Wednesday, 26 June 2019

PCが使へない

そろそろ新人の配属が取り沙汰される季節だ。

もう配属されてゐるところもあらう。

四月以降、二度ほど「Excelが使へない」「PCを使つたことがない」といふ話を聞いた。

いづれも別の部署の話ではある。


「Excelが使へない」といふのは、お客さんからの苦情だつたらしい。

新たに配属された若人が、どうやらMicrosoft Excelの使用に慣れてゐないといふことのやうだ。

慣れてゐないといつたつて、別段Excelで関数を使つたりマクロを書いたりするといふ仕事ではなささうだ。

おそらく、Excelで文書を作成することに慣れてゐないのだらう。


Excelで文書を作らうといふ方が間違つてゐる、と、やつがれなどは思ふが、それは置く。


噂ではあるものの、なにか文書を作らせやうとしたら、「文章はスマートフォンで打つてPCに送つてもいいですか」と訊いてきた新人もあるといふ。

スマートフォンでそんな長文が打てるのか、とも思ふが、大学を出てゐるとしたらレポートは全部スマートフォンで作成してゐたのだらうし、あれば卒業論文だつて書いたのだらう。


スマートフォンで打つとしたら、どれくらゐの長さのものが打てるだらうか。

たまにこのblogのエントリもスマートフォンで書くことがある。

さうすると明らかに文章が短くなる。

入力しづらさよりも、画面が狭すぎる気がするんだな。

このエントリはキングジムのポメラDM100で打つてゐる。

画面の大きさは似たやうなものぢやないか、といふ話もあるが、Page Up / Page Down が効くのが大きい。

スマートフォンだとフリックで移動することになると思ふが、それだと一ページ分きつかり移動するとかがむつかしいと思ふんだよね。


一番大きいのは慣れだらうけどもさ。


スマートフォンでは音声入力もしやすいからそれで文章を入力してゐるといふこともあるか。

でもなあ、だとしたら最近のPCにも音声入力はありさうな気がするんだがなあ。


いづれ職場からPCが姿を消す日がくるだらうと思つてはゐる。

でもそれはもつと遠い先のこと、自分はとつくにあの世に行つてしまつた後、と思つてゐた。

案外その日は近いのかもしれない。

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Tuesday, 25 June 2019

タティングシャトルをよくなくす

よくものをなくす人がゐる。
さうでない人にはおそらく理解できないと思ふが、さういふことはある。

Yarn Harlot aka Stephanie Pearl-McPheeはテープメジャーをよくなくすと書いてゐたやうに記憶する。
「えー、テープメジャー?」と思つてゐたら、先日テープメジャーが見つからないといふ事態に陥つた。
幸ひなことにすぐに出てきたけれど、それ以来テープメジャーといふものはなくなるものであると認識するやうになつた。
ちなみに、いつもは右側の手芸用具入れに入れてゐたのに何かのはづみで左側に入れてゐたのが敗因だつた。

自分がよくなくすものはなんだらう。
いろいろ考へてみたが、もしかするとタティングシャトルかもしれない。
クロバーの鼈甲風タティングシャトル(いまではさうは云はないのかもしれないが)は、いくつ買つたかわからないくらゐだが、どうも手元にはそれほどない気がする。

どこに消へたのだらう。
おなじクロバーの色付きのシャトルはそんなことないんだけどな。
色付きで五つセットで売られてゐるシャトルはいままで三セット買つたことがあつて、いづれも行き先はわかつてゐる。
二セットめは色が増えたから買つて、三セットめはその前に遣つてゐたシャトルの角が豪快におれてしまつたりして遣ひづらくなつたから買つた。

それと、木製のものとかちよつと特殊なタティングシャトルはなくしてはゐない。
一時なくしたかと思つて青くなつたこともあるが、ちやんと出てきた。

といふことは、クロバーの鼈甲風シャトルに限つてなくしやすいといふことだ。
なぜだらう。
タティングをしはじめたはいいものの、途中で挫折してそのまま忘却の彼方に行つてしまつたのだらうか。
多分さうなんだらうな。

鼈甲風シャトルは二つセットになつてゐて、片方に金、もう片方には銀のシールが貼つてあつて、二つ遣ひがしやすいんだよね。
あと当時出てゐた五色のシャトルは色があまり好きではなかつた。
でもシャトルを四つ一度に遣ふ作品を作つてみたくて買つた。
つまり、あまり積極的に遣ひたいタイプのシャトルぢやあないといふことだ。

さう考へると、鼈甲風シャトルは手に入れやすくて遣つてゐてもちよつと嬉しいし、そんなんでつひ買つては遣つてゐるうちにどこかに行つてしまふ、とか、さういふ感じなのかなあ。
なにしろどこかに失せるメカニズムがわからないのでどうしやうもない。

いづれにせよ、お道具はもつと大切にしなければ。

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Monday, 24 June 2019

片づけないことも大事

かぎ針編みのヴェストはあと裾を編むだけとなつた。
毎段減らし目があつて、どんどん進むやうになつた。
これまでは前身頃の前立てと前身頃後ろ身頃の裾をつづけて編んでゐたものだから一段が長くて、一日に一段編めれば上等といふ感じだつた。
それが日に何段か編めるやうになつた。

問題は、またぞろ腱鞘炎めいた症状が出てゐることだ。
くさり編みをしてゐる最中に糸をかけた左手の人差し指が動いてゐるのが原因らしい。
糸のかけ方がきつすぎるのかなあ。
でももうずつとこれでやつてきたから、いまさら変へたら編み地のやうすも変はつてしまふし。

といふので、休み休み編んでゐる。
ここまできたらもう仕上がらないこともなささうだしな。
あと五cmほど編めばいいだけだから。

ひとつ、きちんと進められてゐる理由がある。
それは、目につくところに編みかけのヴェストをおいてゐるといふことだ。
いすに座つて落ち着いたら即手の届くところにおいてゐる。
ひとたび座ればいつでも編み始めることができる。
これ、重要だと思ふんだよね。

編み終はつたらきちんと仕舞ふやうにしてゐると、目に付かなくなつて忘れてしまふことがある。
さうさう毎日編む時間がとれるわけでもないしね。ほかにしなければならないこともたくさんあるし。

でも、目の端に編みかけがあるのがわかれば、「ぢやあちよつとだけ編むか」といふことになる。
そのときにはムリでも「あとでちよつとだけ編まう」といふことも可能だ。
あまりなにもかもきれいに片づけてしまふとダメなんだよね。

といふのは片づけられない人間の云ひ訳ではあるのだが。

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Friday, 21 June 2019

「わたしを見て」とニジンスキー は云ふ

しかしまあよくぞここまで口から出まかせといはうか指先から出まかせといはうか手で書く時はペン先から出まかせが出てくるものだなあとは思ふ。

それも全部内容は「わたしを見て」であつて「わたしを見て」といふと青池保子の「イブの息子たち」のニジンスキーを思ひ出してしまふのだがなにを隠さうニジンスキーこそは「イブの息子たち」で一番好きな登場人物であつてだつたら本望と思はないでもないし結局ヴァーツラフ・ニジンスキー本人に興味を持つたのもこのニジンスキーのおかげだつたりはするのだから世の中捨てたものでもない。

千野帽子の「俳句いきなり入門」にはこの「わたしを見て」をくさした文章があつてだいたい人の云ひたいことといふのはこの「わたしを見て」に集約できてしまふものでたいしたヴァリエーションはあり得ずゆゑにそんな俳句はおもしろくないといふやうな内容だつたやうに記憶してゐてだつたらどうすればいいのかといふと自分の外にあることばを用ゐればいいといふのは漢詩の作り方の本にもあつてこの考へ方は世間的に共通のものなのだなあと思つたことがある。

ぢやあかうしてblogに書くこともおなじことで自分の外にあることを書けばいくらでも書けるはずなのだが気がつくと「わたしを見て」になつてしまつてゐてどうしたものかと思ふのだがどうにもできずにここまで来てしまつてほんたうになんといはうか自分の世界の狭さに途方に暮れつつ自己中心的といふのはかういふことなのだなあとうなだれるしかないのだつた。

だからおなじことばかり書いてしまふといふことはあるしおなじことばかり書いてもいいぢやんと森茉莉や山本夏彦の著書を読むと思ふのだがあなたどう思ひますかといふこの問ひかけは筒井康隆が以前よく用ゐてゐたものでつひ真似したくなるのは人情であり森茉莉や山本夏彦を読んでおなじことばかり書きたくなるのもこれまた人情なのである。

だいたい自分の世界が狭いのは出かけたくないからだし人と会ふのそんなに得意ではないといはうか気の合ふ人と会ふのはいいのだがこと出かけるといふことに関しては毎日出かけてゐると確実に体調をくづすことがわかつてゐてそれはもう高校生のころからさうなのでこればかりはどうにもならないし体力をつければいいと云はれてもぢやあどうすれば毎日出かけても大丈夫な体力がつくのかと問ふ相手もゐない。

高校生の時に横浜駅まで定期券を持つやうになつて入学当初は嬉しくてといふよりはせつかく定期券があるのにもつたいない気がして休みの日も出かけまくつてゐたら四月のうちに熱を出して寝込んだことがあつていま考へてみたらそれは毎日出かけてゐたことよりも新しい学校や新しい級友新しい教師に慣れてゐなかつたせゐなのではないかといふ気もするのだがそれ以来出かけることには慎重になつてゐる。

出かけるのが嫌ひなのに休みの日にしたいことは出かけることばかりだとは以前も書いたとほりで芝居見物だとか落語だとか映画だとか出かけることばかりしてゐてあまり休めた気にならないのだがこれも仕方のないことで落語と映画とはどうなるかよくわからないけれど芝居に関してはそのうち見に行かなくなるのではないかといふ気がしてゐると書くやうになつてもう十年くらゐたつてゐる気がする。

それつてほんたうに自分のしたいことなのかなとよく思ふが世の中の人はさう思つたりしないのだらうかと時々不思議になるのも道理であつてでも世の中の人はかうして自分語りをしないからなにを考へてゐるのかわからないんだよなあだつたら世の中の人が全員「わたしを見て」つてすればいいのにと思ひつつもいまはSNSなどがさういふ役割を果たしてはゐるのだらうと思はないでもないけれど若者はTwitterしないしLINE離れもはじまつてゐるといふからどうしてゐるのか定かではないと書きつつさうかInstagramかなとも頭の片隅に思ひ浮かべたりはするけれどInstagramも世間で取り沙汰されるやうになつてずいぶんたつ気がするので気の利いた若いものはもうとつくにそんなところにはゐないのではあるまいかとも思ふのだつた。

こんな感じでいつまでも書いてゐられるし書いてゐたいのだが時間が許さないのはいつものことで時間さへあれば延々とかうしてゐられるといふのは「徒然草」にあるとほり「あやし」く「ものくるほし」い気持ちになるからなのではないかといふ気がしてゐてそれつて多分脳内麻薬的ななにかが出てるつてことなんだらうなあと思ひつつ「徒然草」も「わたしを見て」な部分があるよなあなどと思ふにつけさういへば「枕草子」もだよなあなどと妄想は広がり「わたしを見て」とさうでない部分とのバランスとか「わたしを見て」と云つてゐる人間の個性とかに思ひを馳せるわけだが残念ながらやづかれにはさうしたバランス感覚に欠けるところがありさらには人間としてつまらないのでどうにもならない。


とりあへず帰宅したら「イブの息子たち」を出してきて読まう。

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Thursday, 20 June 2019

読む力と四技能

大学受験の英語について世間で取り沙汰されてゐる。
読む・書く・聞く・話すの「四技能」がどうだとか、業者テストを取り入れるの入れないのといふ話だと理解してゐるが、自分には関係がないのでよくわからない。

実は国語の試験も大変に変はらうとしてゐるらしいのだが、こちらはあまり話を聞かない。
英語が騒がれてゐるのだから国語も騒がれて然るべきだと思ふんだがなあ。
そもそも英語が喋れないのは日本語が喋れないからなのにねえ。

言語については、人はみづから読める範囲でしか聞くことも書くことも話すこともできないのだ、といふ。
これは大学受験の英語に関する言説の中で見かけた意見だ。
読める範囲でしか書けない、聞き取れる範囲でしか喋れないといふのはつとに感じてはゐた。
もつと云ふと、読めるほどには書けないし、聞き取れるほどには喋れない。
読んでわかることばでも自分で遣ふことができないものがいくらもある。

といふわけで、受験英語の「四技能」とやらはほんとに必要ですか、といふ話に進むのかもしれないが、ここはさうではない。

さうなんだよ、読める範囲、読み取れる範囲でしかことばを遣ふことができないんだよ。
といふことはさ、読むこと大事つてことなんぢやないの。

でも国語教育つて、読むことを大事とは思つてないよね、どう見ても。
いまの教育はどうだか知らないけどさ。
読書は家庭でのしつけ(といはうか)にまかせてゐるのだらうか。
我が親のやうに「本を読むより外でともだちと遊んで来い」といふやうな家で育つたらさういふ機会もないんだぞ。
どうするんだよ、そんな親ばかりだつたらさ。

とはいへ、読書が一般的になつたのはさう昔のことでもないと思ふので、一概には云へないとは思ふのだが。

できる子ははふつておいてもできるからそれでいい、といふことなのかなあ。
でも日本の教育つて、さうはは謳つてゐないと思ふんだよなあ。
教育も平等に。
さう云つてゐるやうに思はれる。

いづれにしても大学受験はもうやつがれには関係がない。
それが気になるのはどうしてなのだらうか。

少しは Bystander Effect の原因にはなりたくないと思つてゐるのかな。

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Wednesday, 19 June 2019

わけのわからない芝居の話

古典歌舞伎には荒唐無稽な話が多く、見たあと「なぜさうなる?」と納得できずに家路につくことがある。

芝居の成立年が古いから、それで現代の感覚と合はなくなつてゐるのだらうか。
それはあるだらう。

江戸時代……といつても長いからどの時点のかと問はれると答へられないし全国的にさうだつたかどうかも定かではないのだが……と現在とでは「主人公」のとらへ方からして違ふ気もする。

といふのは、「南総里見八犬伝」を読んだときに主人公は里見の殿だと書いてあつたからだ。
実を云ふと、八犬伝は最初から最後まできちんと読んだわけではないので大きなことは云へないが、でも、読んだ範囲でいふと里見の殿が主人公なのは冒頭部分だけで、八つの玉がはぢけて飛んだあとはさうとは云へないのぢやあるまいか。
そのあとしばらく主人公は信乃のやうに思へるし、現八になつたり親兵衛になつたりする。
全体の主人公が里見の殿か、と問はれても「うん」とはいへない気がするんだなあ。

また、義太夫狂言に「義経千本桜」といふ作品がある。
これも全部を見たことがあるわけではないのでものの本で読んだことだが、義経が主人公なのは近年では上演されない冒頭部分だけで、あとは知盛だつたり権太だつたり狐忠信だつたりが主人公の話がつづく。

例が二つしかなくて恐縮だが、どうも当時(といつて具体的な年代があげられなくてさらに恐縮だが)は主人公といふのは狂言廻し的な立場にある登場人物のことをさしたのではないかといふ気がする。

そこからして違ふのだから(とは推測に過ぎないが)、話の流れの好みも違つても当然かと思ふ。

だが、普段だつたら「え、なんでかうなる?」と思ふ芝居がすつかり腑に落ちることもある。

出てくる役者に古怪な味があるときだ。

さうなるともう「ああ、これはこれでいいのだ」「これはかうなくてはかなはぬかなはぬ」といふ気分になる。

「摂州合邦辻」の合邦住家の段などを見てゐると、やれ玉手御前はほんとは俊徳丸のことが好きだつたのなんだのと取り沙汰されることがある。

それは現代的な感覚でなにごとにも理屈をつけないと気の済まない客が見るからさうなるのだ。

そんな野暮なこと云ひなさんな。
そのまま浮世絵になりさうな役者で見てみるといい。
「ああ、これはかうならないといけない」「なにはどうあれ、かうなるのが正しい」と思へる。
思へない人もゐるかもしれないけども。

話にいろいろ理由をつけたくなるのは現代を生きる人間にとつては仕方のないことで、それは演じる側もさうなのだらう。
「なんでかうなる?」と疑問を抱き「きつとかうだからだらう」といふので演じてゐるから見るこちらも「さういふことか」と思ふやうになる。

でもそんな理屈は圧倒的な力でねぢ伏せてほしい。
わけわかんなくてもいいぢやん。
歌舞伎なんだからさ。

問題はいま「そのままで浮世絵になりさうな役者」がさうはゐないことだけれども、たまさか、役者の背後に雲英が見えることがある。

だから芝居見物にも行くのだらう。

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Tuesday, 18 June 2019

いつかルノワールの絵の前で

タティングはモバイルに向いてゐる。
Nina Libin も「ノマド向き」といふやうなことを書いてゐた。
糸にビーズを通してシャトルに巻き付ければ持つて出かけてタティングすることができる。
そんな内容だつたと思ふ。

Medium にも「飛行機でタティングをしてゐると「それはなに?」と声をかけられる」といふやうなことを書いてゐる人がゐる。
この人はフィラデルフィア美術館でルノワールの「タティングする少女」の絵の前でタティングシャトルを手に絵の中の少女とおなじポーズをして写真を撮つてもゐる。

ボビンレースとかだとかうはいかないよなあ。

そんなわけで、タティングはすつかりモバイル手芸となつているわけだが、ときに「それでいいのか」と思ふこともある。
家で落ち着いた状況でするべきぢやあないのか。
さうしないときちんとしたものを作れないのでは。

つねに同じ状態で落ち着いてシャトルを遣ふ。
それではじめて成り立つものではあるまいか。
目の具合だとかピコの具合だとか、一定に作るのには精神的にも安定した状態が必要だ。

とは思ふのだが、でも、さうかなあとも思ふ。
あみものにしてもタティングにしても手の動きは機械的になるものだ。
ものはあまり考へない。
むしろ考へた方が失敗する。
さういふ状況さへたもてれば、どこでしやうとあまり関係ないのではないかなあ。

そんなわけで、今日もシャトルを持ち歩いてゐる。

フィラデルフィア美術館に覗きに行つたあかつきには、ルノワールの絵の前で写真を撮つて来ることにしたい。

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Monday, 17 June 2019

なかなか仕上がらない

あひかはらず「美しいかぎ針編み 春夏27」に掲載されてゐるネット編みのヴェストを編んでゐる。
一番目数の段を編んでゐて、あと数段は編まなければならない。しかも編んでゐるあひだにも毎段増し目がある。
これが終はつたらあとは減らし目の段に入るのですぐできあがる予定なんだが。
完成は遠いなあ。

このヴェストはエミーグランデで編むことになつてゐて、そのとほりに編んでゐる。
糸の色は本とは違ふけれど、なかなかいい色だ。

エミーグランデは着るものを編むには細すぎるなーと思つてゐたが、編んでみると案外さうでもない。
ネット編みだから興が乗ると延々と編めてしまふからかもしれない。

「美しいかぎ針編み 春夏27」には金票40番で編むヴェストとプルオーヴァも掲載されてゐる。
どちらもパイナップル模様で、とくにプルオーヴァは編んでみたい気がする。
模様がきれいなんだよね。
しかしなにを云つても40番の糸で着るものを編むものは、ちよつと、なー。
去年だつたか40番で細長いスカーフを編むのにもずいぶんと時間がかかつたもんなあ。

ヴェストを仕上げたら、「毛糸だま」に載つてゐたブリューゲルレースのストールを編みたいやうな気もするし。
いつ仕上がるかわからないけどな。

それはヴェストもさうか。

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Friday, 14 June 2019

心のゆとりはスピリチュアル

水曜日に「How to be a Gentleman」について書いた。
このとき「How to be a gentleman」でWeb検索をかけたところ、007のころのショーン・コネリーの写真がひつかかつてきた。

ステキだなあ。

実を云ふと、若いころのショーン・コネリーはちよつと苦手だ。
なんか、くどい。
さう思つてゐたしいまでもさう思つてゐる。

だが、写真のジェイムズ・ボンドは様子がよかつた。
白黒写真だつたから、よい加減に過剰さが抑へられてゐたのかもしれないとも思ふ。

ステキだと思つた理由のひとつが、なんだか余裕が感じられるから、だつた。
いつからか、映画の007には感じられなくなつたものだ。
ロジャー・ムーアのボンドには、これとはまた違つたゆとりがあつたやうに思ふ。
いつごろからだらうなあ、この余裕といふかゆとりがなくなつてきたのは。

「How to be a Gentleman」でも書いたやうに、紳士の要素のひとつに「気持ちのゆとり」がある。
もつともやつがれに足りないもの、とはそのときにも書いた。
では、心に余裕を持つにはどうすればいいか。

これをWeb検索にかけると、いきなりスピリチュアルな趣のサイトばかりひつかかつてくるのはなぜなんですかねー。
まあ、なんとなく予想はしてゐたけれど。

「紳士たるには」の検索結果はさうでもないのになあ。
「紳士たるには」の検索結果には、わりと具体的にかういふ行動をとるといいといふやうなものが並んでゐる。
「心に余裕を持つには」とかだとなぜこんなに宗教がかつたやうな内容になつてしまふんですかねー。

昨今の007に余裕が感じられないやうに、世の中、どんどん余裕やゆとりといふものがなくなつてきてゐるのだらう。
人はそこはかとなくさう感じてゐる。
でもどうすることもできない。
それで頼る先が宗教やスピリチュアルなもの、といふことなのかなあ。

心のゆとりはさういふところにしかないのだらうか。
「老後の心配は不要ですよ」と一生かかつても遣ひ切れないやうな大金を差し出されたら、不安もなくなるのではないか。
それともいきなり大金を目の当たりにしてかへつて余裕がなくなつてしまつたりするだらうか。

いづれにしても、007のときのショーン・コネリーはやつぱりいいのであつた。

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Thursday, 13 June 2019

挨拶は礼儀のうちに入らない

職場で、「挨拶なんてどうでもいいぢやん」といふ話をしてゐる人々がゐる。

声の大きい人がさう云つてゐるので、その場にいる全員がさう思つてゐるのかどうか定かではない。
いづれも仕事のよくできる人々で、「ああ、現在はさういふことになつてゐるんだな」と思ふ。

やつがれは古い人間なので、心のどこかで「Manners maketh man.」と思つてゐる。
#自分が礼儀正しいかどうかはまた別の話。
だから、「紳士になりたい」などと時代錯誤なことを考へたりもする。

幼いころから「礼儀正しいとはどういふ状態を指すのか」がわからず、他人と会ふのが不安だつた。
「無礼な人間」「礼儀をわきまへない人間」と思はれるのが怖かつたからだ。
それはいまでもかはらない。
おそらく礼儀といふものは時代によつて変はる。
その場その場でも違つてくるものだらう。
えうは臨機応変の才に欠けてゐるといふことだ。

思ふに、挨拶をすることは礼儀の一環ではないのぢやあるまいか。
挨拶をする人=礼儀正しい人ではない、といふことだ。
挨拶をすることがあたりまへになつたからではない。
挨拶をする人が少なくなつたからだ。
さして親しくもない他人から挨拶されることを厭ふ人が増えたから、といふこともあらう。
つまり、挨拶をするといふことは相手に嫌がらせをするといふことに等しい。
それは礼儀正しいとはいへないよな。

ここでもやはり自分は淘汰されるべき人間のやうだ。

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