまいかといふ偏見がある。
キリスト教に足りないものを他の宗教からもつてきて、それをちよつとアレンジしてみました。
最近流行つてゐる瞑想にはさういふイメージがある。

瞑想と近いと思つてゐるものに座禅がある。
やつがれの理解では、姿勢を正して座り心の中(頭の中でもいいが)を無にするもの、だ。
無の境地に至ることが重要で、それ以外に目的らしいものはない。

しかるに瞑想といふものは、瞑想をすることによつてなにか得をしやうといふ心根が見え隠れする。
それがどうにも賤しいものに感じられてならない。

なにを気取つてゐるのだ。
だれだつてなにかをすることで別のなにかを得やうとしてゐるぢやあないか。
おまへだつて例外ぢやあない。
さういふ声も聞こえてくるが、瞑想をあさましい気持ちで行ふのがどうにもしつくり来ない。

やつてみてやめたこともある。
早寝早起きがそれだ。
一時は朝五時とか五時半とかに起きるやうにして、出勤までのあひだにそれまで夜してゐたことをしやうとしてゐた。
うまくいくかと思はれたが、いかなかつた。
歌舞伎座の夜の部やソワレに行つて帰つてくる前に就寝時間がやつてくるからだ。
早寝早起きをはじめる前に睡眠不足を解消できてゐればそれでも問題なかつたのかもしれない。
睡眠不足のまま早寝早起きをはじめたのがよくなかつた。

柔軟体操はしたりしなかつたりだ。
一度のばし過ぎて腿の裏を痛めてしまひ、柔軟体操どころか普段の立ち居にも困るやうになつてしまつて、それ以来なかなかつづかない。
ただ、酒飲みのともだちや一緒に京都散策などをするともだちと、「お互ひいつまでも元気でゐやうね」などと語りあつてゐる手前、柔軟体操はやめられない。
ある程度年を取つたら筋力よりも柔軟性だといふ話も聞くしね。

かうしてみると、まづ一番になんとかしなければならないのは睡眠不足の解消、最近の流行りことばでいふと睡眠負債の返済だらう。
これがなかなかうまくいかない。

これもここに以前書いたやうに、日々の生活の記録をとるやうにしてゐる。
朝何時に起きて何時に家を出て、何時に出勤して何時に退勤し、何時に帰宅して何時に夕食をとり、その後なにをしたかを時刻を記録しながら就寝をむかへる。
最近はスマートフォンのアプリケーションにさういふ記録を取ることのできるものがあるので、比較的簡単にできるやうになつてゐる。

この記録を見返してみると、もう切り詰めるところがどこにもない。
とくに先月から職場が移転して、さらに通勤時間がかかるやうになつてしまつた。
仕方がないので最近は湯舟につかるのは週に何回かにして、あとはシャワーで済ませてゐる。下手すると一週間ずつとシャワーだけのこともある。
あと削るとしたら夕食の時間、ともここに以前書いた。
夕食をとらないことにすると、食べる時間だけでなく支度や後かたづけにとられる時間も浮くからだ。
そして、食べてゐないので早めに布団に入ることもできる。

こんな状況では瞑想をしやうにも使へる時間がない。
そんな時間があつたら寝るよ。

といふわけで、目下の急務は睡眠不足の解消、と、もう何年も思つてゐる。

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Tuesday, 12 June 2018

利き手ぢやないのに腱鞘炎

昨日医者に行つたら、左手の中指が腱鞘炎だと診断された。
実は三ヶ月ほどまへにおなじ病院に行つて、「左手の中指が痛いんですけど」と訴へたところ、その日の担当医に「その程度(の痛み)で病院へ?」と鼻で笑われて、そのままになつてゐた。
昨日はまた別の医者だつたのだが、塗り薬を処方するけれどこれが効かなかつたら痛い注射を三本打つ、それでもダメなら手術だと脅された。
「その程度で病院へ?」ぢやなかつたんかい!
夜はともかく朝起きてすぐなどはいはゆるばね指の症状が出ることもある。といふか、それを「ばね指」と呼ぶのだといふことを昨日もらつた腱鞘炎の説明パンフレットで知つた。
どうするんだよ、手術とかいふことになつたらよう。

しかし、左手である。
やつがれは右利きだ。
左手のしかも中指つてどういふことよ。
と思つて夕べ家に帰つてからかぎ針編みをしてみたところ、案外左手の中指を動かしてゐることに気がついた。
とはいへ、右手の比ではない。
なんなんだらうなあ。
思ひつくことといへば、電車の中で本を読むときに本を支へてゐるのは左手といふことと、マウスは左手で使つてゐるといふことくらゐかなあ。
そのマウスもそんなにしよつ中使ふわけではないしなあ。

左手はしばらく安静にしてゐないといけないのらしい。
かぎ針編みがダメといふことは、タティングレースもダメだらうな。
タティングレースの方が左手の中指を動かす印象がある。

ときどき、あみものかタティングレースか、あみものも棒針編みかかぎ針編みか、いづれかにしぼつた方がいいのではないかと思ふことがある。
どれもやるなんてムリ。
ムリではないけれど、時間が足りない。
どれかに注力した方がいいのぢやあるまいか。
さう思ひつつどれもやめられてはゐない。

タティングレースはなあ、お道具が可愛いからなあ。
タティングシャトルとか、手に乗せただけでもなんともらりぃだ。

いづれにしても、まづは指の痛みを癒すところから、かのぅ。

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Monday, 11 June 2018

心理的ブレーキ

あひかはらず、このまま編めなくなるのではないかと思ふくらゐ編めてゐない。

理由はわかつてゐる。
ひとつは疲れてゐるからだ。
先週は日曜から月曜にかけて福岡に行つてゐて、その疲れのとれぬままに日々働き、土曜日は落語会に行つて、昨日の日曜日にはおそらくは低気圧からくる不調に負けてしまつた。
その前の週からずつと疲れは引きずつたままだしね。

もうひとつの理由は、編みかけがふたつあるからだ。
編みかけで、どちらももうすぐ編み終はる。
編み終はつたら仕上げをしなければならない。
仕上げる気力がどうにもわかない、といふ話は先日も書いたとほりだ。

編んでゐる最中のものがあるのだから、新たなものを編み始めてはならない。
さういふ心理的なブレーキがきいてゐる。

以前は、気にせず編み始めてしまつたこともあつた。
さうしていづれも仕上がらないなんてなことも日常茶飯事だつた。
その轍を踏んではならない。
さういふ思ひもあるのだらう。
といふか、ある。

解決策は、ふたつほど考へられる。
ひとつは、かまはずに新たなものを編み始めることだ。
今度編むものは着るものになる予定なので、いづれにしてもゲージをとる必要がある。
ゲージを編むといふ名目で、新たに編み始めるといふのも手だ。

もうひとつは、しかかり中のものを最低でも編み終へてしまふことだ。
とりあへず編んでしまへばあとの仕上げは時間のあるときで、といふことになる。
編む必要はないのだから、新たなものを編み始めてもかまはない。

後者が理想的ではある。
といふわけで、今夜にでも「探偵物語」でも見ながらかぎ針編みのショールを編み上げてしまはうかな。

と、書いておけばするだらう。多分。

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Friday, 08 June 2018

疾走感考

先月シアターコクーンで「切られの与三」を見た。
コクーン歌舞伎の中で見たものとしては、結構おもしろいと思つた。
第一幕こそ単なるダイジェストだなと思つたものの、第二幕のいはゆる「源氏店」で、掛軸の絵が抱一の寒牡丹を模したもののやうに見えて、そこからすつと芝居の世界に入つていけたやうに思ふ。
「抱一でございますね」などといふやりとりはいつさいなかつたけれど、ないのに抱一といふのが気に入つた。
もつともやつがれの見た狭い範囲でいふと、あの抱一の掛軸は芝居の中の季節よりは実際に上演されてゐる季節にふさはしい絵をかけるやうで、そこは違ふんだけど、まあ、細かいことはいい。

見てきた人の感想などを見ると、一様に「疾走感を感じた」といふやうな表現に出くはした。
劇評家の評の中にもあつた。

疾走感。

あつたつけか、「切られの与三」に。

感じなかつたなあ、不明にして。

どちらかといふと、struggling で crawling な印象を受けた。agonizing といふかさ。
疾走する agony といふものもあるのかもしれないが、どちらかといふと身を絞つて悶える感じかなあ、agony。

なぜさう感じたのか。
「切られの与三」の中で、与三郎は、あまり自分からどうかうしやうとはしない。
流されるままに木更津に行き、一目惚れの勢ひにまかせてお富といい仲になり、切り刻まれて元の暮らしに戻れなくなつたところを蝙蝠安に拾はれて、成り行き任せで押借強請を覚える。
なんか、かう、「自分からかうしやう」と思つてしたことがほとんどない。

これが「切られ与三」といはうか「与話情浮名横櫛」の与三郎だと、木更津に行くのは一応みづからの意思である。
こどものない家に養子としてもらはれて行つたら弟が生まれてしまつた。
親は実子に家をつがせたからう。
さう勝手に思ひなしての放蕩三昧、その末の木更津行きだつた。
そこが「切られの与三」の与三郎とは違ふ。

みづから思ふところもなくただ流されていく状況には疾走感を覚えなかつたんだよなあ、多分。
ただ流されるにしても、もつと急転直下の大波乱とかあれば、感じたかもしれない。
あのあと、いろいろ考へた。自分はどういふものに疾走感を感じるのか、と。
「マッハGoGoGo」の主題歌が最初に頭に浮かんだが、あれは曲想がさうなのであつて、あまり参考にならない気がした。

はたと気がついたのが、「早發白帝城」だ。

朝辞白帝彩雲間
千里広陵一日還
両岸猿声啼不住
軽舟已過万重山
の「千里広陵一日還」なんて最高に疾走してゐる感じがするし、「軽舟已過万重山」といふのも軽快で速い。
辞すといつてゐるのだから、みづから白帝城をたつて広陵に向かつたのだらう。
舟をあやつつてゐるのは船頭だらうが、広陵に向かふのは自分の意思だと見受けられる。

あと「赤壁賦」の「短歌行」引用から「固一世之雄也」までのくだりにも疾走感を覚える。
壬戌の秋七月だつたはずの長江が、一気に建安十三年の冬に様変はりする。
蘇子と友とを乗せた舟だけだつたはずが、千里と連なる船団が江に浮かび、はためく旗が空を覆ふ。
それがほんの数十文字のうちに展開される。
その速さ。

ここにはそれほど登場人物の意思の力は感じない。
その一方で、流されてゐるといふ印象もない。

おそらく、自分にとつて疾走感とはみづからの意思を伴ふものなのだらう。
それで「切られの与三」には疾走感を覚えなかつたのだ。

だからといつて、「切られの与三」がつまらなかつたといふわけではない。
最初に書いたとほり、おもしろく見た。
ただ、見た人々の云ふ「疾走感」といふものがどこからやつてきたのかがわからない。
知りたいと思つても、もう見ることもかなはぬやうだ。
残念。

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Thursday, 07 June 2018

のほほん羽田空港

日曜日に二年ぶりに羽田空港に行つた。
なぜかその場の雰囲気がなんとものんびりしてゐることに気がついた。
あくせくしてゐる人などひとりもゐない。
みなゆつたりした足取りで歩いてゐる。
たまにすこし早足な人は、客室乗務員や地上勤務の職員とおぼしき制服を身につけてゐる。

ふしぎだ。
空港なんて「出発の十五分前までには保安検査場をお通りください」だとか「出発の十分前までには搭乗口までお越しください」だとか、とにかく行動が時間に縛られることばかりのはずだ。
新幹線なら発車のベルが鳴つてゐたつてまだドアが開いてゐれば飛び乗ることもできる。
飛行機はそれがきかない。
十分前だらうがなんだらうが、時間までに乗るといふことは一緒だが、精神的な負担は飛行機の方が圧倒的に重たい。

なのに、さういふ圧力をまるで感じなかつた。
午後の早い時間に離陸する予定の機に乗ることになつてゐたので、昼食を空港で済ませやう、それにはちよつと早めに行つておかう、といふので、出発の二時間以上前には空港についてゐた。
時間に余裕はある。
だが、このままこののほほんとした空気に浸つてゐたら、出発の時間までダラダラしてしまふのではあるまいか。
そんな不安を覚えるほど、世の中の空気は弛緩してゐた。

新幹線の駅だつたらあり得ないことだ。
とくに最近の東京駅や品川駅はひどすぎる。
東京駅なんて、かつてはターミナル駅の中では比較的乗り換へやすい、いい駅だつた。
渋谷駅や新宿駅は乗り換へでさへ使ひたくないと思つてゐたが、東京駅はそんなことはなかつた。
それがどうだらう。
いまの惨状。
乗り換へでさへ使ひたくないよ、東京駅なんて。
人がひしめいてゐて、それも大きな荷物をずるずる引きずりながら時にはスマートフォンを眺めつつ歩いてゐるやうな、さらには連れ全体がさういふ状態といふやうな、そんな人間がたむろしてゐる。
混沌とした地獄絵図をみたいならぜひ東京駅をおすすめする。
さうして、苛々するわけだ。
こちらが行きたい場所ははつきりしてゐるのに、目の前にゐるどこに行くのか目的意識を持つてゐないんぢやないかと思へるやうな有象無象のゐる中で、いつたい自分にどうしろといふのか、と。

どこに行くのか目的意識を持つてゐないやうに見受けられる、といふ点では羽田空港もそれほど変はらない。
もちろん、どちらの場合も最終的な目的地ははつきりしてゐるのだらう。
だが、そこに向かふのに、まづどこへ行けばいいのかわかつてゐる人は少ないやうに見受けられる。
空港でいへば、第一ターミナルに行けばいいのか第二ターミナルなのか、といふのがまづは問題だ。
第一は国際線で第二は国内線といふ大きなくくりはあるものの、第一を利用する国内線もある。
正しいターミナルについたとして、どの保安検査場を通過すればいいのか、といふ問題がある。
そして何番から出発するのか。
それをまづは確認しなければならない。
場合によつては出発する場所が途中で変更になる場合もある。

それにしては、みんなのんびりしてゐるんだよなあ。
日曜日の昼間だつたからだらうか。
東京駅や品川駅に比べて空間が広くゆつたりしてゐるからだらうか。
飛行機に乗らうなんて人はみんな時間に余裕を持つて空港にやつてくるからだらうか。
全部かな。

なぜかは知らず、とにかく精神的にとても安定した心持ちになつたのだつた。
こんなことは絶えてなかつたことだ。
だいたい、時間に縛られるのがダメ、とは、常々ここにも書いてゐるとほりである。
何時にどこに行くには何時の電車に乗つて、それには家を何時に出ねばならず、そのためには食事の支度は何時にはできてゐなければならないし、それには朝何時に起きなくてはならないから夜は何時までには寝なければ。
さう考へるだけでぐつたりしてしまふ。

それが、今回はほとんどなかつたんだなあ。
すくなくとも羽田空港では。
昼にはまだ早い時間だつたので空いてゐる店内でのんびりと昼食をとり、時間があるから書斎館をゆつくりと見てまはり、離着陸時に耳を守るための飴を忘れてきたことに気がついて飴を買へるやうなところを探して歩く。
そのあひだ、せかせかとした気分にはまつたくならなかつた。

いつもかうだといいのだがなあ。
それだと遠征ももつと気楽に行けるのだが。

来月は大阪松竹座に行く予定だ。
新幹線で行くつもりである。
このときのやうにのんびりと行けるといいのだが。

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Wednesday, 06 June 2018

カリスマとシンドロームの違ひ

先日、TVドラマ「新・座頭市」で北村和夫の演じた僧侶について「カリスマ性」と書いて、「(といふことばもいまは安くなつてしまつたが)」とつづけてしまつた。
「カリスマ」といふのは超然としたもの、通常では得難いもの、さういふ資質を持つた人物に本来は使ふことばなのだと思つてゐる。

しかし、世の中には「カリスマ」が氾濫してゐる。
最近は云はないのかもしれないが、かつては「カリスマ店員」と呼ばれる存在がゐて、それも世にたつたひとりとかではなく、あちこちのお店にゐるのらしかつた。
「頭文字D」だつたか、「群馬のカリスマ」と呼ばれる人物がゐて、「つてことは、四十七都道府県全部にひとりづつカリスマがゐるつてことかい?」と思つたものだつた。
2700の「右肘左肘交互に見て」に出てくる「カリスマ」はよいとしても、この歌といふかコントといふかに「カリスマ」といふことばが出てくるのは「カリスマ店員」だとか四十七都道府県にひとりはゐるだらうカリスマの影響だらうと思ふ。

以前、中島梓が「シンドローム」だとか「症候群」といふことばをそんなに使つてくれるな、と嘆いてゐた話はここにも何度か書いてゐる。
何度も何度も使はれることでことばに手垢がつくから、といふことだつたと記憶する。
そのうちにことばの力も失はれていくのだらう、と個人的には思ふ。

「シンドローム(症候群)」は、病状につける名称なので、さう安くなつたり手垢がついたりはしないだらうとも思つてゐる。
十五年ほど前、SARSといふ呼吸器疾患が世界的に発生して大問題になつたことがある。
SARSとは Severe Accute Respiratory Syndromeの略で、重症急性呼吸器症候群と訳される。
「症候群」とは原因が明らかではない一連の症状につけられる名称であつて、さういふ症状が複数あり、世界的に大問題になつてあちらこちらで使用されることになつたからといつて、手垢がついたりことばの力を失ふやうなものではない。

そんなことを考へるのは、「カリスマ」はまた別なんだなあ、と思つたからだ。
「カリスマ」もまた、さういふ資質を持つ人物について使ふことばではある。
だけれども、あんまりあちこちで使はれてしまふと、「この人にはほんたうにカリスマ性がある」と思つたときに使ひづらいのだ。
かへつて失礼にあたるのぢやあるまいか。
さういふ気がしてしまふ。

さういへば、「大女優」とか「大物俳優」とかも使ひづらいことばになつてしまつた。
TVのワイドショーが「あの大物歌手が」とか「あの大女優が」などといふ煽り文句で番組の宣伝を打つものだから、「誰のことだらう」と思つて見てみたら、「え、この人が「大物」なの?」とか「え、この人が「大女優」なの?」といふことがくりかへしくりかへしあつたからだ。
そのうち「大」だけでは足りなくなつて「超」をつけてみたり、あれこれ手を尽くしてはゐるやうだが、一度インフレーションを起こしてしまふと、ことばといふものはデフレーションには向かはないものらしく、どうにもならない状況になつてゐると見てゐる。

「カリスマ」とおなじで「大女優」や「大物」もまた使へないことばになつてしまつた。
使へば相手に失礼なことになりさうだからだ。

「症候群」や「シンドローム」にはさういふことはない。
やつがれが知らないだけで、いまも原因不明の新たな症状に「なんとか症候群」だとか「かんとかシンドローム」と名前がついてゐることだらう。
中島梓はなにを心配してゐたのだらうか。
いまとなつてはわからない。

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Tuesday, 05 June 2018

分不相応なものを買うたばかりに

最近は昼休みにはタティングレースではなくてマクラメといふ名の組み紐作りにいそしんでゐる。

逆かな。組み紐といふ名のマクラメ、かな。

いづれにしても、丸四つ畳を道具を使はずに手だけで作つてゐる。
時計の鎖にするつもりでゐたが、当の時計がダメになつてしまつた。
修理が必要だ、といふのである。
ものはMONDAINEのちいさな時計で、腕にもできるし首からも提げられるやうになつてゐるものだつた。もつぱら首から提げて使つてゐたが、あるとき紐が切れてしまひ、その後は自分で作つたタティングレースのチェインを使つてゐたが、それもほつれてきてしまつた。

で、鎖になるやうなものを作らうといふので作りつつ、時計の電池が切れてゐたので交換しにお店に行つたら、修理が必要ですね、といはれてしまつたのだつた。

MONDAINEの時計なんぞを買つたのがあやまりだつたかのう。
さうも思ふ。

いい時計はそれなりにメンテナンスにも気を配つて使ふものらしい。
それができない人間には使ふ資格がない。
さういふものだらう。

とりあへず、修理はおいてまづは見積もりをしてもらふことにした。
つまり、丸四つ畳の鎖は宙ぶらりんの状態になつてしまつたといふことだ。
できあがつても、提げる時計がないかもしれない、といふことだ。

お店の話によると、もうおなじ時計は作られてゐないのださうだ。
鎖は単体で使へるとは思ふ。
それともこれは練習と思つて仕上げるべきだらうか。

気に入つてゐる時計なので、いづれ修理はするやうな気もするが。
ちよつと作る気が萎えてゐるのだつた。

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