Friday, 20 April 2018

片づけられない片づかない

部屋が片づかない。

片づける能力がないといふのがひとつ。
もうひとつは、「片づけてゐる暇があつたらほかにしたいことがある」だ。

ほかにしたいことをするにも、片づけてからした方がはかどるし、気分もいいだらう。
さうは思ふができない。
歌の文句にあるぢやないか。
「明日ありと思ふ心の徒桜夜半に嵐の吹かぬものかは」つて。

片づけて、きもちよくなつてから好きなことをしやう。
さう思つても、明日はもう来ないかもしれない。
この世の最後にしたことが片づけになるやもしれぬ。
それよりもしたいことをしやうや。

云ひ訳である。

といふわけで、この連休にはちよつと片づけをしやうと思つてゐる。
まあ、すこし長い休みのときは毎回さう思ふんだけれどもね。
毎回ちよつと片づけをして、すぐ息切れしてしまつて、つづかない。
捨てるものや取つておくものが床に散乱し、収拾がつかなくなる。これを片づけないことにはなにもできない。
そして、懲りてしまふのである。
「もうしばらく片づけなんぞはしたくない」
さう思つてしまふ。

片づかないのは、ものを捨てないからだ。
これが一番大きな理由かと思ふ。
最近は日によつて捨てられるゴミがわかれてゐて、それによつてゴミの分別が迫られる。
これは可燃ゴミ、これは不可燃ゴミ、これはリサイクルごみ、と、わけておいておくと、あつといふ間に床の上が混沌としてくる。
そのうちどこまでが可燃ゴミでどこまでがリサイクルごみなのかわからなくなつてきてしまふ。

これをふせがうと、手にゴミ袋を持つて片づけをするのだが、やはりうまくいかない。
ゴミ袋がすぐいつぱいになつてしまふからだ。
やはり箱を用意する方がいいのかなあ。
とりあへずとつておくもの用と捨てるもの用とふたつ箱があればいいだらうか。
それにかたつぱしからものを入れていつて、あとで選別する。
それでいいやうな気もする。

なぜ箱をいままで用ゐてこなかつたのかといふと、適当な箱がないといふのが大きい。
そして、箱に入れることにすると、わざわざ箱のある場所まで移動しなければならず、それだけで疲れきつてしまひさうな気がしたから、といふのもある。

さらに、先ほど日によつて捨てられるゴミが細かく分かれてゐると書いたが、不要なものをまとめてもゴミの日まで捨てられない。
それまでものだつたものがゴミとして家の中にある。
その状態がどうにも気に入らないといふこともあるな。

いづれにしても云ひ訳だ。
箱に入れることにすれば、箱の中は片づかなくてもとりあへずそのまま入れておけばいい。
箱なら重ねられもしやう。
といふわけで、まづは適当な箱を入手するところからはじめるやうだな。

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Thursday, 19 April 2018

休みの日には休みたい

五月の連休中にしたいことを書き出してゐる。

Bullet Journal に「連休中にしたいこと」といふタイトルのページを作り、思ひつくままに書き付ける。
いまのところ「最初の二日間はとにかく寝る」とか「それ以降は早寝早起き」、「パシフィック・リムを見に行く」などが並んでゐる。
部屋の片づけもするべきなんだがなあ。
一応書いてはみたけれど、するかどうかはアヤシい。

Bullet Journal はかういふ遣ひ方に向いてゐる。
ここ二年ほど、五月や九月の連休や正月休み前には大抵かうして書いてきた。
書いてなにかいいことがあるのか、といふと、まあ「すつきりする」といふのはある。
「あれもしやう」「これもしやう」と頭の中だけで考へてゐるあひだはもやもやとしたものが、紙に書き出すとなんとなく具体的になつた気がして気分がすつきりするのだ。
書き出したことは考へなくてもよくなるしね。
あとは長い休みを有意義に過ごせる気がする。

でも休みなので、なるたけすることは減らす。
することをあるていど書き出したら何日にやるかをおほまかに割りふるが、このときにいつぱいいつぱいにならないやうにする。
なにも割りふらない日をできるだけ増やす。
なにも割りふらないからといつて、なにもしないわけではない。
割りふれない予定といふのもあるからだ。
たとへば五月の連休でいふと、毎年冬に着た毛糸ものを洗つて乾かし片づけるのだが、これは天候に左右されるので何日にするとは決められない。
また、読書やあみものは一日限定ですることではない。
さういふことをあいてゐる日に心ゆくまでする。
予定が入つてゐないからといつて、なにもしないわけではない。

などと云ひながら、五月は連休後に予定が入りまくつてゐるから連休中にできることはなるたけすませたいし、平日に休みがあるのでさういふ日には銀行に行きたいし、ラピュタ阿佐ヶ谷で岡本喜八特集もあるし、結局予定がどんどんうまつていくのであつた。

もうちよつとのんびり過ごしたいものなのだがなあ。

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Wednesday, 18 April 2018

「犬神家の一族」と「八つ墓村」

Twitter で「犬神家の一族(以下、「犬神家」)」と「八つ墓村」とを混同する人が多い、といふつぶやきを見かけたせゐか、ここのところなぜこのふたつの判別がつきにくいのかについて考へてゐる。

いまのところ、「雰囲気が似てゐるから」だらう、と考へてゐる。

実を云ふと、「犬神家」と「八つ墓村」とが似てゐるとは思つてゐない。
かたや石坂浩二、かたや渥美清ではないか。
全然違ふぢやあないか。
どちらの映画にも出演してゐる俳優といふのも、主要なところでいふと二人くらゐしかゐないのではあるまいか。

と、いきなり映画の話になつたのには訳がある。
「犬神家」と「八つ墓村」とを混同する場合、よく出てくるのが沼からつきでた二本の足と頭に巻いた鉢巻にはさんだ蝋燭とか懐中電灯とかだからだ。
そのふたつの映像または画像を見たことがある人が、どちらがどちらだかわからない、またはどちらも実はおなじものだと認識してゐる、といふことなのだと思つてゐる。

あとは双子の不気味なお婆さんとかね。
マスクをつけた不気味な人物(佐清)とかね。
ヴィジュアルありきなのだ。
多分、どちらも1970年代に公開された映画にまつはる映像/画像を見て「どつちかわからない」というてゐるのだらうと推測する。

似てゐるといふと思ひ出すことに、浅見光彦シリーズがある。
やつがれはあまり浅見光彦シリーズといふものを評価してゐない。
理由は、「これ、おもしろいから読んでみて」と勧められて読んでみた本が二冊とも納得いかなかつたからだ。
片方は「良寛さんと一休さんつて似てるよね」といふ話で、もう片方は「「赤い靴」と「青い目の人形」つて似てるよね」といふ話だつた。

どこが?
全然似てないぢやん。
や、「全然」は云ひ過ぎか。
でも似てゐない。
「赤い靴」と「青い目の人形」とは、まあ、百歩譲つて似てゐるところもある、と云へないこともない。かたや女の子かたや人形が海を渡つて異国の地に行くといふ歌……と書いて、やはり「どこが似てゐるんだらう」と首を傾げざるを得ない。

ところがこれを勧めてくれた人は、「云はれてみれば似てるよねえ」といふのである。
さう云つた人はもうひとりゐて、ふたりとも浅見光彦シリーズの大ファンだつた。

さう考へると、「犬神家」と「八つ墓村」とは人が云ふほど似てゐないと思ふ、やつがれの方に問題があるのではないかと思へてくる。
世の中の人は些細な違ひをあげつらつて「似てない」などと云はないのだ。
石坂浩二と渥美清とが「些細な」違ひかどうかはともかく、推理ものにおける探偵役といふのは狂言廻し的な役回りに落ち着いて、案外目立たないものだつたりもする。
だつて「犬神家」や「八つ墓村」といつたときに思ひ出すのつて、沼から突き出た二本の足とか不気味な双子のお婆さんとか狂気の表情で洞窟内を走るをぢさんとかなんでせう。
金田一耕助ぢやあないのだ。

だから、「犬神家」と「八つ墓村」とは取り違へるほどによく似てゐるのである。
やつがれにはなぜだかわからないけれど。

ところで、どちらかといふと、「犬神家」と似てゐるのは「獄門島」なんぢやないかなあ、とも思ふ。
どちらにも三つの見立て殺人があるからだ。
似てゐると思ふ点はそれしかないが。
あと一応映画では石坂浩二の、TVでは古谷一行の金田一耕助で見たから、といふこともあるかもしれない。
個人的には「獄門島」はささやななえ(当時)のまんがなんだけれどもね。

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Tuesday, 17 April 2018

貴族鼠

絹穴糸でタティングレースをしてゐる。
あまりにもうまくできないので、「仕方がない、今回は練習といふことにしやう」とあきらめた。

タティング練習

糸は、都羽根の貴族鼠といふ色である。
色が飛んでしまつてわかりづらいな。
わりと黒みがかつた灰色だ。
落ち着いた、いい色だと思ふ。

いい色なのだが、どうもうまく結べない。
スプリットリングにしたのがよくなかつたかなあ。
やつがれの技術ではスプリットリングは無理といふことか。

なぜか二つ目のシャトルで結んでゐるときの方が目がそろふ。
以前はそんなことなかつたんだけどなあ。
もしかしたら、いまこの状態でメキッキオヤをやると目がそろつていいかもしれない。
メキッキオヤは以前挑戦して、スプリットリングの二つ目のシャトルの要領で結ぶのに疲れきつてしまひ、モチーフをひとつ作るのがやつとだつた。
しかもきれいにできなかつたし。

とりあへず、糸が尽きるまでは練習といふことで、つづけるつもり。
なにごとも修行だよな。

この連休のあひだは、ちよつとマクラメなどやつてみやうかと思つてゐる。
マクラメについては長い休みの前には「この休みにはマクラメでもするか」と思ふのだが、つひぞやつたことがない。
今回は、ダルマの鴨川糸も買つたし、刺繍糸もいくつもあるし、挑戦してみやうと思つてゐる。

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Monday, 16 April 2018

手がきつすぎる

レース編みのスカーフは本体を指定段数まで編んだのだが、長さが足りない。
10cmは足りないだらうか。
いませつせと編み足してゐる。

かぎ針編みのスカーフ

編んでゐるのは「風工房の小さなクロッシェレース」に掲載されてゐる方眼編みのやうに見えるスカーフだ。
スカーフの短い方の両端にアイリッシュクロシェの葉を編みつけることになつてゐる。
この葉を編みたくて編んでゐるのだが、なかなかそこまでたどりつかない。
本体部分はここにも何度か書いたやうに、一旦編み目から針をはづして下の段の細編みの頭に針を差し入れ休ませてゐた目を引き抜くといふのを数目に一度する必要がある。
その間に引き抜きピコットもある。
途中で挫折するんぢやないかとも思つたが、編んでいくうちに次第に調子に乗つてきたやうだ。
あと数段、このまま編めるだらうと思つてゐる。

ところでかぎ針編みのときは手がきつい。
棒針編みのときはゆるいんだがなあ。
かぎ針編みも、レース糸を編むときにきつくなるやうに思ふ。
以前ホビーラ・ホビーレのレース糸のキットを買つて方眼編みがベースのショールに挑戦したことがある。
すこし編み進んだときに店頭に飾られてゐる完成品を確認しに行つたところ、なんだか自分の編み目と全然違ふ。
もつとゆつたりとしてゐるのだ。
さういふものなのかなあ。
ショールなので糸が続く限りは気にいつた大きさまで編み足せばいいわけだけれども、軽くショックだつた。

この連休は、春夏糸で棒針編みをするつもりでゐる。
でもなんとなくこのままかぎ針編みをつづけたい気もするんだよなあ。
オリムパスの金票40番を買つてあるので、それでアイリッシュクロシェのモチーフなんぞを編みたい。
連休がもつと長ければいいのだが。

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Friday, 13 April 2018

死語を遣はう

文章指南の本などを読むと、手垢のついたやうな云ひ回しは遣ふな、とある。
手垢のついた云ひ回しとは、慣用句、クリシェの類だ。
たとへば「そんなの、赤子の手をひねるやうなものさ」とか「鬼の首を取つたやうに自慢げだ」とか。
ニュースの「立春とは云ひながらまだまだ寒い日がつづきますが」などもさうだらう。

遣ふな、と、いふのには理由がある。
かういふ慣用句を遣ふときといふのは、ほかにこれといつた表現が思ひつかないときだ。
思ひつかないことをごまかさうとして遣ふ。
耳慣れた表現だから、受け取る側もなんとなくわかつた気持ちになる。
でも実は具体的なことはなにも語つてゐない。
ゆゑに遣ふな、といふのだ。

文章で生きていかうといふ人にとつては、そのとほりかと思ふ。
しかし、遣はないことばは滅びる。
慣用句やクリシェは滅びてもいいといふことだらうか。
やつがれはさうは思はない。
文章で生きていかうとも思つてゐない。
誰も遣はないのならかへつて新鮮だともいへる。
だから「あの人は竹を割つたやうな性格の持ち主だ(そんな人物には実際のところ会つたことはないのだが)」だとか「蜂の巣をつついたやうな大騒ぎ」とか、どんどん書くやうにしてゐる。
とくに自分の手帳には書く。
さうしないと遣ひ方を忘れてしまふからだ。

死語を遣はう。
遣つてゐるあひだは大丈夫だ。
遣はなくなつて、「死語」とも云はれなくなる前に。

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Thursday, 12 April 2018

歌は世につれ

「傷だらけの天使」の再放送を見てゐてなにが楽しいといつて、当時巷に流れてゐた流行歌を聞くことだ。

中でも一番グつときたのがリンリン・ランランの「恋のインディアン人形」である。
「恋のインディアン人形」だよ。
最後に聞いたのいつだよ。

「おんなの道」だとか「なみだの操」、「襟裳岬」に「二人でお酒を」などといつた歌は、折りにふれて聞く。
……最近はさうでもないか。でも聞かないことはない。
「恋のインディアン人形」を最後に聞いたのはいつのことだらう。
ひよつとすると、二十年ではきかないくらゐ以前のことではあるまいか。

「恋のインディアン人形」が流れるのは第三話「ヌードダンサーに愛の炎を」だ。
ヌードダンサーたちの踊る背後に「恋のインディアン人形」が一瞬流れる場面がある。
かういふのがたまらないよねえ。

「傷だらけの天使」といふドラマ自体はどちらかといふと浪曲寄りにできてゐるやうに思ふ。
少し前の時代の歌にも関はらず「浪曲子守唄」が流れる回が何話かあるうへ萩原健一演じる木暮修が劇中で口ずさむ場面があるし、寿々木米若の「佐渡情話」をfeatureした第八話「偽札造りに愛のメロディーを」といふ回もある。
浪曲なんて古い、と、ドラマの放映された1974年時点でもすでにさうだつたのではあるまいかと思ふのだが、このころはまだまだ浪花節的なものが世間に残つてゐたのだらう。

そこに「恋のインディアン人形」ですよ。
異色。
違和感。
異世界。
と、そこまで云つたら云ひ過ぎなのは、これがヌードショーのBGMとしてかかるからで、半年前にリリースされた流行歌を取り入れたといふあたりが淫靡のはずがどこか明るい催しにぴつたりだ。
「あなたにあげる」とか「好きになつた人」とか、若い歌手の歌もないわけぢやないけれど、「恋のインディアン人形」にはじめつとした湿気がない。
見逃した回もあるので断言はできないが、このドラマの中ではちよつとめづらしい歌だ。
だからよけいに心わしづかみにされるんだよなあ。

そんなわけで、「傷だらけの天使」を見ながら「うわ、「浜昼顔」なんて久しぶり」だとか「「くちなしの花」だわー」とか、ドラマとは全然違ふところで盛り上がつてしまふ。
ドラマを作つた人たちの意図とはかなりはづれた見方だらうなあ。
でも楽しいからいいか。

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Wednesday, 11 April 2018

貧しさに負けた

四月八日の朝日新聞Webで、「大分県で65歳以上の人の万引きが増加してゐる」といふ記事を読んだ。

なぜ大分県にかぎつてゐるのか、とか、その発生率は人口における65歳以上の人の割合と比してどうなのかとか、確認したいことがないわけぢやない。

個人的に衝撃を受けたのは、「所持金はあるが、こんな商品に遣いたくなかった」といふ万引きをした人の談話だ。
「こんな商品に遣いたくなかった」って……だつたらなんで万引きなんかしたんだよ。
さう思つたからだ。

いけないとはわかつてゐても、生活が苦しくなつたら万引きしてでも生き延びていくかもしれない。
自分はさういふタイプだと思ふ。
お金がなくなつて生命を維持するに足る食料もそこをついたといふことになつた場合、盗んででも生きていかうとするのがひとつ、お金がないんだからそのまま餓死するといふのがひとつの道だと思ふ。
自分はどうも耐へて飢ゑ死ぬタイプではないと思ふんだよなあ。
金がすべての世の中が悪い。
さう屁理屈をこねて、悪事に手を染める。
さうなる自分が目に見えるやうだ。

でも「こんな商品にお金を遣ひたくない」から万引きする、といふのはちよつと考へづらい。
さういふものは最初から買ひたいと思はないからだ。

その価値に見合ふ代金を支払ふ気にはならないが、でもほしい。
かういふ風に考へてみると、世の中にはさういふ商品もないわけぢやないかな、とは思ふ。
でもこの場合は、「もつと入手しやすい金額だつたら買ふのに」といふ意味だ。
たとへば楽器。
「時価」とか書いてあるファゴットをほしいと思ふことはあるが、でも買へない。
入手しやすい金額だつたら買ふのにな、と思ひつつ、でもさうなつても買ふか否かかなり迷ふと思ふ。
なくても暮らしていけるし、そもそも手元にあつても吹く場所がない。
贅沢品とか嗜好品とか、さういふものなんぢやないかなあ、「その価値に見合ふ代金を支払ふきにはならないけど、ほしいとは思ふ」ものつて。

モラルの低下といふ話もある。
貧すれば鈍すとはこのことか、ともいふ。
今朝も六月から小麦粉の価格が上がるとニュースで聞いた。
今後ますます高齢者の万引きが増えるといふことか。

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Tuesday, 10 April 2018

色の名前と番号と

編み気が高まると結び気も高まるもので、手持ちの都羽根など出してきて「どーしよーかなー」などと考へたりしてゐる。

手持ちの都羽根の絹穴糸は、すべて京都の高島屋で求めたものだ。
顔見世などで京都に行つたをり、寄れるときは寄るやうにしてゐた。
糸が増えすぎてしまつてここ二、三年行つてゐない。

都羽根の糸にはひとつひとつ色の名前がついてゐる。
もう手元にないからしかとは覚えてゐないのだが、「紅碧」といふ名前の色の糸があつて、これが名前からは想像のつかないやうな鮮やかな紫色なのだつた。
いまWeb検索をかけて見たらまたちよつと違ふやうな色が出てきたけれど、紫系であることにかはりはないやうだ。
栗色なんてのはこつくりといい茶色だし、都鼠は紫といはうか灰色といはうか微妙な色合ひで同系色のビーズを探してきて一緒にしたらさぞかし渋くてよいだらうといふやうな色である。

さう、つまり、都羽根の絹穴糸は糸を見てゐるだけでものすごく楽しいのである。
それでなんだか満足してしまつて、その先に進まないのであつた。

セーラー万年筆が100色の万年筆用インクを発売したといふ。
これまでセーラー万年筆のインクには、名前のついたものもあつた。
スカイハイだとか、海松藍、月夜の水面、極黒や青墨なんかも仲間に入れていいかと思ふ。
百色のインクには名前はないのださうだ。
番号がふられてゐるだけだといふ。
それをもつて「趣がない」といふ向きもあるだらう。
しかし、番号だけの方がイメージが広がるのぢやあるまいか。
名前がついてゐれば名前に縛られてしまふ。
「月夜の水面」と名前のついたインクを使ふたび、しづかな湖水に浮かぶ月の絵を思ひ描いてしまふかもしれない。
それはそれでいいけれど、もしおなじインクが37番といふ名前だつたらどうだらう。
インクは万年筆の中で熟成されていく。
書き始めと書き終はりとで、また趣の違ふ色になることもある。
それを見て、さまざまなことに思ひを馳せることも可能だ。
37番といふだけであるならば。

まあ実際には背番号37番の誰某だとか、37階からの展望だとか、番号だけでもいろいろなことを想起してしまふのかもしれないが。

色を見てあれこれ思へるのは、番号だけのそつけない名前の方かもしれないな、と思ふのだつた。

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Monday, 09 April 2018

編み気高まる

レース編みのスカーフは、遅々として順調に進んでゐる。
エミーグランデを2/0号針で編むといふ、自分比としては細い糸を編んでゐることもあり、また、苦手な引き抜きピコットがあることや逐一針を目からはづして編む必要があることなどを考へ合はせると、遅々とするのは当然のことで、ゆゑに順調に進んでゐるといへる。

「風工房の小さなクロッシェレース」に掲載されてゐるこのスカーフは、本体部分が方眼編みのやうな模様になつてゐて、両端に葉のモチーフを編みつけることになつてゐる。
本体部分はあと30段も編めば終はる。ちよつと短いかなあとも思ふが、もともとそんなに長いスカーフにはならない。さういふデザインだ。
考へてみても、どういふ場面で使ふスカーフなのかよくわからない。
防寒にはならないと思ふ。
これからの季節、冷房除けのスカーフを使ふ機会も増えるが、このスカーフだと方眼編み部分の穴が大きすぎて、風をふせいではくれない気がする。
もう、アイリッシュ・クロシェによくある葉のモチーフを編みたいばかりに編んでゐるといつてもいい。

「風工房の小さなクロッシェレース」には、アイリッシュ・クロシェのモチーフをつないだネックレスやブレスレット、カフスなどが掲載されてゐて、「使ふ場面が思ひつかないよ」と思ひつつ、なんとなく編んでみたい気分にさせられる。
といふか、編んでみたいと思ふときは、かなり編み気が高まつてゐるときだらう。
金票40番で編む葡萄と葉のモチーフをつないだネックレスとか、いつ使ふよ。
替襟のやうな感じで使へばいいのだらうか。

でもちよつと編んでみたいよな。
ネックレスくらゐならそんなにたくさんモチーフを編まなくてもいいし。
飽きたらそこでやめて、あとはチェインを長めに編んでごまかすこともできさうだし。

といふわけで、気がついたら編んでるかもしれないな、アイリッシュ・クロシェのネックレス。

その前に、ヴェスト的なものが編みたいのだが、この糸でこれを編みたいといふものがいまのところない。
編み図でも探してみるかなあ。

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