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Monday, 04 May 2026

更衣

相変はらずの腱鞘炎であみものは全然できてゐない。
この連休は、秋冬に使用した自分で編んだものをだいぶ洗つた。
カシミヤのストールとかベイビーアルパカのレース糸で編んだパイショールとか、斜交ひカウルとか、その他もろもろ。
全体的に中細から極細で編んだものが多いためか、すつきり乾いた。

この秋冬一番よく使つたのは。ローワンのキッドシルクヘイズで編んだメビウスカウルだ。
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一玉使ひ切りで、頭から肩先まで覆ふくらゐの大きさになつた。
Img_9971-2
実際は折つて二重にして使ふので首周りをあたためるくらゐだつたが、ちよつとした雨の時は伸ばして頭からかぶつて使つたりもした。
モヘアは苦手なのだが、キッドシルクヘイズだけは気に入つて使つてゐる。
ちくちくしないから、かな。ちくちくするかしないかは人によるかもしれないが。
色はロイヤルブルーのやうな色で、もともと四年前の二月にパピーのクイーンアニーの同じやうな色で指無し手袋を編んでゐたのだが、いい色なんだけどほかに同じやうな色のマフラーなどを持つてゐなかつたため、手袋だけが浮いてしまつてあまり使へずにゐた。
今回、カウルを編んだのでこの指無し手袋にも出番ができた。
指無し手袋は捻りゴム編みを使つたもので、見た目にも品があり、フィットしてあたたかい。
次の秋冬もこの組合せで……と思ふが、キッドシルクヘイズの色違ひでメビウスカウルを編んでみたいといふ野望もある。
腱鞘炎がよくなりさへすればの話だが。

Wednesday, 01 April 2026

3月の読書メーター

3月の読書メーター
読んだ本の数:7
読んだページ数:1322
ナイス数:30

Project Hail Mary: A Novel (English Edition)Project Hail Mary: A Novel (English Edition)感想
いきなり一人称現在形で始まってびっくりしつつこれがなかなか効果的で、目の前でものごとが進んでゆくような感じで読める。回想場面は一人称過去形になり、いまどちらの話をしているのか即わかるのもまた効果的。最後は「阿倍仲麻呂ももしかしたらこんな気分になったこともあるのかなあ」と思ったり。読みやすく、過去の経緯も気になる一方現在直面している問題をどう解決するのかということも気になりつつ読み終えた。
読了日:03月15日 著者:Andy Weir
死んでいるかしら死んでいるかしら感想
「柴田元幸、シュールな内容のエッセイ集とか出してたよなー」と懐かしみつつ再読。本の題名でもある「死んでいるかしら」が秀逸で、よく出版社がこの題名を許したなとも思う。山本夏彦が『半分死んだ人』という題名で本を出そうとしたら「関西ではウケませんよ」と云われたという話も聞く。「死」はやはりどこかで禁忌で、でも山本夏彦や柴田元幸のように「自分はなんとなく生きていないかもしれない」と思っている人もいるんだな。柴田元幸はこんな感じのエッセイ集を二、三冊を出してその後ちょっと不思議な短篇集を出している。それも読みたい。
読了日:03月15日 著者:柴田 元幸
赤尾兜子の百句赤尾兜子の百句感想
赤尾兜子の俳句に興味があったのはもちろんのこと、藤原龍一郎の評も読みたかったので手に取った。でも自分にはまだ早かったかなあ。ただ、句作をする上で「もうこんなことは既にやつた人がゐる、やつた句がある」と知ることができたというのは大きい。
読了日:03月16日 著者:藤原龍一郎
夜長姫と耳男夜長姫と耳男感想
どうしたらこんな物語が書けるのだろうか。以前読んだはずなのにすっかり忘れていたことばかりで、はじめて読んだ時のように楽しめた。どうしても『贋作桜の森の満開の下』を思い出しながら読んでしまうのは、夢の遊民社等の芝居を見た人の内には避けられない向きもあろう。だから夜長姫は実在する。耳男も。ファンタジーのようで、リアルな話だ。
読了日:03月17日 著者:坂口安吾
はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)感想
共感を呼ぶにはまず驚きを与えること。共感しそうなことを直接提示するのは逆効果。つまり共感を拒みたければ、共感を得られそうなことを提供すればいい、と。
読了日:03月29日 著者:穂村 弘
星の古記録 (岩波新書 黄版 207)星の古記録 (岩波新書 黄版 207)感想
金星過日の件ではちょっと『砂糖の世界史』を思い出し、シリウスの色の話では『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』を思い出す。中国の史書の記述を見ていると「記録、大事」と思ったり。いろんなものがつながって見える。そんな本だと思った。
読了日:03月30日 著者:斉藤 国治
和歌でない歌和歌でない歌感想
どこで読んだか失念したが、「歌よみに与ふる書」が出るまでは人々は日記や手帳、家計簿の隅にちょこちょこっと単に五七五七七というだけの和歌を書きつけたりしたものだったという話がある(本当かどうかは知らない)。ここに掲載されている歌の中には、そうした日記の端に書きつけてあったかもなあというものもあり、短歌(と敢ていうが)ってそういう感じでいいんじゃないかなあと思ったりするのだった。
読了日:03月31日 著者:中島 敦

読書メーター

Monday, 16 March 2026

毛糸が減らない

もうせん、生きてゐる間に毛糸を使ひ切れるだらうかと思つてゐた。
多分できる。これ以上買はなければ、大丈夫。
さう思つてゐたのはいつのことだらう。
どうやら、指の腱鞘炎に悩むやうになつたのは、六年前のことらしい。
当時、マクラメをやらうとして結ぶだけならなんとかなつたのだけれども、形を作らうとするとうまくできず、残念なものを作つてしまつたことがあつた。
そのときの写真が出てきたので判明した。
マクラメをしたのは、したかつたからといふこともあるけれど、編み棒を持つのがつらかつたからマクラメならなんとかなるのではないかと思つたからだ。
ダルマの鴨川糸もあつたし。
結局、糸を切るだの端糸の始末をするだの細かい作業がダメなんだよね。
つまり、糸を使ふやうな手芸は無理、といふことだ。
いまも針を使ふだけならノールビンどニングはできるけれども、糸を切つたりつないだりといふのがつらいことがある。

毛糸は残る。
毛糸だけではない。ビーズは大半が残るだらう。
どうにもしやうがない。

Friday, 13 March 2026

俳文もどき

今日は寒かつた。
なるほど、これが「冴え返る」といふアレか、と、俳句を作るやうになつたから思ふ。
自分のことを「俳人」とは思へない。俳句をはじめてまだ二年半くらゐなのだから、そんなものだらうと思ふ。それより少し前にはじめた短歌もさうで、「歌人」とはちよつと思へない。実は短歌は角川『短歌』に歌が載つたときに「「歌人」、かも……」と思つたりもしたけれど、そんな気分はあつといふ間になくなつた。

詩のオンラインイヴェントで、東直子がこんな旨のことを云つてゐた。
「自分は自分のことを「歌人」とはなかなか云へなかつた。短歌で食べてゐるわけではないから。最近の若い人は結構自身のことを「歌人」と云ふ」
と。
これは、おそらく職業としての「歌人」か自認(identity)としての「歌人」かの違ひなのではないかと思ふ。
東直子は――いまでは短歌以外の創作活動もしてゐるけれど――歌人だらう。東直子が歌人でなければ誰が歌人だ。

自分が「俳人」だとか「歌人」だとかいへないのは自認の問題である。
毎日俳句も短歌も作つてゐるけれど、一句一首作るのが精々だ。
「俳人」ならば、「歌人」ならば、もつと作れるだらう。とくに俳人はたくさん作る印象がある。
それに、連作といふものがどうもいまひとつよくわからない。
歌集とか句集とかをもつと読むべきなんだらう。短歌の本も俳句の本も可能な限り呼んでゐるけれど、選集とかアンソロジーとかが多いせゐか、なかなか連作のイメージがつかめずにゐる。
連作が作れるやうになつたら、そのときはじめて「俳人」だとか「歌人」だとか名乗れるんぢやあるまいか。
そんな気もしてゐる。
ただの逃げかもしれない。

パンジーの寄りかたまりて冴え返る

Thursday, 12 March 2026

あの曲はどこへ行つた

小学校には登校の曲と下校の曲があつた。
登校のときはシュトラウスの「美しき青きドナウ」で、下校はサン=サーンスの「白鳥」だつた。
この話をすると、「下校の音楽はドヴォルザークの第九番第二楽章だつたな」といふ人も多い。
昨今の小学校には登校の曲も下校の曲もないやうだ。
さういや自分が通つてゐたころも、ご近所からの苦情があつたといふ。「うるさい」つて。
いやいや、うるさいもなにも、小学校のそばに引つ越してきたのはそちらでせうがよ、といふ話なのは、小学校のそばには新築の団地しかなかつたからだ。
まあでも、「うるさい」といふ声は多かつたのだらう。

小学校といへば、運動会で流れる曲は大抵きまつてゐた。
「クシコスポスト」「電光と雷鳴」「トリッチ・トラッチ・ポルカ」……
いまでも徒競走の場面を思ひ起こせば脳内に流れる曲ばかりだ。
題名は知らなくても知つてゐた。
いまはかういふことはないらしい。
なんだらう。JASRACに文句でも云はれたのかなあ。

家族はクラシック音楽などほぼ聞かなかつたから、学校で出会ふ曲は貴重だつた。
授業ではない場で聞けるといふことがまた貴重だつたと思ふ。

Wednesday, 11 March 2026

エフェクチュエイションことはじめ

エフェクチュエイションといふものを知つた。
起業家に人気(といふのか)なのださうで、さういつたものには普段は興味がないのだが、今回はちよつと違つた。
今敏のことばを思ひ出したからだ。

ゴールは設定するものではない。道行く途中で行く先はおのづと定まつてゆくもの

15年前、NHKのドキュメンタリーで知つたことばだ。
前後は覚えてゐないので何についてさう云つたのか記憶が定かではない。
しかし、「映画作りつて、さうなの?」と思つたことは覚えてゐる。
映画は、明確に終りがあつて、それで作るんぢやないんだらうか。
もしかしたら途中でいろいろなことが発生して、それで予定してゐたラストシーンは撮れなかつた、といふことはあるかもしれないけれど。
 
エフェクチュエイションは、ゴールを定めないとはいはないものの、とりあへず小さく始めてみて、途上のさまざまなことを取り入れつつゴールに向かはうぜ、といふ考へ方だと理解した。
それで生成AIに「Explain effectuation to me as I were an eighth grader.」みたやうな感じで聞いてみた。
生成AIの答への中には、不確実なできごとに不安を覚える人には向いてゐる考へ方である、といふやうなこともあつた。
 
んー、だが、どうも自分向きではなささうである。
といふことを生成AIに云つたら、さらにいろいろ教へてきた。
まだ全部読めてないけど。

Tuesday, 10 March 2026

ビーズバッグ

ここのところTLにビーズバッグが流れてくる。
ビーズバッグはビーズ刺繍だけれど、ビーズタティングでも作れるなあと思ふ。ビーズクロシェットでもいい。
さう思つて買ひ置いたビーズがたくさんある。がま口も少々だがある。
さういへば最近は穴ぢやなくてフレームに直に編みつけるタイプのがま口が売られてゐるのだつた。
とんだ浦島太郎である。

正直云ふと、ビーズバッグは作つても使はないと思ふ。
スマートフォンサイズに作ればもしかしたら使ふかもしれないが。
ああ、でも、ひとつくらゐは作つてみやうかな、ビーズバッグ。タティングでもいいし、かぎ針編みでもいいし、棒針編みでもいい。
最近ちよつと腱鞘炎がよくなつてきたし、もうちよつと痛くなくなつたら、作つてみやうかな。

Monday, 09 March 2026

ノールビンドニングのネックウォーマ

今日は少し冷えたこともあり、ノールビンドニングのネックウォーマをしてみた。
パピーのブリティッシュファインで作つた、極々小さいものである。タートルネックのセーターのネック部分だけみたやうな感じ。

このネックウォーマは、ブロディエン・スティッチで作つたと思ふ。伸縮性があるのは糸が細いからぢやないかな。
ほんとはもうちよつとゆとりのある作りになるはずだつたが、多分途中で目を落とすか二目一度をしたかしたんだらう、首にぴつたりくる。
細い糸で作つたわりには編み地がしつかりしてゐてあたたかい。ノールビンドニングつてさうなるよね、特にブロディエン・スティッチ。
といふほどにはスティッチの数を知らないのだが……『はじめてのノールビンドニング』に出てゐるスティッチしか知らないんだよね。

自分の住んでゐるあたりで使ふには、中細くらゐの糸でノールビンドニングするのがよささうな気がする。並太だとかなり編み地が厚くなるからだ。最初のころはブリティッシュエロイカで作つてゐて、大変あたたかいものができ、それはそれでよかつたけれども。
あと、ノールビンドニングでよく見かけるピンやブローチで留めるタイプのマフラーといふかスカーフを作つてみたいとは思つてゐて、これは中細だとさすがになかなかできないからもうちよつと太めの糸で作りたい。
留めるピンとかブローチがないのが問題だが、作つてゐる間に見つければいいかな。
作るとして。

Saturday, 07 March 2026

ふたりの尾上

『加賀見山再岩藤』の尾上はお初のはずなのに、なんだか初代の尾上と変はらないよねー。

なんてな話をしてゐたのだが、今月の尾上は違ふ。
少なくとも今日見てきた萬壽(自分の中ではまだ「時蔵」だつたりはするのだがそれはさておき)の尾上は『加賀見山旧錦絵』の尾上とは明らかに違ふ。元はあのおきやん(といふか)なお初なのだ。

かんたんに説明すると、『加賀見山再岩藤』は『加賀見山旧錦絵』を受けて河竹黙阿弥の書いた芝居だ。
黙阿弥の書いたにしては伏線の張り方がお粗末……といふのはまた別の話。
『加賀見山旧錦絵』では、お家転覆を図る兄を持つ岩藤が姫君大事の尾上を陥れ、室内履きの草履で打ち、失意のうちに尾上は自害する。尾上に仕へるお初は岩藤を討ち、尾上の無念を晴らして二代目尾上になる。
『加賀見山再岩藤』では、岩藤の亡霊が二代目尾上に報復しやうとする。

初代の尾上と二代目とが違つて見えるのは、一月に『加賀見山旧錦絵』を見たばかりだからといふこともあらう。
だから両方の尾上を比較することができた。
それは確かな気がする。
でも、やはり今月の尾上には初代にない芯の強さや多少はねかえりの部分が見て取れるんだなあ。
これがとてもおもしろかつた。
時蔵の尾上もおそらくさうなつてゐるのだらう。一月に尾上を演じたばかりだしね。

それにしても、萬壽で『加賀見山旧錦絵』の尾上が見たいねえ。
『伽羅先代萩』の政岡も。
『仮名手本忠臣蔵』の九段目の戸無瀬も。
もうせん萬壽は(当時は「時蔵」だつたが)、片外しがやりたいと云つてゐて、こちら「おお、おお、そのとほりだ。見たい見たい」と思つてここまでやつてきた。
国立劇場で『妹背山婦女庭訓』の定高を見られたときはほんとにうれしかつたものだ。
もうさういふことはないのかなあ。
国立劇場がないことが恨まれる。

Friday, 06 March 2026

映画ひまはりを見て泣けない

ウクライナが攻撃され始めたころ、映画館で『ひまはり』がかかつてゐた。
『ひまはり』といへばヘンリー・マンシーニのあのテーマ曲を聞くだけで涙が出てきさうになる。話の筋を思ひ出しても、だ。
誰も悪くないのになあ、とか。多分幸せなんだらうけど、でも幸せぢやない人々のことを考へたり、とか。

そんなわけで、もう泣く用意をして映画館に『ひまはり』を見にいつた。
泣く用意つて、泣く用の手ぬぐひを持つて行つたくらゐだけどさ。

でも泣けなかつた。
全然、一滴も涙が出なかつたのだ。
いま、テーマ曲を聞いても泣きさうなのに。

思ふに、戦争になつてしまつたのはいろいろ不可抗力なこともあるだらうとは思ひつつ、ムッソリーニを選んだのはこの人たちだらう、と思つたりとか。
とにかく雪原に延々と点々と連なる力尽きた兵士の姿が圧倒的すぎるとか。
まあいろいろ理由はあるんだとは思ふけど。

多分、見ながら全然話の筋とは関係ない方に興味が向いてしまつてゐるのかもしれない。
最初にジョヴァンナが訪れる役所のやうすに興味津々になつてしまふ、とか。
部屋のインテリアとか壁のやうすに集中してしまふ、とか。
花瓶にどんな花が何本刺さつてゐる、とか。
さういふことが気になつちやふんだよなあ。

おそらくほかの映画もさうなんだらう。
なんか不意をつかれたら泣けるんぢやないかと思ふんだけど。
その日を待つてゐる。

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