Friday, 25 May 2018

明易き夜に落語とか俳句とか

落語と俳句とはどことなく似てゐる。

ぱつと思ひつく類似点は季節感だ。
それも、ちよつと旧暦寄りの季節感だと思ふ。
たとへば八月になると秋めいてくる、とかさ。
いまは九月でもちよつとどうかと思ふくらゐ暑い日がつづくものの、暦の上では秋、みたやうな。
だから季語も秋のものが増えてくるし、秋のころの噺をかけるやうになる。
まだ暑いけれど。
落語を川柳(川柳ではなく)より俳句と結びつけたくなるのはそこだ。

また、忌日を偲ぶといふ点も似てゐる。
季語には個人の命日忌日に名前をつけたものがある。
人の名前をそのままつけた碧梧桐忌や安吾忌、作品名などにちなんだ河童忌・桜桃忌・菜の花忌。
落語も先日は新宿末廣亭で五代目柳家小さんの命日を含んだ十日間「小さんまつり」をやつてゐたし、三遊亭圓朝には圓朝忌がある。謝楽祭もその一環かな。

季節感と忌日といふ話になると歌舞伎もさうぢやん、と云はれるかもしれない。
でもですよ、今月歌舞伎座でなにがかかつてるつて、「菊畑」ですよ。
いつたい今が何月だと思つてゐるのか。
もしかして赤道の向かうの国の話なのだらうか。
それも、故人をしのぶ演目だとか襲名披露の「道成寺」だとかいふのならまだしも、さういふことはない。
え、團「菊」祭だから「菊」畑?

歌舞伎に関しては季節感が失はれて久しい。
文楽はいまの興行形態では季節感を生かすのはちよつとむつかしいのではないかといふ気がしてゐる。
季節感といふとやはり落語な気がする所以だ。

もうひとつ、落語と俳句とよく似てゐると思ふのは、受け手に投げ出す部分が大きいといふことだ。

俳句はいうても五・七・五の十七文字で完結せざるを得ない。
そこに云ひたいことをすべてつめこむことはできない。
だから季語といふさまざまな背景を持つことばを埋め込むのだが、それでもまだ足りないことはいくらでもある。
もともと連歌から派生したものだから、受け手側にあづける部分が多いといふ話もある。
だからといつて中途半端な作品を作つてもいいといふわけではない。
こちらは十分考へて作りました。
あとはおまかせ致します。
さういふ面が俳句にはある。

「春の海ひねもすのたりのたりかな」と聞くと、この人(蕪村か)、一日中海を眺めてゐたのかよ、と、やつがれなどは思ふ。
だつて「ひねもす」だよ。
実際は一日中は見てゐないのかもしれない。
たまたま海を見てゐたら波がゆつたりのつたりと寄せては返し寄せては返ししてゐるのを見て、なんだか悠久の時が過ぎ去つた気がした。
それが「ひねもす」といふ表現になつた。
そんな気もする。
きつと空と水平線との境もぼんやりと曖昧なのだらう。
だつて春だもの。
どこからともなくやつてきては帰つていく波ののんびりとした動きに気がついたらあつといふ間に時間がたつてゐた。
さういふことなのかもしれない。

落語も、なにもかも説明しないところがある。
八つつあんがご隠居さんのところに行つて話を聞く。
それを熊の野郎にも教へてやれといふのでご隠居さんの家をあとにするのだが、噺家は八つつあんがご隠居さんの家を出て外に出たとか、熊さんの家に行くあひだにどの道を通つてどう行つたとかいふことは語らない。
場合によつては間になんにもなくいきなり「よう、熊公」と戸を開ける身振りをしていつのまにか熊さんの家に着いてゐた、なんてなこともある。
それで客はついていけないかといふと、そんなことはない。
噺家の間や表現によつて、ちやんと「あ、八つつあんは熊さんの家にたどりついたんだな」とわかる。

心理的な面でもなにもかも語り尽くすといふことはしない。
「文七元結」では、長兵衛がいつ文七に五十両を渡すことにしたのかといふ点が、やつがれにはよくわからない。
さういふ流れになつちやつたんだよと感じることもあるし、この一点をわかりやすくするためにそこまでの流れをきつちり語ることもある。
なにも落語にかぎつた話ではなくて、芝居や映画・ドラマ・小説・まんが、なんでもさうだとは思ふ。
でも、落語はひとりで語るものであるがゆゑに、受け手に投げ出す部分が大きい気がするんだなあ。
受け手側が解釈する部分が大きいといふのか。

いままでは無意識のうちに自分を「あんまし勝手な解釈をするんぢやないよ」と戒めてゐた気がするが、句会で句についていろいろ妄想を働かせるやうに、聞いた落語についてもいろいろと妄想してもいいのかもしれない。
そのためにはもつときちんと聞き込む必要があるけれど。

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Thursday, 24 May 2018

必殺無責任一代男

火曜日からTV神奈川で「新・必殺仕置人」の再放送がはじまつた。

「必殺仕置屋稼業」の最終回で護送中の市松(沖雅也)を逃がした中村主水(藤田まこと)は、「必殺仕業人」ではその咎で定廻り同心から牢屋見廻り同心に格下げになつてゐた。
#同じく牢屋見廻り同心の美川陽一郎がとてもすてきなのだがそれはまた別の話。

「新・必殺仕置人」の第一話では、主水が牢破りを未然に防いだことにより定廻りに戻されることになる。
「必殺仕業人」の最終回で仲間が無意味に死んでいくのを目の当たりにし、裏の稼業にも嫌気がさしてゐた主水は、本業に力を入れる気になる。

めでたしめでたし。
では物語にならない。
主水を定廻りに復帰させた与力・筑波重四郎(岸田森)は、ある理由から主水の存在を邪魔なものと思つてをり、仕置人に依頼して主水の命を取らうとしてゐた。

それを知つた主水は筑波と相対し、こんなセリフを口にする。

あたしは世の中といふものが、人間といふものが、一切信じられなくなりました。
あたしは今後徹頭徹尾手抜きでいきます。仕事なんか一切しやあしません。
うすぼんやりの、昼行灯で結構です。
と。

昔はむやみやたらとこのセリフにあこがれ、主水さんイカす、と思つてゐたものだが。
実際に自分が仕事をするやうになると、徹頭徹尾手抜きでいくことのむつかしさをイヤといふほど思ひ知つた。
だからよけいに主水さんイカす、と思ふのだが、どんなにあこがれたところで所詮自分にはできさうにない。

昼行灯は昼間だから無用なのであつて夜になれば役に立つ、ともいふ。
つまり昼行灯になるには、役に立つ人間・仕事のできる人間でなければならない。

中村主水を見てゐると、クレイジー・キャッツの「無責任一代男」を思ひ出すことがある。
この歌の主人公は、まぢめに仕事などしやしない。が、上役に取り入るためにはごまをすり、ゴルフや小唄、碁などをたしなむことに余念がない。
小唄といふのが時代だが、上司に取り入らうと思つたら、ゴルフや碁などはそれなりにできるやうにならないとダメだらう。
相手を気持ちよく勝たせるやうになるには、相当の力が必要なんぢやあるまいか。
この男は、仕事はしないかもしれないが、仕事をしないための労力は惜しまない。
こどものころから調子よく、要領だけで世間を渡つてきたと歌にはあるけれど、それつて才能だよね。

仕事をせずにぼーつとするためにはそれなりの才能・努力が必要といふことだ。
おそらく「努力」とは思はずにやる人が職場でうすぼんやりとしてゐても許されるんだらうな。

その才能もないし、ゴルフや小唄・囲碁を学ぶことを努力と思つてしまふ人間は、昼行灯や無責任社員になどなれはしないのだ。

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Wednesday, 23 May 2018

サルヴェイジしたい「座頭市物語(TV版)」

録画機が動かなくなつて久しい。
修理するか買ひ替へるかすればいいのだが、修理をするには修理の人を呼ばねばならず、買ひ替へるには手元不如意だ。

新しく買ふにしても、いまの録画機に録画されてゐる番組はサルヴェイジしたい。
サルヴェイジしたいのは主に芝居関連の番組と時代劇だ。
内蔵HDDの容量がないものだから、気に入つたものだけ残してあるのでよけいに惜しい。

TV版の「座頭市物語」とそれに続く「新・座頭市」とか、できれば残しておきたい。

「新・座頭市」だつたと思ふが、北村和夫の演じた僧侶が悪くて素敵でねえ。
しみつたれた悪だとかイヤラシい悪、色つぽい悪など、悪にもいろいろあるけれど、まれにそんな形容のつけやうのない、とにかく「悪」そのものとしかいへない悪がある。
北村和夫の僧侶がそれだつた。
記憶がすでに曖昧だが、信者といふか檀家といふかをすつかり操つてゐるカリスマ性(といふことばもいまは安くなつてしまつたが)のある僧侶だつた。
抗はうにも抗ひきれない悪の力。
なにをたくらんでゐるのか底知れない肚の底。
たまらないよなあ。

長い期間放映してゐたドラマなので、何度も出演してゐる俳優もゐる。
小池朝雄はやつがれが見たかぎりでは三回出てゐて、いづれも土地の親分さん的な役回りだつた。
ひとつは原田芳雄回で、原田芳雄が島送りになり到底戻つて来られないだらうといふこともあつて、その妻(赤座美代子)といい仲になる親分さん。恩赦があつて原田芳雄が帰つてきてさあ大変、といふ話なのだが、小池朝雄の演じる親分はこのドラマに出てくる多くの親分と違つてそれほど悪い人ではない。
運が悪かつたよね、といつたところか。
さういふ風情がまたよくてね。
この回は原田芳雄もよくて、かたぎの中には居場所がなくてやくざな道に入つたもののその中でも居場所が見つからない人間の役を云ひ訳をほとんど表現しないままそれが云ひ訳になつてゐる、みたやうな、実にいい役だつた。
原田芳雄もこのあと二回ほど出演してゐるのを見たけれど、そちらは云ひ訳が多すぎるやうに感じた。

小池朝雄のふたつめの役は仇と狙はれてゐる親分。
もとは武士で、碁敵とのもめごとから相手を殺してしまふことになり、その息子(竹脇無我)から命を狙はれてゐる。
人情のあるいい役で、でも思つてゐたことと真逆のことが起こつてしまふ。
いい人がいいことをしやうとして、でも報はれない。
「新・座頭市」の一回目か二回目かの最終話だつたと思ふが、とても印象深い。

みつつめの役は、一見人徳者ながら実は腹黒い親分といふ、まあ、ありがちな役どころながら、これまでの二役とまつたく違つた趣で、「これはもしかしたら小池朝雄の親分さん七変化を楽しむドラマなのではあるまいか」といふ気さへしてくる。

ある俳優を楽しむドラマ、といへば蟹江敬三だ。
蟹江敬三も「座頭市物語」「新・座頭市」には何度も出てゐる。
最初は兄貴分らしきところはあるものの三下のやうな役だつた。出番もちよつとしかなかつたと記憶する。
それがだんだんいい役がつくやうになり、最後の役は市とさしで対するやうになる。
蟹江敬三といふ俳優の成長を見るやうなところがこのドラマにはある。

蟹江敬三といへば石橋蓮司……と話はいくらでもつづけられるけれど、今回はこのあたりにしやう。

あー、やつぱりDVD-Boxを買つてしまはうか、DVDならMacBookでも見られるし。
と、心は千々に乱れるのであつた。

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Tuesday, 22 May 2018

なにも作らなくなる日

タティングはここのところほとんどしてゐない。

先週、ニードルタティングの本を見かけたのでちよつとやつてみたていどだ。それについては先週ちよこつと書いた。

ニードルタティングの本といへば、いままでまつたく知らなかつた本が出版されてゐることを知つた。
盛本知子の本に「こんな本が出てゐますよ」といふ紹介が出てゐたのを見た。
もしかしたら書店にはならんでゐないのだらうか。
だとしたら知りやうがないな、とは思ふ。

ニードルタティングの本を見て、ひとつくらゐはきちんとなにか作つてみたいとは思つてゐる。
さうだなあ。なにがいいかなあ。
どうもニードルタティングのときは手がゆるくなるやうなので、やはらかくできあがつても使へるものがいいだらう。
さう思つて本をぱらぱらと見てはみるのだが、なかなかはじめやうとはしない。
よくあることである。

今週は、月曜日から出かけることが多くてまづなにかに着手するなんてことはできさうにないし、着手したとしてもまつたく進まないまま終はつてしまふだらうから、やはりはじめない方がいい気がする。

ニードルタティングはせつかく本を買つたのだから、なにか作つてみたいんだけどねえ。針も手元にあることだし。況やレース糸においてをや。

しかし、ここのところ昼休みにマクラメをしてゐる関係で、シャトルタティングの方もお留守になつてゐるのだつた。

あみものもしてゐないし、なんかここのところ低迷してゐるなあ。
わかつてはゐるけれど、どうにもならない。

もしかしたら今後はずつとこんな状態なのかな。
ふとそんなことを思つたりする。

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Monday, 21 May 2018

理屈はどうでもよくて

先週は林ことみの「エストニアで習ったレース」に掲載されてゐるかぎ針編みの三角スカーフをちよこつと編んだくらゐだ。
そろそろ終はりが見えてきてゐて、さうなると段々と編む手がにぶる。
ちやつちやと編む場合もあるけれど、仕上げのことを考へ出すとどうしたらいいか考へてしまつて、なかなか先に進めないのだつた。

この三角スカーフはそんなにきつちり整形しなくてもそのまま使へるので、あんまし仕上げのことは考へなくてもいいんだけどね。

そんなわけで、先週危惧したやうなリカちやんサイズのものばかりがんがん編んでしまふのでは、といふことはなかつた。
エミー・グランデや金票40番の在庫があまりないから、といふことはあるかもしれない。

ところであみものをしてゐると、「買つた方がやすい」だとか「売られてゐるものの方が堅牢だ」だとか「編んだものは洗ふのがめんどくさくて」だとかいふ考へが脳裡をかけめぐることがある。

くつ下を編んでゐると「Walmartでは一足一ドルで売られてるわよ」と云はれる、といふ話は Socknitters から折に触れ聞く話だ。ほんたうにそんなことがあるのかどうかは知らないけれど。

そこら中で安価に売られてゐるやうなものをなぜ編むのか。

編みたいから。

それに尽きる。

時折「手編みのセーターは機械で編んだものよりずつとやはらかくあたたか(くて着やす)いし、さらには糸も手で紡いだもので編んだらさらにさう」みたやうな話を耳にする。
手で作つたものが機械で大量生産されるものよりも尊い。
さういふことは確かにあるとは思ふ。

編んだものはほどくのが容易だからリサイクルにも向いてゐる。
それも確かにさう。

でも、だから手編みをするのだ、といふ人がどれくらゐゐるのか不明だ。

もちろん、手編みをする理由のひとつとして、さういふことをあげることもあらうとは思ふ。
でも、さういふのは、なんかこー、副産物といふかさ、二次的な理由なんぢやないのかなあ。

楽しいから編む。
好きだから編む。

さうなんぢやないの?
それに一々ほかの理由をつけなければいけないやうな世の中なのかもしれないけどさ。

ちなみに、最近はめつきりしなくなつてしまつたが、自分で紡いだ糸で編んだこともあるけれど、手入れが大変なのがちよつとなー、と思ふ。
市販の糸の方が洗濯に耐へる気がする。
毛の状態でスーパーウォッシュのものもあると聞くけど、さういふ毛で紡いだらいいのかなあ。

くつ下に関して云ふと、くつ下用毛糸で編んだものはかなり堅牢で、洗濯機でがんがん洗つても数年は使へる。
以前ここにも書いたやうに、手で編んだものは履き口をゆるめに編んだりそれでゐて脱げないやうにしたりが可能なので、さういふ点では市販のくつ下にまさつてゐると思つてゐる。
だから編むわけぢやないけどね。

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Friday, 18 May 2018

長命ななんでも帳

十一月の末から、LEUCHTTRUM1917 のポケットサイズを使つてゐる。
自分では「なんでも帳」と呼んでゐて、だいたい一ページ一内容でそのとき頭に思ひ浮かんだことをばーつと書き出すといふ使ひ方をしてゐる。

これまでなんでも帳はだいたい二ヶ月から三ヶ月で一冊使ひ切るやうなペースで書いてきた。
六ヶ月といふのはかなり長い。もしかするとなんでも帳を書き始めて一番長いかもしれない。

LEUCHTTRUM1917 が悪いわけではない。
これまでなんでも帳には Moleskine のポケットサイズや Smythson の Panama といつた通帳サイズの手帳を愛用してきた。
文庫本サイズのものも何度か使つてみたけれど、一番しつくりくるのが通帳サイズだ。
いま使つてゐるLEUCHTTRUM1917 は Moleskine よりちよつと大きいくらゐで、使ひやすいサイズであることに間違ひはない。
紙質も気に入つてゐる。なにしろ手持ちの万年筆で書いても裏抜けしない。
Moleskine を使つてゐたころは休めがちだつたペンもどんどん使へてゐる。

使ひやすいサイズだからどこにでも持ち歩く。
持ち歩かないことがないくらゐの勢ひだ。

それでゐて書けてゐない。

ここ三年ばかり、スケジュール帳はシステム手帳のバイブルサイズで Bullet Journal にしてゐて、さらに去年の十一月から5×3カードでPoICをはじめたことで、なんでも帳に書くことが減つてゐるのかもしれない、とは思ふ。

書く内容は違ふんだけれどもね。
Bullet Journal のメモと5×3カードに書くこととはかなりかぶつてゐて、そのとき手元にある方に書いてしまふこともある。
なんでも帳には Bullet Journal のメモや5×3カードに書いたことからふくらませた内容であることが多い。
メモをふくらませる時間がない、といふことはあるかな。

システム手帳のバイブルサイズはチトかさばるので、芝居見物のときには持つて行かないことも多い。
実際、芝居見物のときは幕間くらゐにしか書く時間がとれない。その幕間も忙しいことがある。
ゆゑに芝居見物の日は「今日は書く時間がとれさうにないなあ」と思ひつつも、なんでも帳だけはかばんに入れる。

なんか、それでいいのかな、といふ気がする。

手帳は持ち歩くことに意義がある。
どこにでも持参することに意義がある。
書き込むことは二の次だ。
書きたいと思つたときに書けることが重要で、実際にどれだけ書いたかは問題ではないのかも。

その LEUCHTTRUM1917もそろそろ使ひ切りさうだ。
次のなんでも帳はひさしぶりに Smythson の Panama にしてみやうかと思つてゐる。
ここのところなんでも帳には Moleskine がつづいてゐた。
そこに LEUCHTTRUM1917 をはさんでみたので、次はまた Moleskine、といふことも考へないでもないのだが、最後に Panama を使つてからずいぶんたつからなあ。

かうして次の手帳について考へるのもまた楽しい。

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Thursday, 17 May 2018

読書考

本を読めと人はいふ。

とくに昨今、スマートフォンばかり見てゐないで、本を読みなさい、と勧められる。

本を読むとなにがいいのか。
生きてゐるだけでは体験できないことを擬似的に体験できるのがいい、といふ話がある。
そこから敷衍して、他人の気持ちがわかるやうになるとか、視野が広がるといふ説もある。

ところで、本を読むといふ習慣が広まつたのはいつごろのことだらう。
江戸時代になると貸本業とかあつたやうだから、それなりに本を読む人もゐたのだらうか。
それは人の集まるところだけの話で、鄙の地ではさうでもなかつたのかな。

いづれにしても、本を読むといふ習慣はせいぜいここ二百年ばかりのあひだに広まつたものなのではないかと推測する。
広まつたばかりのころは、ほかにこれといつた娯楽もなくて、本を読むといふのは楽しいことだつたのではないか、とも思ふ。
「あまり本など読むものではない」と昔は云はれた、といふ話も聞く。ほんとかどうかはわからないけれど。

それでは、本を読む習慣がなかつたころの人はどうしてゐたのだらうか。
読まうにも、本が手に入らない、入つても字が読めない、そもそも本といふ存在を知らない、そんな人がたくさんゐた時代は、どんな状況だつたのだらうか。
人は、他人の体験を知ることもなく、相手の気持ちを思ひやつたり視野を広げたりすることもできなかつたのだらうか。

視野は広げられなかつたかもしれない。
でも、おそらくそれで困ることはなかつたらう。

おなじことは新聞にもいへて、いまの人は新聞を読め新聞を読めといふけれど、ぢやあ新聞のない時代はどうだつたのか、とも思ふ。
時代が変はつたから読まねばならぬのだらうか。
新聞のない時代の人々は読むことはできなかつた。だからといつていまの時代の人間より劣つてゐたといへるだらうか。

本にしても新聞にしても、読め、といふ根拠が曖昧な気がしてゐる。
ほんとに読んだ方がいいの?
読んでゐない人よりも読んでゐる人の方がいいことつて何?
スマートフォンといふこれまでなかつた技術に対して嫌悪感を抱く人が云つてゐるんぢやないの?
その証拠に昔は「TVばかり見てゐないで本を読みなさい」といつてゐたはずだ。

さう思ふのは、本を読むといふことは個人的なことだと感じてゐるからだらう。
どんな本をどう読まうが、読まうが読むまいが、そんなの個人の好き嫌ひの問題だ。
他人に押しつけられるものぢやあない。
読みたいときに読みたいものを読みたいやうに読めばいい。
といふか、さうさせてくれよ。
切実にさう思ふ。

だいたい、ほんたうに読ませたいのなら、「本なんて読んぢやいけませんよ」と禁じた方がよほど効果的なのぢやあるまいか。
「ここにはねえ、いけないことがいろいろ書いてあるんですよ」「あ、ダメ、それ以上読んぢやいけませんつて」とあふれば、人は読むのぢやないだらうか。
それともこの手法はこどもだましに過ぎないか。

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Wednesday, 16 May 2018

体力不足

体力がない。

高校生のときにはじめて定期券を手にして、移動範囲が広がつたのがうれしくて休みのたびにあちこち出かけてゐたら、あつといふ間に熱を出して寝込むことになつた。
当然学校も休んだ。
このとき母に「体力がないんだから、そんなにあちこち出歩いちやダメよ」といふやうなことを云はれた。
なるほど、自分には体力がない。

だからといつて「体力がない子」として育てられたわけではなかつた。
喘息持ちだつたから、とくに冬場の長距離走などは参加できなかつたこともあつたけれど大抵は走つてゐたし、体力がないといふ理由でなにかをしなかつたりなにかをしたりした記憶はない。
体力をつけろ、とは云はれたけれど、それは体力のある子でも云はれることだらう。

思ふに、いままで生きてきて体力があつた試しがない。
多分、人生の早いうち、こどものころのどこかで「体力がない人間なりの生き方」を身につけるべきだつたのだ。
あるいは人並みに体力をつけてゐればよかつた。
いや、若いうちに人並みに体力をつけたしても、もともとないんだから維持できたとは思へない。
やはり「体力がないなりのに生き方」を身につけねばならなかつたのだ。

自分は「普通の子」として育てられた。
普通の子がすることをするやうに、普通の人がたどるだらう道筋をたどるやうに育てられてきた。
それが、いまここに来てムリだな、と思へてならない。
もつと、自分にできることをできる範囲でやつて、それで生きていけるやうに育ててくれればよかつたのになあ。
さう思つてしまふ。

いまさらなにを云つてゐるのだ、成人したらあとは自分の責任だらう。
そのとほりかもしれない。
でもいま自分にできることをできる範囲でやらうとしたら、といふよりは、いましてゐることをやめてしまつたら、おそらく生きていかれない。

いざ生きめやも、か。

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Tuesday, 15 May 2018

久しぶりにニードルタティングと思ひしが

疲れ切つてゐる。
どれくらゐ疲れ切つてゐるかといふと、シャトルタティングとニードルタティングとの比較をするのにこのていどしか作れないほどだ。

Needle Tatting

以前はちやんとモチーフを作つて比較したのだつた。
その時の記事はここにある。

この記事と中にリンクされてゐる記事とを見て、はじめてニードルタティングをしたのは2009年だつたことを知つた。
ほぼ10年前ぢやあないか。
Time flies like an arrow. とはこのことだねえ。
その間、ニードルタティングはほとんどしてゐない。
もつぱらシャトルタティングをしてゐた。
そのシャトルタティングの方もお寒い状況といへないことはないけれども。

久しぶりにタティング用ニードルを手にしたのにはわけがある。
本が出版されたからだ。
はじめてのニードルタティング」といふ本である。

ニードルタティングの本は絶えて見たことがない。
高嶋タティングが近いといへばさうだが、こちらはいはゆる Crotat だ。使用するのもかぎ針だ。
長い縫ひ針のやうな針でのタティングの本は、海外で出版されたものしか見たことがなかつた。
針自体も見かけないしね。

高嶋タティング用のかぎ針と同様、タティング用の針はできるだけ太さが一定なものがよい。
普通のかぎ針や縫ひ針を見ると、大抵針の部分の太さが場所によつて変はつてゐるのがわかる。
縫ひ針でいふと針穴部分が一番太くて針先に向かつて細くなつてゐるはずだ。
タティングをする場合は針に糸を巻きつけてスティッチを作るので、場所によつて太さが違ふとスティッチのサイズも変はつてきてしまつて都合が悪い。

この本では針の入手先も紹介してゐる。
はじめたい人にはよさそうだ。

この本の特徴は、タティングで用ゐる技法をできうるかぎり紹介してゐることだ。
スプリットリングやモックリング、チェインの上にリングを作る方法やビーズをあしらふ方法も載つてゐる。
これを見れば、従来のシャトルタティング用に出版された本に掲載されてゐる作品をニードルタティングで作ることも可能だらう。
さういふ点ですばらしい本だと思ふ。
自分ではまださういふ技法に挑戦してはゐないので、この本を見ただけでできるやうになるのかどうかは不明だが、ステップごとに写真を掲載してゐるのでなんとかなるんぢやあるまいか。

ニードルタティングのむつかしいところは、糸と針との太さに相性があつて、うまいこと相性の合ふ組み合はせを見つけることが案外むつかしいことだらう。
上にも書いたとほり、ニードルタティングでは針に糸を巻きつけてスティッチを作る。
スティッチの大きさは糸の太さと針の太さと手加減とに依存する。
たとへば本ではオリムパスの金票40番はNo.7の針でタティングするやうになつてゐるが、やつがれの持つてゐるNo.7の針穴にはオリムパスの40番はちよつと太すぎるんだなあ。
糸通しを使つてもちよつと糸を通すのがむつかしいと感じる。
かといつてNo.7より太いNo.5だと針自体が40番を使ふには太すぎる気がする。

それでもやつてみたいと思つたのは、2009年ごろ、YouTube でニードルタティングをする人の手元を写した動画を見たからだ。
手の動きがとてもリズミカルで、楽しさうだつたのだ。
今回久しぶりにやつてみて、あのリズミカルさは蘇らなかつたけれど、本を見ながらモチーフでも作つてみるかな、と思つてゐる。
調子が戻つたら、だけど。

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Monday, 14 May 2018

人形サイズのものを編む

先週の月曜から通勤先が変はつた。
これまでより時間もかかるし混んでゐる。そのうへ先週は一日たりともまともに電車の動いた日がなかつた。

そんなんでもうへとへとで、自宅に帰り着いてもぼーつとしてしまひ、なにもできない状況である。
そんな状態なので、あみものも全然進んでゐない。
あまりにも進まないので、こんなものを編んでしまつた次第である。

Dress for Dolls

ものは「週末で完成! かわいいかぎ針編み リカちゃんのオールシーズンクローゼット」に出てゐるワンピースである。
色は違ふが指定糸のエミー・グランデをおなじく指定針の0号で編んだ。
スナップが手元にないので完成してはゐない。
あ、あと肩のストラップを編み忘れてゐるな。
日曜日に編みはじめて、とりあへずここまでは編めた。

もともと、あみものを再開したのは人形のものを編みたかつたからだ。
人形サイズだと毛糸も少なくて済むし、即できあがる。
それになにしろモデルがいいものだから、多少アレな出来でも着せるとそれなり出来に見える。

人形サイズのものを編むといいことに、とりあへず全行程を短期間でこなすことができる、といふことがある。
それまで人間サイズのセーターは完成させたものより挫折したものの方が多かつた。
さうすると脇を綴ぢるとか襟ぐりの目を拾ふとか、経験が足りない技術が増える。
作り目ばかりうまくなつたりね。

人形サイズのセーターだつたら、糸と針とは細いものの、前身頃も後ろ身頃もあつといふ間に編みあがるし、短いながらも脇の綴ぢもあり、肩のはぎもあり、襟ぐりを拾つて襟を編むこともできる。
まあ、正直云ふと、人形サイズだつたらセーターは最初から輪にして編んで綴ぢはぎのごろごろとした目のできないやうにしたいところだが、練習としては最適なのではないかと思つてゐる。

そんなわけで、しばらくは人形ものばかり編んでしまふかも。
その前にスナップを買つてくる必要があるがな。

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